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           チベット問題の平和的解決
                         横浜国立大学   村田忠禧
 以下は、横浜国立大学教育人間科学部教授・村田忠禧先生からいただいた、「日中友好協会」の機関誌『日本と中国』に、「チベット問題」についてご発言なさったものです。報道からは中々得られない情報も多く、私たちにとって、新鮮なご考察です。去る5月12日に世界を震撼させた四川省大地震に触れて、以下のようなメールを頂戴しました。《中国四川大地震に世界中が釘付けになっており、私もそうです。/いま考えていることは、震災からの復興に日本としてどのような支援ができるか、ということ。/日本は地震大国ですので、いろいろ日本の経験、知識、技術が役立つと思うので、ぜひこの機会に積極的な支援策を出すことが、中国にとって大助かりですし、またそれによって日本の評価も高くなり、「戦略的互恵関係」というのが単なるスローガンにとどまらないものになると思っています。/横浜国立大学にも四川省からの留学生がおり、彼女の実家および工場は崩壊したとのこと。ですから他人事ではありえません。//チベット問題について、最近『日本と中国』という社団法人日中友好協会の新聞に書いた文章があります。/今後、平和的に解決する可能性は十分ある、というのが私の「読み」です。》衆知の通り先生は、学術・文化の面で、日中関係の推進にご尽力下さっておられます。〈漢点字〉も折々にご紹介下さいます。

 5月4日、深せん(土/川)で中国政府関係部門とダライ・ラマ特使との非公式協議が行われた。6月には公式協議が行われる、とダライ・ラマ側は発表している。
 この非公式協議に先立つ3月28日にダライ・ラマが発した中国人向けメッセージにおいて、3人の中国の最高指導者に言及していることは注目に値する。
 1人は毛沢東である。1951年から1957年までに毛沢東は少なくとも13通の書簡もしくは電文をダライ・ラマ宛に発している。ダライ・ラマからも同数以上の書簡や電文が毛沢東宛に発せられていると推測できるが、私がこれまで読むことができたのは1951年10月24日の公式電文のみ。歴史の真相を明らかにするため、すべて公開されることが望まれる。毛沢東の1956年8月18日の書簡では「この手紙をあなたは読めたでしょうか。草書の字がまだ多く、すぐには改められませんが、前回よりは少なくなりました」と中国語を学び始めたばかりのダライ・ラマへの配慮を示し、チベットの若き指導者の成長を温かく見守る姿勢がにじみ出ている。ダライ・ラマは3月28日のメッセージにおいて、かつて自分が全人代常務委副委員長として北京に滞在した1954〜55年当時のことを「毛主席からはいろいろな問題について多くの教えをいただき、チベットの将来について彼本人から多くの承諾をいただきました。それらの承諾に励まされ、また当時の中国の革命指導者たちの決意と情熱に鼓舞されて、私は期待と信念を胸にしてチベットに戻り」、「中華人民共和国という家族の枠組みのなかで名実相伴った民族区域自治を実現するために努力しました」と回想している。
 毛沢東はダライ・ラマたちチベットの上層支配層の開明的な対応に期待を寄せていたが、必ずしも歴史はそのようには進まなかった。彼が59年3月にチベットを脱出したあと、チベットでは民主改革が実施され、封建農奴制が撤廃され、チベットは新しい社会となった。チベット自治区は1965年8月に成立するが、自治区準備委員会主任委員であった彼はこれに関与していない。しかも翌年から文化大革命の嵐がチベットのみならず、中国全土に吹き荒れた。
 ダライ・ラマのメッセージで2番目に登場するのはケ小平である。1979年3月12日にケ小平が「チベットの独立という問題を除くならば、すべての問題は交渉可能である」と特使として派遣された兄に語ったことを明らかにしている。この時の会見は『ケ小平年譜』に断片的に紹介されており、ケ小平は「ダライ・ラマが帰って来るのを歓迎するし、より多くの人が見学に来るのを歓迎する。もしも帰国したくなく、ただ帰って見るだけ、というのでも歓迎する。帰ったあとまた出て行ってもよい。もし彼らが帰国するなら、政治的に適切な配置を行う。往来は自由である、ということを保証する」と述べている。「政治的に適切な配置」とはかつてダライ・ラマが全人代常務委員会副委員長であったことを念頭に入れての発言であろう。ダライ・ラマは「我々はすでに中華人民共和国憲法の枠組みの範囲内でチベット問題を解決する道を模索する方法を公式化していましたので、これをあらたな好機と捉え」、中華人民共和国の当局者と何度も会った。2002年に新たな交渉が開始されて以来、すでに6回に渡る交渉を行なって来たが、実際には何ら進展がなかった、と述べている。
 三人目の指導者は胡錦濤である。ダライ・ラマは「調和ある社会(和諧社会)」の建設を掲げる「胡錦濤国家主席の政策を高く評価し、支持」していると表明する。自分は「中華人民共和国という大家族の一員として自分をみなす準備ができている者」であり、胡錦濤が今年3月6日の全人代チベット代表団との交流において「チベットの安定は全国の安定と結びついている」と発言したことに、チベット問題解決への期待感を持ったことを表明する。しかし一方では今自分は「分離主義者」、チベット各地のデモや抗議行動の指揮者であるという非難を受けている、とその不当性を訴え、対話を促進し、寛容と理解の基礎の上でチベット問題を解決することに努力するよう訴えている。
 4月6日のチベット人向けメッセージにおいても「チベットの将来について、中華人民共和国という枠組み内で解決を図ることを決意しています」と表明し、さらに4月24日の全世界の中国人信者向けメッセージでも「チベット独立を求めるものではなく、われわれが求めるものはチベットの仏教文化、言語文字、民族特性及びすべてのチベット人民が享有する実質的意義での自治」であることを重ねて表明している。
 こう見てくると、ダライ・ラマの3月28日、4月6日、4月24日のいずれのメッセージにおいても中国政府と中国共産党への非難が随所に見られることは事実だが、本質的なことは対話によるチベット問題の平和的解決を求めていることにある。中国政府当局が対話再開に応じたのも、それを見取っているからであろう。したがって双方が努力すれば対話が実を結ぶ可能性は十分にあり得る。ただし現時点では双方に根強い不信感が存在しており、必ずしも前途を楽観視できない。
 5月4日の非公式協議において、中国側は分裂活動の停止、暴力活動とその煽動の停止、北京オリンピックの妨害活動の停止という三条件を挙げ、その実現を次の協議のための条件としている。興味深いことはダライ・ラマが5月15日からドイツ、イギリスへの訪問活動をしていることである。これまでダライ・ラマはオリンピックの開催を誇りに思い、楽しみにしている、と表明している。北京オリンピック反対運動が吹き荒れたヨーロッパで、彼がどのような役割を演ずるのだろうか。その結果次第で6月開催といわれる次の正式協議の日程も確定するのだろう。もしダライ・ラマが平和的解決のために努力していることが明白になったら、中国側も積極的に応えるべきであり、その具体的対応としてオリンピック開会式に彼を招待することを提案したい。ついでに青藏鉄道に乗ってチベット自治区を自分の目で見てもらえばいい。1971年、名古屋で開催された世界卓球選手権大会に参加したアメリカ選手代表団を毛沢東の決断で中国に招いたことが、アメリカと中国との歴史的和解の突破口になったのと同様、「一つの世界、一つの夢」をスローガンとする北京オリンピックがチベット問題の平和的解決の突破口になれないことがあろうか。双方は知恵と勇気を持つべきである。
(2008年5月18日執筆)
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