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朝日新聞記事から ニッポン 人脈記  漢字の森深く 4

           漢点字 世界が色づく

 以下は、朝日新聞2009年11月30日の夕刊の、「ニッポン人脈記」の欄に掲載された記事を、転載させていただくものです。川上先生並びに村田先生とともに、本会の活動をご紹介いただきました。ご執筆の白石様には、ご丁寧なご取材に、心より感謝申し上げます。また、朝日新聞社様には、転載へのご快諾に、深く御礼申し上げます。

 盲学校を農学校と聞き間違えなかったら、川上泰一の人生は変わっていただろう。
 戦後の食糧事情が厳しい1949年。農学校の教師の口を知人が世話してくれた。「これで食い物は大丈夫」。ところが訪ねたら大阪府立盲学校だった。やむなく物理の教師になる。戦時中は航空エンジニアで、視覚障害者の教育は素人だった。
 鍼灸師(しんきゅうし)をめざす生徒は百会(ひゃくえ)など難しいつぼの名前を覚える。「目が見えんのに漢字どないしてんの」。川上が尋ねると「漢字ってなんや」「えっ、知らんのか」。心底、驚いた。
 点字は1文字が1ます6つの点からなり、仮名やアルファベットを表す。漢字は無縁だ。
 「ならばおれが漢字の点字を作る」。点字さえよく知らないのに宣言した。あきれた同僚がつけたあだ名は大風呂敷。
 最も苦労したのが仮名と漢字の区別だ。考えごとに没頭して道端の溝に落ちた。「そうだ、6つの点の上に、漢字であることを示す点を2つ置こう」。しかし1ます8つも点がある点字を指で本当に読めるのか。生徒が実験に協力してくれた。
 漢字は何千何万もある。ます1つだけでは表し切れない。「木」は1ますだが、「林」ならば2ます分、「湘(しょう)」ともなれば3ます分を使う。川上漢点字は70年に発表された。
 「日本語がこんなに豊かだったなんて」「難しい漢方用語がよく理解できる」。学んだ人たちから喜びの声が届く。
 川上は94年に77歳で逝った。臨終の病床で、漢点字を打つためのキーボードを必死にたたくしぐさを見せた。戒名は漢点院修徹日泰居士。
 妻のリツエ(85)が遺志を継いだ。大阪府吹田市の自宅で、日本漢点字協会を切り回している。ロシア文学者亀山郁夫(かめやま いくお)(60)の新訳「カラマーゾフの兄弟」の漢点字訳が、10月に完成したばかりだ。全43巻、積み上げれば高さ2メートルを超える。


 東京都墨田区の鍼灸師岡田健嗣(おかだ たけし)(60)は強度の弱視に生まれ、19歳で失明した。
 子供の時、大人が「ボジョウはいい映画だ」と話していた。ボジョウって何だ。漢字を知らないことが苦しくてならない。盲学校でお経を暗記するようにつぼの名前を覚えた。明治学院大では経済学を学んだ。
 29歳で漢点字と出合う。川上が書き取り問題を添削してくれた。「無理に覚えなくていい。忘れたら調べなさい」。優しい励ましが忘れられない。
 漢字の豊かな表現力を知って岡田の世界は一変する。「すべてが白黒から極彩色に変わったようでした。漢点字を知らなかった時期の記憶が消えちゃったほどです。ボジョウも、そうか慕うに情けだったのかと」
 96年にボランティア団体「横浜漢点字羽化の会」を作った。漢字の羽で自由に飛ぼう。そんな思いをこめて。漢点字の表現力を追究したくて、「論語」や中国文学者白川静(しらかわしずか)の字書「常用字解」などを訳してきた。
 朝日歌壇の短歌も漢点字訳している。自称ホームレスの歌人公田耕一の作品が好きだ。
 パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる
 こんな歌と出合うたび、漢字が読める喜びをかみしめる。


横浜国立大教授の村田忠禧(むらた ただよし)(63)は91年、漢点字が読める全盲の学生に中国語を教えたのが縁で、漢点字の世界に入る。学生のために4年かけて漢点字版の漢和辞典を作った。川上と岡田が協力してくれた。
 現代中国論が専門。中国や台湾の点字は日本の仮名点字と同じく発音しか表せず、漢字は表現できない。「川上漢点字の考え方を生かし、日中共同で中国語版の漢点字を作り、漢字の母国に恩返ししたいですね」
 全国に約30万人いる視覚障害者の中で点字が読める人は約3万人。川上漢点字となると1千人弱しかいない。覚えやすい仮名点字で十分という人は多く、点字離れも進んでいる。
 川上はよく語った。「漢点字の学習は登山に似て苦しい。しかし山頂には文化の光が満ちあふれている」。漢字の光を1人でも多くに。村田は願う。
                                    (白石明彦)


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