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森の会の音訳サービスに感謝を込めて

                                       岡田 健嗣

 下記は、去る2010年5月27日(木)に、田園調布ボランティアセンターで、岡田がお話をさせていただいた折りに配布していただいたものです。訂正・加筆の上、掲載させていただきます。

 私は、1980年代の初頭から、田園調布ボランティアセンターで活動しておられます音訳ボランティア・グループ「森の会」の、音訳サービスで読書して参りました。
 私は生まれながらの視覚障害者です。視覚障害者が読書するには、まずは指で触れて読む触読文字である「点字」を身につけなければなりません。幸いにして私は盲学校で点字をしっかり仕込まれました。
 もう1つ、昭和40年代からカセットテープのような安価な録音機器が普及して、誰もが録音できるようになりました。そこで音訳という新たなサービスが始まり、大きな広がりを見せるようになりました。
 視覚障害者である私も、当初は既存の点字図書館から点訳・音訳されている所蔵書を借りて読書しておりました。しかしそのようにしているうちに、いわゆる乱読から次第に読書の傾向が定まって来ます。そうしますと点字図書館の蔵書では、量的に間に合わなくなって来ます。そこで「プライベートサービス」と呼ばれるサービスを利用するようになりました。
 「プライベートサービス」とは、点字図書館や社会福祉協議会を拠点に活動しているボランティアが、施設を窓口として、個人のニーズへのサービスを行うものを言います。この場合一般には、完成した点訳・音訳書は、蔵書にはなりません。中にはそのようにして製作された点訳・音訳書を、積極的に蔵書にしているところもありますが、数少ないのが現状です。
 私の読書も、そのようにして作っていただいた音訳書の割合がどんどん多くなりました。そのうちに、複数の点字図書館や社協のサービスを受けなければならなくなって、そのようなサービスを探し求めるようになりました。こうして森の会の活動に巡り会うことになったのでした。
 現在でもそうですが、視覚障害者の周辺では、本格的な文学書や哲学書は、ほとんど作られません。とりわけ文芸誌は、現在「文學界」(文藝春秋社)だけが公式に製作されているだけです。
 当時私が、森の会の皆様にプライベートに製作をお願いしましたのは、現在では廃刊になってしまった「海燕」(福武書店)という文芸誌でした。「海燕」は、この3月に逝去された寺田博氏が編集長を務められた大変ユニークな雑誌でした。島田雅彦、小川洋子、干刈あがた、佐伯一麦、吉本ばなな、小林恭二の各氏(干刈さんは残念ながら早世されました)という、現在では綺羅、星の如き作家が世に出た雑誌でした。正に寺田さんの腕前が存分に発揮された雑誌と言われています。
 そのような雑誌を私も、ほぼリアルタイムに読むことができたのは、正に森の会の皆様の活動のお陰と申しても過言ではありません。
 中でも圧巻だったのは、仏文学者の寺田透さんの著された連載評論「権記」でした。圧巻と申しますのは中身が充実していることばかりではなく、森の会の皆様を大変苦しめた作品だったことでした。
 「権記」は、平安時代の官僚・藤原行成の日記です。「広辞苑」を引いてみますと、
 《【権記】/ 権大納言藤原行成の日記。991年(正暦2)から1011年(寛弘8)に至る。その後は死没の前年25年(万寿2)まで、わずかに逸文が残る。藤原道長の時代を知る重要史料の一。》
 《【藤原行成】/ (名はコウゼイとも) 平安中期の書家。権大納言。その筆跡を権蹟(ごんせき)といい、小野道風・藤原佐理(すけまさ)と共に三蹟と称され、俊賢・公任・斉信と共に四納言と称。後世、その書法を世尊寺(せそんじ)流という。日記に「権記(ごんき)」がある。書跡と伝えられるものに「白氏詩巻」「本能寺切」など。(972〜1027)》
 道長は、
 《【藤原道長】/ 平安中期の廷臣。兼家の第5子。御堂(みどう)関白・法成寺入道前関白太政大臣と称されるが、正式には関白でなく内覧の宣旨を得たのみ。法成寺摂政とも。藤原氏極盛時代の氏長者。長女彰子は一条天皇の皇后となって後一条・後朱雀両天皇を生み、次女妍子は三条天皇の皇后、三女威子は後一条天皇の皇后、四女嬉子は後朱雀東宮の妃。法成寺を造営。自筆本の日記「御堂関白記」が伝わる。(966〜1027)》
とあります。行成は道長より6歳若く、同年に没しているようです。
 「権記」は、道長の時代を知るための一級資料であることは、充分過ぎるほどに知られているようです。私も後に、放送大学を受講した折りに、重要な資料の一つにこの「権記」が挙げられていることを知りました。
 音訳者を困らせたのは、引用されている資料としての「権記」でした。「権記」の記述をどう読み解くかが、この論文の主題だったからです。
 わが国の古典資料の例に漏れず、「権記」も、極めて難解な変体漢文で記されていました。ただ読むだけならスーっと読み過ごしてしまってもかまわない引用文も、音訳するとなると、きちんと読み下さなければなりません。朝何時頃牛車に乗って登庁したとか、何時頃誰と会ったとか、記録としては貴重かもしれないが、読みが困難なら読み飛ばしたいと思わせるところがしばしば出て来ます。
 私はそのようにして読み下していただいたものを、耳から入れるだけで、ご苦労を想像するのも、恐らく極めて不充分だったに違いありません。今思えば、実に申し訳ないことをしました。
 「海燕」は、1997年に廃刊されて、福武書店はベネッセ・コーポレーションと改名して現在に至っています。
 「海燕」の廃刊と入れ違いに私は、漢点字の活動に本腰をいれることになりました。現在は横浜と東京のボランティア・グループ「漢点字羽化の会」の運営に関わっています。
 森の会とのお付き合いも現在では、「海燕」をお願いしているころに比べると大変薄いものになっていることは否めません。しかし森の会の皆様が製作して下さる「朝日歌壇・俳壇」のテープは、漢点字の読者にとって、漢点字で同書を読むときの、力強い援助者であることは確かです。毎月森の会からテープを受け取り、ダビングし、漢点字版の歌壇・俳壇の読者に送ります。私がテープだけで歌壇・俳壇を聞いているころに比べますと、このように行われる読書は、明らかに理解を深めました。と申しますのは、「権記」をテープでお聞かせいただいたことと同様に、音訳者の皆様が短歌や俳句は読み難いとおっしゃっておられたことが、このようにしてやっと分かってきたからです。このことの意味は恐らく、テープでの聴読は読書のプロセスである文字を読み取って解読することを踏まないままに、いきなり言葉が音として入ってしまうために起こったことに違いありません。いきおい音訳のご苦労に不感症になってしまったに違いありません。こうして歌壇・俳壇・漢点字版の読者の皆さんは、そのテープを大変楽しみにしておられるのです。
 私たち視覚障害者の読書は、このようにボランティア活動に担われています。ボランティア活動は、60年代、70年代、80年代と活発になって、私たちのニーズに応えようと頑張って下さっています。活動を実践して下さる方々ばかりでなく、その下支えとなる図書館や社協なども、積極的に対応して下さっていました。
 ところが近年、そのような施設側の対応が徐々に後ろ向きになって来ているように私には見えます。と言いますのは職員の移動の度に、サービスの劣化が見られるからです。私は今、そのような動向に強い関心を持っています。

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