「うか」081  トップページへ
            漢字と漢点字と
                                    
鈴木 洋子
 「垈(ぬた)」という字は、わが国で作られた漢字である。ということがわかったのは、漢和辞典にこの字が載っていなかったからです。
 三月二十七日読書会のメンバーと、俳人、飯田龍太邸の「山盧」を見学したあと、藤垈の滝へまわりました。滝と聞いて思い描いていたイメージとはだいぶ違っていましたが、一日ドライブをした境川周辺の風景に私は魅了されていました。御坂山地へとだんだんせり上がっていく地形は結構きつい坂ですが、陽当たりもよく、全体が明るく開けているという印象なのです。里山というのはこんな場所をいうのでしょうね。そういう所を走って、夕方近く、藤垈の滝のある大窪いやしの杜公園へ着きました。大窪というから大きく窪んでいる。その中に滝が設えてあるのです。半分にした丸太の中を刳りぬいて、坂になっているところへ横たえ、片側に八本の管を突き通す。そこへ沢から落ちる水を流す。管から八本の弧を描いて水が落ちてくる。ちょっと、これを滝というの、という思いでしたが、湿地にたくさん植えられている水芭蕉は、ちらほらと白い花を咲かせ始めていました。
 で、帰宅して、一首なり一句なり出来ないものかと考えていて、「垈」が漢和辞典に無いということを発見したのです。ワープロ漢字事典に出ていました。国字、湿田とあります。山影の湿地帯というのはどこにでもある地形だと思うのですが、中国から伝えられた漢字の中にはそれに相当するような字が無かったのでしょうか。ともかく日本人は「垈」という漢字を作ってしまった。俤、凩、雫、颪、峠、辻、榊、畑、畠、鰯、鱈、躾、…百科事典の「国字」の項にはその他いっぱい列挙されています。一つひとつの字を見てゆくと、なかなか面白い作り方がしてあります。
 私はボランティア活動として、「横浜漢点字羽化の会」に参加しています。このグループは、漢点字で表わされた点字の資料を制作することと、漢点字の普及に努めることを目的としています。一般的に点字という言葉は、見聞きすることはあっても、漢点字というと馴染みが薄いのではと思います。ここで、点字とそして、漢点字について簡単に説明してみましょう。
 世界で初めて点字を創案したのは、ルイ・ブライユというフランス人です。馬具製造職人の子として生れ、幼少のころ父親の仕事場で遊んでいて怪我をし、それがもとで失明したという。入学した盲学校では、文字の勉強としては、浮き出し文字といって、板の表面を彫って、文字の形を浮き出させたものを使っていました。その板に触って字の形を読み取る(触読)のですが、これは非常に難しいことです。たとえ、一つの文字が読めたとしても、文章として読むことは、なかなか出来ることではありません。日本でも江戸時代の末に、浮き出し文字が考えられたことがあったそうですが、事情は同じだったでしょう。それに、書くということは、始めから考えられていませんでした。ブライユが盲学校中等部の時、陸軍に夜間連絡用の、触って読む暗号、というものがあるということを知りました。ブライユはそれにヒントを得て、浮き出し文字ではない、まったく別の文字を考え出しました。それが現在使われている、点を組み合わせて文字としている「点字」です。視覚障害者のブライユが非常な苦労をして点字を創案したのも、「字を知りたい」という切望があったればこそです。この点字を覚えれば、読むことも、書く(点を打つ)ことも、そして記録(保存)することも独力≠ナ出来るのです。ブライユの同僚たちは驚喜しました。視覚障害者の曙です。一八二五年のことでした。しかしブライユの生前(四三歳で肺結核で死亡)には点字は普及しなかった。晴眼の教師達が、点字を文字として認めなかったからです。それでも、点字使用者はだんだんに増えていき、一八五十年代の末には、欧州各国で公認されるようになりました。
 日本の場合はどうだったか。「日本語点字」が政府から認知されたのは、一八九〇(明治二三)年です。維新後、日本は西欧をお手本にあらゆることを急改革しました。教育分野も勿論で、初等教育の義務化が行われ、盲学校も創設されました。そしてこの学校の石川倉次教師が、日本語点字を翻案しました。これが今使われているわが国の仮名点字です。
 私は、十年ほど前に新宿の朝日カルチャーセンターで点字教室の受講生になりました。点字が身の周りにあったというわけではありません。息の長いボランティア活動が出来るかも知れないという漠然としたイメージで入ったのですが、初めて見る点字本には吃驚しました。表にも裏にもぎっしり並んだ小さな粒粒。これを指先で読み取れるのか、と感動ともいえる気持ちを抱いたことを、今でも覚えております。仮名点字がタイプライターで打てるようになった頃、教室のメンバーと食事をしていて、「仮名点字とは違う、漢点字というものが存在する」ということを聞きました。木が二つで林、三つで森。これを点字で表わすのだという。仮名点字では漢字を度外視している、ということの重大性をその時でも、正確には認識できてはいなかったのですが、妙に心に残るものがありました。事情があって点字は一年程中断したのですが、その後、背中を押してくれる人がいて、その漢点字のほうのグループ「横浜漢点字羽化の会」に入れて頂きました。そして、ここでいろいろなことを考えさせられることになったのです。
 点字は縦三個、横二列の六点を一マスとしています。そしてこの六点のどこが突起しているかを読みとるのです。例えば、左一番上ひとつだけが突起していれば「あ」です。その下と続いて二つ突起していれば「い」。左一番上と二列目の一番上(横に二つ)突起していれば「う」。六個全部突起していれば「め」。一マス六個をこのように組み合わせると六十三通りできます。アルファベットも日本語五十音もこれで十分表わせます。因みにアルファベットの「a、b、c」、数字の「1、2、3」、日本語の「あ、い、う」は、それぞれ同じです。ではどこで区別するかというと、前のマスへ「次はアルファベットだよ」、「数字だよ」、と示す符号を前置するのです。仮名点字を受講していた時、視覚障害者の方が、実際に点字本を読んで見せてくれたのですが、その速さに驚きました。両指使いなのですよ。先ず、左指をすべらせて行の半分まで読みます。その時、右指は行の後半でスタンバイ、右指にバトンタッチした左指は次の行の始めへ移動してスタンバイ。途切れるなどということはありません。パソコンのキイボード上を両手が滑らかに動くのと同じです。
 仮名点字と書いてきましたが、これは漢点字が出来てからの呼称です。石川倉次氏が点字を作った時、漢字のことは頭になかった。仮名だけであってもそれまで読み、書きの手段を持てなかったことを考えれば、仮名点字の完成は画期的なことだったでしょう。しかし、日本語は漢字と仮名が交じって成り立っているものです。石川氏に、「漢字のない点字では、不完全」という思いがあったら、日本語点字は違った発展の仕方をしたはずです。ところが、石川氏は、点字に漢字は不用と考えたばかりでなく、日本語自体、ローマ字表記すべし、という考えの持ち主でした。漢字などという面倒なものを使っているから、日本文化は西欧に遅れてしまっているのだ、とそういう運動を熱心にやった人だったのです。
 それでは、漢字交じりの「漢点字」は、いつできたのか。漢点字の全体系が発表されたのは、一九六九(昭和四四)年七月十七日です。創案者は川上泰一氏。川上氏は戦時中、軍の飛行機のエンジニアでした。戦後、職を探していて、「農学校を紹介されたと思って行ってみると、盲学校だった」、というのは伝説的なエピソードです。伝説的とは、求めて入ったわけではないのに、成し遂げた業績の大きかったことを指しています。川上氏が大阪府立盲学校で見たものは、漢字のない(ひらがなとカタカナの区別もないのです)点字でした。

 鍼灸で使う治療点(つぼ)を、「経穴」という。その経穴には一つ一つ名前が付いている。勿論その名前も全て(漢字)で表わされる。その読みも全て音読みである。「中府、雲門、天府、侠白、尺沢、孔最、列欠、経渠、太淵、魚際、少商」(手の太陰肺経)からはじまり、三六〇個を超える数を覚えなければならない。こうやって本来の漢字で書いてみると、こんな勉強も案外面白いかもしれないと思うのだが、これをカナだけで読まされたらどうか?そんな風に勉強していたのである。
 あるときある点字図書館で、親しくなった職員から、「漢方の本ができてきたんですよ。ラベルを貼りたいのですが、ケイケツのケイは経でしょうが、ケツという字はどんな字か見当が付かないのです。」と言われた。私は「穴」と答えられなかった。このような会話が、何時でも何処ででも繰り広げられているのである。
 このようにして「漢字」を知っているか知らないでいるかが、人(健常者)と人(視覚障害者)との間の隙間を広げているのである。私のばあいはそうであった。

 これは、「横浜漢点字羽化の会」代表の、岡田健嗣さんがグループの機関誌に発表した文章の一部です。幼い時失明した岡田さんも、漢字とは無縁の所で教育を受けたひとりでした。川上泰一氏は、盲学校生が漢字を学ぶ機会がないという事実に衝撃を受けました。そして、なんとかして漢字を教えたい、点字で漢字を表わすことはできないだろうか、と深く考え、漢点字を創り出したのです。二十年の歳月が費やされました。「川上漢点字」の特色は、漢字の成り立ちから研究し、点字化していることです。漢字は(へん)や(かんむり)、(つくり)や(あし)など、部首を組み合わせて作った、組み立て文字です。この部首を記号として見れば、点字も記号ですから、点字の漢字(漢点字)が作れるのです。そして、「木」の音読みは「ぼく・もく」、訓読みは「き・こ」であるし、また「木へん」でもあると学べるのも、漢字というものに触れることができて、始めて可能になるのです。私の名前「ようこ」は「太平洋」の「洋」ですが「太陽の陽」もあるし、「葉っぱの葉」もあるし、「遥子」もある、ということも、漢字に一度も触れていなければ、ぴんとこないことだと思います。川上漢点字を学んだ人たちの手記を読むと、漢字を知らなかった時の戸惑いと疎外感、漢字を手にした時の喜び、その一つひとつに胸を打たれます。漢点字使用者のKさんは、「先ず、自分の名前を漢点字で書いて(打って)みたらいいのよ」と言っています。自分の名前の漢字に託された、名づけ親の思いを正確に受け取ることができるからです。「羽化の会」の岡田代表は二十九歳で漢点字を手にしました。漢字を知らなかった時、どう考えていたのか思い出せない、もう漢字のある世界にどっぷり浸かって、そこで思考しているから、と言っています。漢字のない世界が別世界になっているのです。漢字を知ることで、「人生を救われた」、とも述懐しています。そして、自身の体験を踏まえて、視覚障害者の一人でも多くを、漢字のある世界へ連れてきたいと、普及活動に情熱を注いでいるのです。
 漢点字が発表されて四十年、視覚障害者の中で、今、漢点字はどうなっているのでしょう。発表当初は熱い期待をもって受け入れられました。七千人位は漢点字取得に挑戦したといわれています。通信制で普及に努めた川上氏には寝る暇もなかったでしょう。氏は一九九四(平成六)年に亡くなるのですが、川上漢点字はその後、巾の広い広がりを持つことは出来ないでいます。漢字の重要性を考えると、信じられないことなのですが、理由として考えられることは、視覚障害者自身に、点字離れが進んでいることがあります。視覚障害者の読書とは、点訳された本を触読するか、音訳されたテープを聞くかするわけで、点訳も音訳もボランティアが担っています。何か読みたいと思っても、その本が書店に売られているというわけではありません。録音操作が簡単になったことと、機器の低価格化で、音訳テープが手に入り易くなりました。また、触読よりテープを聞くほうが楽です。パソコンの進歩ということも大きな理由として考えられるでしょう。視覚障害者でパソコンを伝達手段として使いこなしている人は少なくありません。キイボードを叩くと、音声案内があって、漢字変換もできるのです。パソコンの普及で、墨字(点字に対して、我々が使っている文字を言う)使用者と直接やりとりが出来るようになりました。今までは、墨字を点字に、点字を墨字にしないと、意志の疎通が図れなかった。これはこれで、画期的なことだと思います。しかし、学校で、漢字というものを、一度も教わったことがない人が、パソコンの音声案内で、いきなり、漢字変換に直面するということは、どうなのでしょう。さぞかし、笑えない笑いばなしも続出しているのではないでしょうか。テレビの人気番組、「笑点」と「商店」の変換間違いがあって、笑われたとしたら。
 今、視覚障害者は三十万人位、その中で点字を日常使いこなしているのは二〜三万人、漢点字に絞れば千人にも満たないだろうといわれています。点字常用者の中に漢点字が普及しなかったもう一つの大きな理由は、公教育で漢点字を、カリキュラムに組み入れて、教えていないからです。健常者が当然のこととして、小学校一年生から少しずつ漢字を習ったようには、盲学校の生徒は、漢字を教えられていないのです。漢点字取得の喜びの手記を書いた人の中には、盲学校の先生たちもいるのですが、それは点にしか成り得なかったのでしょうか。川上漢点字が、熱狂的に受け入れられた勢いのあった時、教育現場に確固とした根を張れていればよかったのですが、それはできなかった。生徒に教えるということは、先ず、自身が、「漢字が必要である」という強い、考えを持たなければできない。しかし、盲学校という閉ざされた世界で生活できていれば、漢字がなくても然程の疎外感は感じないで居られるのかも知れません。努力して漢点字を勉強し、生徒に教えようという情熱は持てないのでしょう。羽化の会では文部科学省等へも働きかけているのですが、役人の重い腰も上がる気配はないようです。今まで仮名点字でやってきたのだからとか、漢点字を勉強する意欲のある者は、自分で勉強すればよいというのは、教育者として怠慢ではないでしょうか。視覚障害者に漢字まで強いるのは、負担が重すぎるという考えも、漢点字を使いこなしている人たちを見ていると、納得できません。漢字を知った人たちの喜びの声を、謙虚に聞くべきだし、視覚障害者をも、責務として、漢字のある世界へ誘ってあげるべきなのです。視覚障害者もパソコンの力を利用して、漢字交じりの墨字(普通の字)を印字出来るようになった今こそ、なおさらに、漢字を身に点けられるよう、図られるべきだと思います。受け取った文章が、ひらがなばかりだったり、頓珍漢な漢字が使われていたりしたら、我々は、一呼吸おいてからでないと、その文章を読めないと思います。以下は、岡田さんが、漢点字公認を求めて、陳情する際に製作された、『漢字をこの手に』に収録された文章の一部です。二十九歳になって、初めて漢点字を手にした頃のことを語っています。

 そうしながら(注、漢点字を学びながら)、周囲の晴眼者にその時取り組んでいる字について疑問をぶつけたりもしました。そのようにしている内に、私の心の中で言葉にかかっていた雲が徐々に晴れて、モノクロームの写真がカラーになったような、あるいはかかっていたモザイクがすこしづつ融けて、その奥の輪郭がくっきりして来るような、大変具体的な感触を味わえるようになってきました。それまでにはなかった、物事に直接触れる感覚に浸ることができたのでした。それに従って、何か力のような、自信のような、自分の力で物事を追求し、理解できるという手応えが掴めたという実感が湧いて来たのでした。

 十三年前、「羽化の会」では、漢点字版の『漢字源』を作って、横浜中央図書館に納めました。発端は、横浜国立大学教育学部へ、全盲の学生が入学したことでした。学生は、漢点字の素養を持っていて、第二外国語に中国語を選択し、漢字文化を勉強したいと希望したのでした。担当教授の働きかけで、出版社や、ボランティアの力が結集しての成就でした。
 「扉を開いてあげる」、というのが教育の大切なところだと思うのです。自分の使っている母語が、完全なものではない、という不安は、異国で、その国の人たちの言葉が判らないということよりも、深い戸惑いかも知れません。今も、扉の前で、故知れぬ疎外感に打ちのめされている、かつての岡田青年がいると思うと、胸が痛むのです。  
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