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ご報告とご案内 岡田 健嗣 昨年度(2023年・令和5年度)の、横浜市立中央図書館への納入書として製作しました漢点字訳書は、『古事記』の下巻・4分冊と、『諸注評釈新芭蕉俳句大成』の3分冊です。3月中旬には納入を完了しました。 会員の皆様には、深く御礼申し上げます。 今回も、その『新芭蕉俳句大成』に収めてございます中から、1句の項をご紹介します。「秋深し」の句とその解説です。 秋深き隣は何をする人ぞ (笈日記) 【考】 元禄7(1694)年秋の作。季語は「秋」で秋。元禄8年刊行の底本に載るもので、大阪滞在中の同7年9月28日に作られた句である。底本によれば、この日畦止(けいし)亭で句会があり、次の日の夜に予定されていた芝柏(しはく)亭の句会の発句として作られた。ただしこの翌日の29日から芭蕉は泄痢(せつり)に悩まされて病床につき、そのまま次第に病状が重くなって10月12日に死没しているから、芝柏亭の句会は中止になったのであろう。 【解】 秋もすっかり深まった夜、隣の家からかすかに物音が聞こえてくる。隣の人は何をしているのだろうか、の意。夜とはいっていないが夜の情景であろう。それも人が寝静まった頃であろう。普通なら物音がするはずのない夜更けに、かすかな物音が聞こえたので、こんな夜更けに何をしているのだろうかと隣の人への関心が生じたのであろう。 (中略) 【評】 この句は芝柏亭の句会の発句として作られたものだから、挨拶の意図があるかどうかということが問題になるが、挨拶の意図を読み取るべきだという見解はない。「挨拶の心をどう読むかは1つの問題点」だという『全句』にしても、「挨拶の意は淡い」と述べている。諸家の解釈の基調は隣の家では物音一つしないととらえているが、「壁ごしの物音」がきっかけでこの句が出来たという『安東芭蕉』の見解は注目すべきである。隣を意識したのは、何も聞こえてこないからではなく、隣から何かが聞こえてきたからだと考えるのが自然であり、『安東芭蕉』の見解は説得力がある。ただし「壁ごしの物音」と限定する必要はなかろう。またこの句を「軽み」と結びつけて考えている『明治講座』の見解も注目すべきである。なお、この句が作られた以前において、芭蕉が之道亭に滞在した確証は見当たらない。 [田中善信] |
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