漢点字の散歩 (1) 岡田健嗣 |
1 辞書を引く
漢点字で表された「漢字源」
本会のスタートと時期を同じくして、横浜国立大学教育人間科学部教授・村田忠禧先生は、一九九六年春、「漢字源」(藤堂明保編、学習研究社)の漢点字版を完成されました。そのニュースを耳にしたとき私は、このような資料が、誰もが利用できる図書館に所蔵されればよいがと、極めて軽く、極めて当然と思ったのでした。村田先生にはそれより以前からお世話になっておりましたので、早速お電話をさせていただきました。今から思えば何と乱暴な振る舞いに及んだものかと、苦笑されます。
先生は私の希望に耳を傾けて下さり、このような辞書を受け入れて下さる公共の図書館があること、漢点字書の製作ができることという二つの条件が整うのなら、原本の出版元である(株)学習研究社様に、同書のパソコン用のデータを無償で提供していただけるようご相談下さるとおっしゃって下さいました。
「漢字源」といえば、学生にとっては欠かせない漢和辞典です。とりわけ漢文の読解の初心者にとって大きな力となる辞書です。こういう辞書が欲しい!と思ってはみたものの、もし手の届くところに漢点字版の「漢字源」が出現したとして、本当に私に使いこなせるのだろうか?こんな不安が脳裏を過ぎらなかったと言えば嘘になります。
言うまでもなく視覚障害者の文字である〈点字〉には、川上泰一先生が〈漢点字〉を発表されるまで、〈漢字〉の体系はありませんでした。教育界では、「点字はカナで充分、漢字を点字で表すなど無理の極み」と考えられていました。点字で出版されている辞書類にも〈漢字〉が用いられることはありませんでしたし、何かの工夫で〈漢字〉を説明しようとしたものもありませんでした。学生にとって国語辞典と漢和辞典は座右に置くべき辞書ですが、前者はカナだけで表されており、後者は全く存在しませんでした。
私は当時、漢点字は習得できたものの、辞書を引いて言葉の意味や使われ方を調べるという経験がありませんでした。〈漢点字〉のお陰で「漢点字仮名交り」の文章に多少接する機会も増えていましたが、文字や言葉を自ら調べるなど、思いも寄りませんでした。村田先生のお仕事のニュースを聞いて、漢点字で表された辞書のような資料があっても不思議ではないと、誠にコロンブスの卵の如くに、初めて気付かされたのでした。村田先生の暖かいお言葉に何とかお応えしなければならない、これが横浜漢点字羽化の会の出発点になったと言っても言い過ぎではなかったのです。
漢点字版の「漢字源」を図書館に所蔵していただく、これは最も大きな課題でした。
この課題も、横浜市中央図書館と、横浜市議会議員の大滝正雄先生のご理解とご尽力で、視覚障害者の文字文化に一歩を印していただくことを目的に、受け入れ態勢を整えていただけることになり、図書館と本会との間に、翌一九九七年春に納本するというお約束を取り交わしました。
大部の漢点字書を、一年未満という短期間に完成できるかという、始まったばかりの本会としては、極めてドラスティックな態勢作りが求められました。これも木下和久さんを中心に、参集間もない会員が、点字プリンターでの打ち出しから製本に至るスキルを、全く初歩から作り上げるという、このような機会でもなければ経験できない、未曾有の作業に挑戦して下さいました。これは本会にとって、無形の財産として現在も生きています。
〈漢点字〉のテキスト作り
二〇〇三年度から本会では、横浜市健康福祉局のご後援をいただいて、〈漢点字〉の学習会を始めることになりました。
〈漢点字〉の学習は、それまでは日本漢点字協会の発行している、川上泰一先生がご執筆になったテキストを使用していましたが、手に入り難くなって来ていたことと、一緒に学んで行くにはオリジナルの発想も求められるであろうことから、私自ら筆を執る覚悟を決めて、失敗や間違いも私に起因することとして、オリジナルのテキスト作りに着手することにしたのでした。
当然と言えば当然ですが、〈漢字〉という文字が、これほどまでに難敵であったか、川上先生のご苦労・ご苦心に、今更ながら頭の下がる思いです。
川上先生のお考えは〈漢字〉を、基本的な文字と、それらを構成要素として組み合わされた複合的な文字と捉えて、それぞれの文字の形と意味と読みの関連を〈漢点字〉に生かそうというもので、〈漢字〉に関しての豊富な知識の裏付けなしには成し遂げられないものだということを悟らされるには、さほどの時日を要しませんでした。
しかし私が〈漢点字〉のテキストに挑戦しようと無謀にも決意したのも、点字の世界に〈漢字〉に関する辞書が出現したことによっていました。〈漢点字〉を使用することで、形・音・義を備えた〈漢字〉を、そのままそっくり、晴眼者の皆さんが行っているようにとまでは行かないにしても、独力で調べることができることを確信できたからに他なりません。
このテキストの構成は、@基本文字と複合文字の区別、A見出し語とその漢点字符号、B基本文字であればその形の説明、複合文字であれば構成要素である基本文字との、形と読みと意味の関連、D音読訓読と文字の意味との関連、E用例とその意味と用い方、F漢点字符号の由来とその解釈としましたが、どれを取っても一朝一夕には参りません。
現在本会では「漢字源」に加えて、白川静先生が編集された「常用字解」と「人名字解」(平凡社)の漢点字訳に着手しております。これらが完成すれば、複数の辞書を引くという、一般では当然とされていることが、視覚障害者に初めて解放されることになります。このような比較的小規模な辞書を独力で引いた上で、図書館等のご協力を得て更に詳細を調べるという、極めてノーマルな環境が実現することになります。
繰り返しになりますが、〈漢点字〉で表された辞書で〈漢字〉を調べるという、思えばつい先日までは夢のまた夢であったことが、現在では当然とされている現実、不思議と言えばこれほど不思議なことはない、実にこのようにして、テキストを作っているのです。
まだまだ〈漢点字〉への関心は十分とは言えません。しかし以上申し上げたことが現実になっているということをご存じになれば、何れ多くの視覚障害者に、〈漢点字〉は社会参加に欠かせない文字であるということが浸透して行くことを、私は確信しています。