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漢点字の散歩(35)
                    
岡田 健嗣

              読 書 (付 記)


 〈(前略)岡田さんの「漢点字の散歩」は、「読書」というものに対して、あらためて多くのことを考えさせられる、貴重な一文となっています。/(中略)岡田さんのいわれる「読書のフィードバック」というようなプロセスが介在するような読書の機会はあまり多くないような気がします。岡田さんが求められる漢点字書は、まさにそのような読書に耐えうる内容の書物でなければならないのでしょう。(後略)〉
 以上は本誌前号に、編集に当たって下さっておられます木下さんが、後記に記されたものからの抽出です。前号に拙稿を投稿するに当たって、読者の皆様の大方は、このように受け止めて下さるであろうことを、私なりに予想しておりました。
 と申しますのは、例に挙げた読書は、確かに「読書」にふさわしい読書であって、書かれたものを取りあえず読むという、一般に行われている読む行為とはかけ離れたもので、例として、果たしてこれが適当であったか、私も充分確信してのことではなかったからに他なりません。しかしながらものを「読む」という行為をどう理解するか、一般の「読む」という行為と、わが国の視覚障害者が「読む」と呼んでいる行為が、同様の行為と捉えられていることに、疑問を差し挟むことがあってもよいのではなかろうか、そんなところから「読書」の例として挙げたのが、先の例でした。もし一般の「読む」という行為と、視覚障害者が「読む」と呼んでいる行為が同じ行為であるのならば、どうしてそう言えるのか、異なった行為と言われるならば、それぞれにどういう行為で、その結果として読書に求めるものに、どのような相違が招来するのか、そんなところを考えてみたかった、従って先に挙げた例は、けして熟読玩味しなければ「読む」行為とは言えないという意味合いのものではなく、考えるプロセスの例として挙げたに過ぎず、あのような読書もあれば、流し読み、斜め読みという「読み」もあり得るので、しかし流し読みや斜め読みであっても、必要とあらば直ちに熟読のモードに切り替えられることを含んだものが、一般の「読む」行為である、そう捉えたものでした。
 一般の「読む」行為と、わが国の視覚障害者が「読む」と呼んでいる行為をどう捉えるかという問いには、既に私は結論を提出しております。それは、一般の「読書」あるいは「読む」という行為と、視覚障害者が現在行っている「読書」あるいは「読む」と呼んでいる行為とは、「読」という語が用いられているとは言えども、どうやら別の行為だ、というものです。私の経験、私の実感がまずはそう言わせるのですが、荒いものではありますが、その大枠は前号で述べてみました。
 再考しますと「読む」とは、文字を対象とした行為であること、文字を読み、文章を読み、解読し、理解し、思考に反映させることを言います。そこから「心を読む」とか「空気を読む」とかの表現が現れはしますが、その基底には文字を読むことが厳然としてあって、まだそれは解消してはおりません。
 それに対してわが国の視覚障害者が言っているところの「読む」とは、文字を対象としない行為を指していること、漢字仮名交じり文で表記されている文章を、漢字仮名交じり文で表す触読文字を持たないために、カナ・分かち書きの触読文字を触知し、あるいは音訳された音訳書を聴読する−−そこには文字は介在しません−−ことを、「読む」と呼んでいるのです。
 このように私が、一般の「読む」ことと、視覚障害者が言う「読む」ことが別なものだという認識を得るようになったのは何時頃だったのか、これも既に述べておりますように、「読む」ということが如何に人間形成に大きなウェイトを占めているかを突きつけられてからで、それは盲学校から社会に出て間もないころでした。社会は、隅から隅まで文字の支配下にありました。文字を使いこなせなければ、文字に使われるだけ、使われるならまだよろしい、それに応えられなければ要らないと、ないものとして処遇されます。そのように扱われながら、その後ほぼ10年を過ごして、漢点字に出会うことになりましたが、この日本という地に生まれて約30年を、漢字という文字を知らぬまま成長し、社会生活を余儀なくされたということは事実ですし、現在のわが国の視覚障害者は、如何にもパソコンで文字を書いていると胸を張っても、読んではいないことに変わりありません。
 漢字を知らないまま生きなければならない辛さから漢点字によって救われた私は、しかし大きな誤算を犯していました。他でもない、漢点字を習得しさえすればそれまでの私のような境遇は解消されます。多くの視覚障害者が漢点字を習得し、漢点字での読書を日常化すれば、漢点字書へのニーズが高まって、漢点字書の製作にも力が注がれるであろう、そう考えたのでした。その裏付けは、私の味わって来た漢字を知らない辛さで、わが国の視覚障害者は押し並べてその辛さを味わっているに違いないというものでした。これが大きな誤算だったのでした。
 2つの世界、などと言えば目くじらを立てる方もおられようとは思いますが、文字のある世界とない世界に生き、しかも現実には入り交じって同じ国家、同じ社会に属していると信じて生活しているこの現実、これをどう感じるかというのが、私の年来の課題だったということを、「読書」に仮託して申し上げたのが前号の拙稿でした。
 そこでもう1つ問うてみましょう。
 私もしばしば自らを振り返ってみて、如何にも視覚障害者だなあと感じる、あるいはそう思われる言動や行動を取ることがあります。それはあくまで、振り返ってみてで、その現場では分かりません。それは社会人としてはやはり奇異なものに映るに違いなく、振り返ってみれば、赤面するようなことです。しかも社会からは、視覚障害者だから仕方ないと扱われることになります。それは決して社会の「優しさ」などではありません。問題にされない、捨てて置かれるといった扱いです。
 誰しもにそのようなことはあり得ましょう。しかし如何にも「視覚障害者らしい」と感じられる、言い換えれば視覚障害者の特徴とも言えるような言動・行動と感じるものです。これが一体どういうものか、言葉で表現するにはまだ消化が不十分です。それを押して2、3言葉を挙げてみるなら、何か軽はずみな、底の浅い、未成熟な、筋の通らない、独り善がりな、行き当たりばったりの、語彙が乏しいなどという形容詞を被せたくなるもので、当人(私もその一人)はそれに気付かずに過ごしてしまう、そんな性格のものに思われます。
 私はその要因を、「読む」ことに求めました。前号で述べましたように、文字を相手にした「読む」という行為は、必要とあらば、どこまででも留まって深めることができます。それを実行するかどうかは、誠に任意です。任意であるということは、自由という幅とそれに伴う責任という結果を生じます。自由と責任は常に対になってやって来て、それに沿った行為・言動を求めます。このように社会は常に任意の判断を求めて来ます。その判断を保障するのが「読む」という行為ではないか、そう思われてなりません。「読む」という行為を積み重ねることは、恐らく社会からの求めへの対処の、言わばリハーサルなのではないのか、視覚障害者はそのリハーサルを閉ざされているために、如何にも視覚障害者らしい言動・行動を取ることになってしまう、というのが取りあえずの私の結論です。
 漢点字はその「読む」という行為の可能性を、わが国の視覚障害者に開いてくれました。多くの視覚障害者が漢点字の触読によって読書すれば、その方法も進化して行くはずです。そうすることで、ノーマライゼーションも進行するはずです。
 しかしながら現状は、ほとんどの視覚障害者はそれに気付いていない、私の誤算はここにあったようです。同じような苦しみを味わっているはずなのに、その解消を読書に求めようとしない、この現状を本誌の読者諸兄姉のお心に留めていただきたい、そう願って止みません。

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