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漢点字の散歩(47)
                    
岡田 健嗣

  「句読点」と「語彙」
 このタイトルに「と」という助詞を使いましたが、一般には「と」という助詞は、その前後の語句が、何らかの関係を持っていることを表します。しかしここでは単に、2つの事物を並列に並べていることを表します。この「と」の前後の「句読点」と「語彙」は、関係づけようと思えばどこまでも深く関係づけられますし、「句読点」そのものが、「語彙」の1つでもありますので、そこからさらに関係を広げることもできることになります。しかしここでは、並列に並べたという以上の意味は、付与されません。拙文の進行に従って多少関係づけもされるかもしれませんが、ここではそれは本意ではありません。以下は「思い出話」となります。
 「句読点」についての1つの思い出、「語彙」についての1つの思い出、この2つの思い出は、現在に至るまでの私の脳裏のどこかに、いつも暗くあるものでした。
 現在私は、『常用字解』の音訳の作業に関わりながら、音訳者の皆様と交流を深めております。漢点字訳については、本会の活動を通してスキルアップを図ることができたのではないかと思っております。そのスキルを音訳にも生かせないか、というのが、このプロジェクトの立ち上げを発起させた考えでした。しかしそれはかなり思惑違いだったようで、私は、音訳について、思いの外知らないことが多いことに気づかされて、我ながら忸怩たる思いを味わっております。
 そんな流れで、『常用字解』の音訳とは別に、墨田区の図書館に所属されておられます音訳者の皆様の勉強会にも出席させていただくようになりました。
 その席で「句読点」が話題になり、文章の切れ目ということが取り上げられました。このことはそのまま私のごく若いときの、暗い思い出を想起させたのでした。
 もう1つ、本誌にも転載させていただきました毎日新聞の記事の、有田様の取材を受けておりますときに、「それは語彙ということですよね」と、有田様はおっしゃいました。私は思わずはっとさせられたのでした。これも「句読点」の思い出と同じ頃、同様の暗い思い出となったエピソードがあったからに他なりません。
 この2つの事柄について、私の心と頭を整理する積もりで、述べさせていただくことに致しました。
 悪しからずお付き合い賜れれば幸甚です。

    句読点
 墨田区の音訳の勉強会の席で、「句読点」ということが話題になりました。「句読点」と言っても実際は、「読点」についてということになります。あまりに当然のことですので、それまで取り立てた注意は払われなかったのですが、「読点」の位置によって、その文章の意味するところが変わってくることを、例を挙げて見てみようということになりました。その文章の例を、まず読点を付さずに掲げてみましょう。

 彼は静かに眠っている妻の脇に腰を下ろした。

 このような文章は、恐らく欧文の翻訳文が一般化して、日本語の文章がその翻訳文に近づくことによって成立してきたものと思われます。しかし、現代の日本語の文章として不自然かと言えば、そういうことはありません。現在では誰しもがこのような構成の文章を認め得るに違いありません。
 この文章、恐らく読点の位置によって、2通りの解釈ができるように思われます。

 @彼は、静かに眠っている妻の脇に腰を下ろした。

 A彼は静かに、眠っている妻の脇に腰を下ろした。

 ご覧のように読点を、「静かに」という語句の前に置くか後ろに置くかによって、この「静かに」の語が眠っている妻にかかるか、あるいは腰を下ろそうとしている彼にかかるかというように違って来ます。@では読点は、「静かに」の前に置かれているので、「眠っている妻」にかかって、「静かに眠っている妻」となります。
 Aでは読点が、「静かに」の後ろに置かれていますので、「彼は静かに……腰を下ろした。」となります。
 さらにこの1行の読点の位置の違いは、読み手である私たちに、異なった印象を与えます。
 @では、「静かに眠っている妻」の脇に、彼は腰を下ろします。妻が静かに眠っているのですから、彼も静かに腰を下ろすに違いありません。そしてその妻は、果たして通常の眠りを眠っているのか、この文からはそこまで読み取れませんが、「静かに眠っている妻」の脇に、彼は腰を下ろすのですから、妻は、単に眠っているというより、病床に臥しているのではなかろうか、とまで飛躍した読みを促しさえしそうです。病床に臥している妻の脇に、その夫である彼が、心配そうに腰を下ろして見守っている、という構図が見えてきたりします。
 Aでは、「眠っている妻」は眠っているのですから静かであるかもしれませんが、取り立てて「静かな眠り」を眠っているとは書かれていません。しかし妻は眠っているのだから、安眠を妨げないためにも彼は、「静かに」妻の側に寄って、腰を下ろしたのだろうと理解されます。ここでも妻の眠りが通常の眠りかどうかは書かれておりませんが、@とは違って、妻は「眠っている」だけで、健康を害しているとも書かれていません。通常の眠りを眠っている妻の傍らに、夫である彼が、静かに腰を下ろした、彼がそれからどうするかとか、妻が目を覚ますとかは、この文章からは読み取れません。
 もっと別の読み方があるかもしれませんが、要はこの読点の位置だけで、文章の読みが、このように変わってくるというのが、この例の要点と言えます。音訳の勉強会の席では、この読点を、どのように表現するかを、課題として考えました。

 今から40数年前、私はこれと同じ話を、私より少し若い、点訳者を志望する、聡明な青年から指摘されたことがありました。と申しますのも、私が文章の「句読符号」について全く無知だったためで、彼が私に文章の話をする度に、私の理解が及ばずに、的外れの応対に終始したからに他なりません。
 彼は点字を通して私と知り合いとなりました。点訳活動を行いたいと希望しておられました。それまで点字というものの存在は知っておられても、それがどういうものかまでは、ご存じありませんでした。点字がどういう文字か、知ってみると、これで文章が読めるのかという素朴な疑問が、ふつふつと湧いてきたのでしょう。それを私にぶつけてこられた、それが先のエピソードとなったということだったと思われます。
 読点の位置でその文章の意味が変わってくる、私には驚天動地のことで、全く理解できませんでした。その場での反応は、恐らくパニックとも言えるものだったに違いありません。
 点字の世界は、現在もさほど変わりありませんが、カナ文字しかありません。そのカナ文字も、ひらがなとカタカナの区別がありません。また、カナだけで書かれることを考慮して、いわゆる「分かち書き」をします。この「分かち書き」は、ある原則的なルールに則って行われますが、このルールにも、しばしば例外が設けられており、その例外の多さに、点訳者の皆様は、四苦八苦しておられます。
 日本語の点字は明治に入ってから石川倉次によって翻案されたものでした。それは当時開発されたローマ字の原理を応用して組み立てられました。そのために、ローマ字の構成を応用した構造のカナ文字だけが作られて、漢字は作られませんでした。またそれを連ねて文章を組み立てる場合にも、ローマ字の原則を応用して、「分かち書き」をすることにしました。この「分かち書き」の原則も、ローマ字の書記法に則ったもので、その書記法は、欧文の書記法を応用した、品詞と品詞の間にスペースを設けるというものでした。
 現在は品詞の中でも名刺の後に助詞、動詞や形容詞の後に助動詞が続く場合は、スペースを入れないことになりましたが、他はこの原則に従っています。
 勢い「句読点」は、「分かち書きされているので必要ない」ということからか、使用されませんでした。私が成人するころに、分かち書きされた中に、句読点(句点は「」、読点は「」)を付された点字文が出始めましたが、その句読点がどういう原則で付されるのか、それは現在も不明です。点訳に際して、本文に付されている句読点を、そのまま点訳分にも付したという以上には、説明されておりません。視覚障害者が文章を記すときに、この句読符号をどのように使いこなすか、その原則は示されていないと言えるのではなかろうか、そのように思われます。それは、「分かち書き」に使用されているスペースが、句読符の代わりになっていた長い年月にあって、後に活字本文にある句読符を、そのまま分かち書き文の中に付したとしても、触読する者にとっては、分かち書きのためのスペースほどには感知されていないからに違いありません。私自身、点字の分かち書き文の中にある読点を、取り立てた区切り符号として意識することはほとんどありませんでした。言い換えれば、その分かち書きにメスを入れない限り、句読符も、影の薄いものになってしまっている、現状はそのようだ、ということではないかと思われてなりません。
 念のために先の単文を、ひらがなの分かち書きにしてみましょう。

 かれわ しずかに ねむって いる つまの わきに こしを おろした。

 私たち視覚障害者が読む点字表記の文章は、このようなものが延々と続きます。これまで私は漢点字を勉強する理由として、漢字を知らないことが、日本人である私に、どれほどの傷みをもたらしているかということを述べて参りました。以上のことを踏まえますと、単に「漢字を知らないこと」というよりは、「漢字仮名交じり文を読むことができないこと」と改めたい思いを強くします。と申しますのも、日本語の標準的な文章にとって、1つ1つの漢字という文字が大いに大きな位置を占めていることは確かなことですが、この漢字を中心に組み立てられた漢字仮名交じり文こそが、日本語の表記、日本語の構成を支えているのであって、それに触れることができないことこそが、視覚障害者にとって最も大きな障害となっているのではないかと思えるからです。音訳者の勉強会に出席して、過去の経験を思い起こし、私自身はそれを克服すべく努力してきた積もりではありますが、その方法を実現できていない現在を思えば、まだまだやり残していることが満載だなあ、というのが現在の感慨と言ってよいでしょう。

    語彙
 毎日新聞の有田様は、東京の羽化の会の発足時に本会の取材をして下さって、それ以来お付き合いいただいております。そんなご縁から、今回の記事をご執筆下さいました。
 取材では、本会の活動について大所高所からご質問下さって、「漢字を知らないまま成長して社会へ出るということは…」、「つまり語彙を獲得できないままということですか?」というご質問に至りました。全くその通りとお答えしましたが、お答えすると同時に、またも「句読点」のエピソードと同じ頃の、同様の思い出が想起されました。
 また先の人物と同じ青年から、別の日に、「やはりゴイですよ。ゴイを身に付けなければ、世に乗り出すことはできませんよ。」という意味(些細は失念しました)のことを言われました。さて「ゴイ」、私は誠に困惑しました。彼にもその困惑は通じたに違いありませんが、そのような私の困惑は日常茶飯だったので、彼の反応は、「またか」というものだったように覚えています。
 当時の私は、漢字の知識どころか、漢字がどういう文字かも知りませんでした。「彙」という文字の存在、「イ」という音読、「あつめる」という訓読と「はりねずみ」をも意味することなど、思いも寄らぬことでした。漢字の知識はありませんが、漢字音による熟語は多少暗記してはいますので、大急ぎで「ゴイ」とはどんな意味だろうと、乏しいながらも脳裏にある辞書をめくってみましたが、「語彙」などという熟語は、そもそも存在すらありませんでした。その代わりに出てきたのが、「語意」という熟語で、勿論このように漢字の熟語としてではなく、「ゴイ」、「ゲンゴのゴ(語)、イミのイ(意)」という形で現れたのでした。それを私なりに「言葉の意味」と理解して、その折りの彼との会話では、「ゴイ」とは「言葉の意味」として話を進めました。恐らく彼は、呆れ返ったままその日は分かれたのでしょう。「語彙」という「語彙」がなかったために、「語彙」の意味を取り違えたという、シャレにもならない事態を招いたという次第だったのでした。
 ついでに申せば、「語意」の「語」が、音読が「ゴ」、訓読が「かたる」、その意味は「ことば、はなし、はなされたことば」というもの、「意」は、音読が「イ」、訓読が「こころ」、その意味は「人の思いや心のうごき」ということは全く知る由もありません。「語」は「ゴ」であって、「かたる」という訓読とは結び付かず、「意」は「イミのイ」であって、「こころ」や「思い」とは一緒になりません。「意味」の「イ」が、「意識」の「イ」、「意思」の「イ」と同じ文字であるなどということも、夢にも思わないことだったのでした。「意味」も「意識」も「意思」も、文字通りには理解できないでいた、理解できない状態に置かれていたということだったのでした。
 さて「語彙」に戻りましょう。
 「語彙」を『広辞苑』の電子版で引きますと、左のようになります。まず「彙」から、

 《い 彙  たぐい。同類のもの。それを集めること。また、その集り。》

 《ご‐い 語彙 〔言〕(vocabulary)1つの言語の、或いはその中のある範囲についての、単語の総体。また、ある範囲の単語を集めて一定の順序に並べた書物。》

とあります。英語の"vocabulary"の訳語のようですので、英和辞典も調べてみましょう。

 vocabulary: (一個人、著者、一分野などの)語彙(ごい)、用語数、用語範囲。(一言語の)総語彙。

 ポケットサイズの英語の辞書には、

 vocabulary: List of words in a language, arr-anged alphabetically with definitions.

とあります。「語彙」は、どうやら"vocabulary"の訳語と捉えてよいようです。ただし英語の辞書では、「ある範囲の単語を集めて一定の順序に並べた書物」という意味だけが取られていて、「1つの言語の、或いはその中のある範囲についての、単語の総体」という意味は、希薄なようです。英和辞典では、「語彙、用語数、用語範囲、総語彙」となっていて、辞書にありがちな円環に嵌った感をきたしています。
 こうしてみますと「語彙」という熟語の意味は、かなりの抽象概念を指示していて、一言では語り切れないものがありそうです。「単語」、「文章」、「用語」など、言葉を切り取る単位は幾つかありますが、この「語彙」は、これらを総括した概念と言い得るもので、言葉を用いる範囲を、用いる主体の側から括った言葉の単位と言えばよいのかと考えております。
 『広辞苑』や『岩波古語辞典』の編纂者であった故・大野晋先生は、先生の年代の東大の学生の語彙数は25,000ほどに上ったが、現在(1990年代)では、15,000ほどに減っているとおっしゃって、残念がっておられました。この語彙の数とは、どのようにして算出されたのかは分かりませんが、「語彙」を右のように捉えるならば、その人が使いこなせる言葉を、言葉の句切りを単位として数えるということと解してよいのでしょう。
 私の語彙数がどのくらいあるか、誠に心許ないものがありますが、しかしここに述べましたように、漢点字を学んで漢字の世界に歩みを進めることができるようになってから、言い換えれば、本会の活動を始めてから、それ以前との間には、格段の隔たりができたに違いありません。私の読書はかなり我が儘なもので、その多くがプライベートな音訳サービスに依存してきました。そこから得た書物の知識や志向から、本会の活動の方向を検討して、現在に至っております。
 現在の私の読書は、本会の活動から得たもの、恐らくこれが「語彙」ということになるのでしょうが、再度これまでの読書を繰り返してみようというものになっております。本会の活動以前の読書を、活動から得たものによって読み直そうということです。既に読んだ書物を、時日を隔てて読み返すということはしばしばありますし、そこから得るものや書物の印象がかなり違ったものであったりすることは珍しくありません。そういうことも含めて、読書は、楽しみの1つになっております。「語彙」を豊富にする、思い返せばそのことを、漢点字の創案者である川上泰一先生は、私たちに望んでおられたに違いありません。
 視覚障害者が漢字を使いこなして読書をするということは、まだまだ一般ではありません。しかしそれが実現できなければ、視覚障害者の読書は本当の読書とは言えない、このことは、譲れない一線でもあります。


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