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漢点字の散歩(52)
                    
岡田 健嗣

    カナ文字は仮名文字(4)

 本誌何号か前から拙稿を書き始めましたが、その折りに、一つの思いが私の念頭を占めていました。いや思えば、拙稿を書き始めたころというのではなく、もっとずっと以前、思い起こせば、漢点字を学ぼうとしていたころにまで遡るのかもしれません。その思いとはどういうものか、曰く言い難いものではありますが、ある意味で、私のルサンティマンの原点の一つのように思われるものに違いありません。今回は、このことについて述べさせていただくことから入らせていただきます。
 もっともここに「ルサンティマン」と書きましたが、まずはこの「ルサンティマン」とは何かから考えなければいけません。
 いつものように「広辞苑」を引いてみますと、

 ルサンチマン【ressentiment フランス】/ 怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積っている状態。

とありました。
 いやはやこのごく短い文の中に、何とおどろおどろしい語句が並んだものでしょうか!恨み・憎しみ・妬み・嫉みなどが合い重なって、屈託し内攻し、積もりに積もって心を苛んでいる状態と言います。このように見て来ますと、こんなことを書き始めたことに、正直、しまったと思わずにはおられません。しかし、ここから始めませんと、この後に続かないという思いもありますので、お許しいただきたいと存じます。
 この「ルサンティマン」は、意識するかしないかは別として、大なり小なり誰しもが抱えている心の状態であって、また大いなる負担になっているものに違いありません。「怨恨・憎悪・嫉妬」という語句が指すところがその中身だと言われれば、誰しもが抱く感情や心情と言うことができるからです。そしてこれらの感情や心情が積み重なったのが、この「ルサンティマン」なのです。つまりこれらの感情や心情は、一過性に通り過ぎ、消滅するものではなく、時とともに積み上がり増大して行くものだと言っていることにもなります。してみますとこの「ルサンティマン」こそが、万人の悩みの元と言ってよいとさえ思われて来ます。一人の人が抱えている「ルサンティマン」、大きさや重さや性質の異なった他の人の「ルサンティマン」、これらがすれ違い、絡み合い、衝突し合うという光景は、できれば想像したくはありませんが、実際は、世間の付き合いの中、家庭・職場・その他の付き合いの中で、日常的に繰り返されているに違いありません。そのようにして形成されたと思われる私の「ルサンティマン」の一部分に、私自身が気付いたところからお話は始まります。
 私は幼年期、強度の弱視であったために、盲学校で初等・中等・高等教育を受けて育ちました。そして高等教育の課程に入るころ、失明し、全盲となりました。その盲学校では漢字の教育は一つとして施されませんでしたので、漢字という文字の存在は知っていても、漢字そのものを知る機会を得ることはありませんでした。
 当時の盲学校の高等教育の課程は、全国的に「理療科」と呼ばれる職業教育の課程が一般で、ほんの僅かだけに、「普通科」と呼ばれる一般の高等学校に相当すると言われる課程を設けている学校がありました。私はその高等部の「理療科」の課程に進んで、口を糊するべき職業に必要な資格を得て現在に至っております。
 盲学校の先生方の構成は、普通の授業を担当される先生方は、一般の大学で教員の普通免許を取得された方々です。普通の教員として就職されて、盲学校に配属された方々です。理療科の授業を担当される先生は、筑波大付属盲学校の、理療科教員養成課程を卒業して、各地方の盲学校に赴任なさった方々です。私の通いました横浜の盲学校では、理療科の先生の多くは全盲でいらっしゃって、若干名の弱視の先生がおられました。その弱視の先生方は、恐らく独力で、漢字を学習なさったご様子で、目を近づけたりルーペを使用したりして、普通の文字の図書をお読みでした。全盲の先生方は、カナ点字の図書、あるいはそのころ盛んに製作され始めた音訳図書に頼って読書をしておられました。そのような先生方は、盲学校のご出身で、私同様漢字の教育を受ける機会を得ないまま、また盲学校に就職なさったという経歴の方々です。
 授業というのは誠に面白いもので、カリキュラムはどの学校でも同様に設定されているはずですが、生徒の側から申しますと、教壇に立たれる方によって、面白くなったりつまらなくなったり、興味深くなったりさほど興味を引かれなくなったりがあります。恐らく先生方にも同様のことがあるらしく、力の入るクラスがあれば、通り一遍で終えてしまうクラスがあったようです。そんな中、授業に力が入らないためか、余談とともに時折こんなことをおっしゃる全盲の先生がおられました。「ご先祖様を恨むよ!何で日本語をカナだけで書けるようにしてくれなかったのか!もしカナだけで日本語が書かれていたなら、こんな苦労や情けない思いをしなくてもよかったはずだ!」
 こういう言葉を幾度聞いたか分かりません。お一人だけがおっしゃっておられるのではありませんでした。全盲の先生は、これに類したことを、ほとんどの方がおっしゃっておられました。ただしそれは、授業中か放課後に他の先生がおられない時に限られておりましたが・・・・。
 盲学校を卒業してから、私は同様のことを別の場所で耳にすることになりました。それは視覚障害者が集う席でした。多くの視覚障害者が一つの場に集まって、そこである高名な視覚障害者の方、一般には「識者」と呼ばれる、お名前の下に先生と呼ばれている方のお話を聴く席のことでした。私はごく若いころでしたので、その他大勢の一人という扱いで、誠に気軽に出席したのでしたが、その先生も、聴取者が視覚障害者ばかりだったからか、軽いタッチで「ご先祖様が恨めしい!・・・・」と、盲学校の全盲の先生がおっしゃったのと同様のことをおっしゃいました。そんなことがあった後にも、別の視覚障害者の識者の方も、同様のことを同様のタッチでおっしゃっておられる場に同席することがありました。なるほどこれが視覚障害者の共通の理解だったのだ、と私はそれにやっと気付いたのでした。
 もっともそのような言葉を聞くことになった盲学校でも、また卒業後の視覚障害者の集いでも、私も同様の気持ちでいたように思います。全てがカナ文字で表されていれば、日本語の文章も、何と分かり易い文章だったろうに、視覚障害者も、一般の晴眼者とともに、社会で活動し易かっただろうに、そう私も思っていたのでした。
 右に述べた見解、見解と言えるものかどうか分かりませんが、「日本語がカナ文字だけで表されていたなら・・・・」という見解、冷静に落ち着いて考えて見れば、指で触れるだけで泡のように散ってしまうような、誠に頼りないものであることは、容易に・瞬時に分かるはずです。ところがそれが分からない、みんなで渡れば赤信号も青信号に見えてしまうような、心がそんな状態に置かれてしまったようでした。
 わが国の視覚障害者は、〈漢点字〉が世に問われるまで、漢字の世界を全く知ることができませんでした。漢字の世界を知るには、まず漢字を学ぶ必要があります。しかしそれだけではその世界の入り口に立つことができたに過ぎません。まだその世界に踏み入ったわけではありません。正にそこからが正念場で、如何に沢山の、よい本を読むかというところが問われます。
 視覚障害者がそれを果たそうとしますと、視覚に訴える文字の代わりに、触覚に訴える文字が必要となります。それが〈点字〉です。わが国の視覚障害者がわが国の文字体系を習得し、書物を読もうとする場合、その触覚に訴える〈点字〉の漢字体系がなければなりません。そしてその漢字体系で表された書物がなければなりません。その漢字体系の〈点字〉が、他ならぬ〈漢点字〉です。その〈漢点字〉が世に問われたのは1969年だったと言われます。来年でちょうど50年を迎えます。しかし残念ながら、50年の年月が流れたと言っても、〈漢点字〉は、普及していると言うには、ほど遠い状態と言わざるを得ません。
 もう一度右の先生方の言われることを考えてみたいと思います。
 漢字文化圏に属しているわが国は、望むと望まぬとに関わらず、漢字という文字なしには、文章を書き表し、文章を読むことは叶いませんでした。そのために私たちの大先輩は、何十代にも渡って漢字を受け入れ、漢字を研究し、漢字をわが国の言葉を表すための文字に育て、日本語の成熟に努力を重ねて来られました。
 このように言えば右の先生方は、左のように言われるでしょう。曰く「日本がヨーロッパや中東にあったら、漢字を使わずに済んだだろうに!」。確かに欧州の文字、ユダヤやアラビア・ペルシアでは漢字の使用はありません。その限りではもしわが国が地理的に今の位置になかったならば、漢字から解放されることは確かだったでしょう。しかしその代わりにその文字は、音を表す音素文字であって、音は表しますが意味は表さないという文字となります。現在でも欧米の言語論は、音と意味がどのように繋がるかというところにその中心があって、漢字のように意味を表す文字はその対象とはなり得ずにおります。漢字文化圏の文字は、文字がそのまま意味を表します。欧米の言語論は、そのようなことは考慮のうちに入れていないように見えます。
 あり得ないことをあり得るように言うのは誠にフェアではありませんし、百歩譲ってのこととしてそういう状態を想定することとして、もしわが国が欧州やアラビアの近くにあると仮定してみますと、音素文字をその表記用の文字として採用することになります。そうしますと音だけで表現しなければならないという、欧米やアラビアの言語に見られるような、意味は意味、発音は発音、文字はその発音を表す記号という位置に置かれることになります。「カナ文字だけで表すことのできる日本語」とは、結局そういう言語にならざるを得ないということになるように思われます。音だけを表す文字で日本語を表そうとしますと、言語全てを音の変化であらわそうというバイアスが働いて、欧米の言語のように、発音も複雑になりましょうし、単語の数や語彙やその表現法も格段に複雑化して、さらに増加することになるでしょう。現在を起点としてそれを考えますと、ほとんど別の言語にならざるを得ない、大きな変化に見舞われるものと考えられます。またあり得ないことですが、2000年前に遡って、歴史をやり直して、音素文字、あるいは音節文字で日本語を表す情況を設定して、2000年後の現在を想定したとしますと、恐らく現在の日本語とは全く違った、似ても似つかない、外国語と言ってよいような言語が使用されているように想像されます。
 日本語を漢字から解放するという、右の先生方のおっしゃることを考えますと、以上のようなところに逢着します。しかもこのことは飽くまで無理を重ねた想像のもとに言えることで、実際にはあり得ることではありません。が、一つだけ考えられることがあります。
 同じ漢字文化圏であるベトナムでは、フランスの統治の間に、漢字での表記法を失ってしまったとのことです。朝鮮半島でも、日清戦争以後の日本の統治の時代に、日本語の流入によって、土地の言葉が大幅に損なわれたと言われます。わが国でも、そのことは他人事ではありません。
 もう一つ、「仮名文字運動」、「羅馬字運動」という運動があるようです。日本語をカナ文字やローマ字で表記しようという運動と言われます。これを実践しておられるとおっしゃる方々のおられることは知られていますが、どのように実践されておられるかを、私どもは知ることができません。またこのような運動の実践者と言われる方々の中に、先天の視覚障害者のように、漢字の知識を持たない方がおられるか、この点も知ることができません。これまでのこのような運動の推進に当たっておられた方々は、その多くがいわゆる知識人の方々です。そうしてみますと、一般の大衆に比べて、漢字の知識は豊富な上に豊富にお持ちですし、文章の能力も一般の大衆より格段に優れておられるに違いありません。そのような方々がカナ文字の表記、ローマ字の表記を推奨なさるには、そこには相当の意義を感じておられることと存じますが、そのような中に、漢字の知識を持たない者が含まれるのかということ、私どもにはその辺りを知らなければならないのではないでしょうか?
 日本列島に人が住むようになって、長い年月を経ているうちに、大陸では文明が芽生え、国家が形成されます。列島にはかなり以前から人々が住んでいて、漁猟や採集で生活を営んでいました。その後期には、米穀の生産も始まりました(縄文時代)。
 紀元前十世紀ころ、大陸から列島に向けて人々が渡って来ました。先住の人々と住み分けたり混交したりしながら、列島を北上しました。米穀の生産に勤しむ人々でした。水田を開発し耕地を広めて、そのようにして米穀の生産がわが国の経済の中心となって行きました。彼らは米穀の生産の技術者であるばかりでなく、文字という、大陸でも最新の文化をも携えていました(弥生時代)。
 しかし現代から思えば誠に不思議なことがあります。彼らが持ち込んだ文字である〈漢字〉は、明らかに古代の中国語に対応した文字だったはずです。そして大陸から渡って来た人々も、その大半が中国系だったに違いありません。ところが現在私たちが使用している日本語と呼ばれる言語は、文法も発音も、中国語とはその起源を異にしたものと言われます。日本語の起源がどこにあるのか、現在も分明ではありませんが、いわゆる「孤立語」である中国語に対して、日本語は「膠着語」と呼ばれる構造であると言われます。そのような相違点がありながら、技術的にも文化的にも圧倒的に優位にあったはずの大陸渡来の人々の言語が、何時しか原日本語とも呼ばれる言語に回収されてしまいました。何時しかと書きましたが、かなりの初期、遅くとも紀元の初頭ころには日本語と中国語の相違が人々に意識されて、政治・行政・外交の言語としては中国語を公用語と位置づけつつも、日常語としては、日本語を使うことが一般になって行ったのではなかろうかと思われます。古代の中国語を使用していた人々も、公的文書以外は、日本語を使用するようになったということです。「記紀歌謡」がどの程度時代を遡れるものか分かりませんが、歌謡として残っているものは、口伝が文字に記された8世紀初頭からは、恐らく数世紀ほど遡ることができるとすれば、歌謡や日常語は、列島に生活する人々の言語として、日本語が通用していた証であろうことが伺われます。
 このように、文字が使用されたのは公用語としての中国語だけに限られた時期が長く続き、8世紀に入って、「原万葉集」とも呼ばれる『人麻呂歌集』の登場と『古事記』の編纂によって、やっと日本語を文字で表すという試みが試みられることになったのでした。
 本会の活動を通して、「万葉集」を漢点字で読むことが、私の目標の一つだと、以前記しました。勿論その目的の一つに、「万葉集」を「鑑賞」するということがあります。残念ながらこれは私にとって極めて敷居の高いものを感じますが、弛まぬよう頑張って見たいと思っております。もう一つ、日本語の表記がどのようにして現在のような「漢字仮名交じり」の形に収斂されたのか、そのプロセスを追ってみたいという思いが強くありました。
 そこで今回の最後に、左の歌謡を考えてみたいと思います。

  夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁

 この歌を現代のカナ書きにしてみますと、

  やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを

となります。よく知られている「記紀歌謡」の素戔嗚尊(記紀では、「須佐之男命」と書かれているようです。)が、出雲に国を立てた時に歌った歌とされています。
 見事な音仮名だけで表された歌です。その意味では、そっくり現代のカナ文字に置き換えても歌の味わいを損ねることにはならない訳ですが、しかし一般にはこのようなカナ文字だけの表記で読むことはありません。
 それならどのように読むか、

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

です。現代語に訳しますと、「八雲立つ」は「八つの雲が立つ」、瑞雲のことでしょうか?枕詞となって次の「出雲」を導きます。「出雲」は今の島根県の旧国名、古代の国家の所在地です。素戔嗚尊が建国した国と言われます。「出雲八重垣」は、その出雲の国に八重の垣を築いて、「妻籠みに」、妻を迎えて国を営もう。「八重垣作る その八重垣を」、八重に垣を築いて、その八重の垣を巡らした中で営もう。こんな感じでしょうか!
 原文は音仮名で表されたこの歌謡、現在の私たちには音仮名だけでは読めない歌謡(このように漢字仮名交じり文に直した歌がよく知られている歌であることはここでは問わず)、この歌の意味を読むには、このように漢字仮名交じりに訳さないとその意味を理解することができません。いや、また別の意味に理解することもできるようです。
 「やくもたつ」→「八蜘蛛断つ」、先住民であって、服わぬ民である「つちぐも」、その八つの部族(八岐大蛇を想起させます。)を平らげて、妻を迎えて出雲の国に国を立てよう。「やえがき」→「やえ書き」、掟書きを作って、それに従って国を営もう!
 こういう理解もあると聞きます。カナ文字だけの歌として読もうとしますと、その理解には限界があることが分かります。漢字をどのように当てるか、それによってその意味が大きく変わって来る、後代の誰かが漢字を当てて下さったからこそ、その意味を確定して読むことができるようになったのです。
 もう一つ、「八雲立つ=v、「妻籠みに=v、「八重垣作る=v、「その#ェ重垣を=v。
  ≠ナ挟んで記した文字は、カナ文字でなければなりません。「そ」もカナ文字で書かれておりますので、これも挟んでおきましたが、このような歌の場合、「こ・そ・あ・ど」の指示代名詞は、漢字が用いられることが多いようです。
 このように「漢字仮名交じり」とは、日本語の表記法として最も収斂された表記法であることが分かります。日本語の表記では、カナで書くべきところが分明です。カナ文字であるべきところに漢字を当てることはできません。カナ文字とは、そのような働きをする文字なのです。

 以上、今回は「ルサンティマン」からお話を始めましたが、全ての「ルサンティマン」を克服するなどということは誠に身の程知らずということに違いありませんが、自らに気付いた「ルサンティマン」は、克服すべく努力したいものと、私は考えております。
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