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   訳書紹介『アメリカはカースト社会 〜公立高校の教壇から〜』

 生田典子著『アメリカはカースト社会 〜公立高校の教壇から〜』(武蔵野書房 1996年)
 「あとがき」を以て、ご紹介に替えさせていただきます。

 あとがき

 1993年夏から殆ど毎日のように日本にいる家族や友人に書き送ったレポートを、1字1句いじらずにそのままここに載せました。その時の生の感性を大事にしたかったからです。日本に帰って、家族と友人に囲まれた安全な生活の中で読み返すと、1人で突っ張っていた自分が見えます。安全な日本にいて考える「アメリカ」と実際に住んでいた「アメリカ」との間にはとても大きなギャップがあることも実感します。1人で「アメリカ」に住み、仕事をすることは学生として滞在するのとも、旅をするのとも異なっていました。つらいこともありました。よく言われるように「旅人には優しいアメリカ人は、競争相手には厳しい」ところもありました。
 これまで伝えられたアメリカ観は大都市に住む日本人からのもの、特に大会社、大学関係、マスメディア、芸術家などからのものが多く、しかも家族と一緒だったりした「日本」を持ち込んでの「アメリカ」ではないかと思うのです。私が出会った日本人の中には親方日の丸のバックアップも何もなく、アメリカに1人住んでガンバっている人たちがいました。そういう人々は一様に「実はアメリカが嫌いになった」と告白していました。私にも同じ思いをしたことが何度もあります。ところが日本に帰ってくると、つらかったことも、不愉快だったことも、みんな思い出は甘美に蘇ってきて、「アメリカ」がすばらしくなっていきます。それでも今は、映画やテレビ、本や雑誌や新聞に表われる「アメリカ」の欺瞞を見抜くことができます。
 アメリカに住んだ前と後ではアメリカ観が変わったかどうか、と友だちに聞かれるたびに、私はハッキリと変わった、と答えています。先ず、アメリカはカースト社会の国であるという実感です。アメリカは人種の坩堝ではなく、住み分けの社会であるということです。またアメリカの自己主張というのは、自己弁護の主張であって、日本でよく言われるような高邁なものではありません。ディベイトにしても日本では非常に誤解されています。あくまでも相手を言い負かすというところにポイントが置かれ、正義感に裏打ちされている討議では決してありません。一般の人々の話です。自由の国と言われるアメリカですが、自分の身分に関わるところでは決して自由に発言出来ず、「本音と建前」がある社会でもありました。親しくなった者同士では「白人、黒人が共学するようになった60年代以後、アメリカの教育は悪くなった」などと黒人に対して不満を述べながら、建前では「ノープロブレム」と澄ましています。ある白人ばかりのパーティでスピーチを頼まれ、アメリカの教育について質問を受けたことがあります。
 「日本とアメリカで教育に携わっているあなたに聞くのだから、正直に答えて欲しい。ほめ言葉はいらない。我々も悩んでいるのだから。アメリカの問題点が見える筈だからそこを聞きたいのだ。正直にお願いします」と懇願されて、最初躊躇しましたが、ついに正直に感想を述べたことがあります。ところが一週間後には教育委員会に呼ばれ、教育長と副教育長にこってりと油を絞られました。学校以外のパーティで学校内のことを喋ったと言って抗議されたのです。私のコメントは正しくないというのです。それなら堂々とそのパーティの人に言うべきであるのに、それをせず、陰で私を責めたて、そのパーティの人々に「わび状」を書け、と迫りました。私は、「アメリカは『言論の自由』の国ではないのか。私の責任において私個人のコメントであると表現しているのだから、わび状を書く必要はない」と突っ張りました。
 後で、そのパーティの主催者の1人である教会の牧師に相談しましたが、その必要がないということで結局無視しました。その牧師が言った「あなたはアメリカの汚い部分に触れることが出来ましたから、ある意味ではよかったですね。あなたが旅人でない証拠ですね」という言葉が忘れられません。
 日本にいるとアメリカが非常に近く感じられますが、アメリカにいると日本は非常に遠い国でした。日本で言う「アメリカ」は殆ど大都市であり、中流以上のインテリのイメージですが、地方に住む多くのアメリカ人は、そのイメージからはほど遠いのではないでしょうか。貧富の差が大きく、教育の分野でも優秀な者とそうでない者の差は日本の比ではありません。私たちは、どうしても自分の物差しで他を測ってしまいがちですが、その物差しの目盛りそのものが異なることを実感するのは、1人で住むという「体験」が必要なのかもしれません。
 1994年秋、日本に帰ってきてすぐに日本で初めて開かれた「東アジア女性フォーラム」の裏方を務めました。歴史的に共有するものを持つ東アジアの女性たちは、たとえ言葉が異なっても何か共在感がありました。そして、この夏に北京で開かれた第4回国連世界女性会議のNGOフォーラムに参加した際にも同じことを感じてしまいました。今から10年前の第3回ナイロビ会議では、アフリカの人々よりも欧米人が多くいたように感ずるほど、先進国の白人が光って見えました。そして10年、今回の北京会議ではアジア人が多く、アジア・アフリカの人々のパワーが溢れ、白人たちが目立たない存在に感じたのは、世界の時の流れの結果であると同時に、私の白人に対する信仰が崩れたからに違いありません。ナイロビ会議で私たちが羨望の眼差しで見たアメリカの女性たちは、アメリカの中でも優れた活動家たちであって、普通の人々は今でもかなり保守的な考え方に束縛されていました。そんなことは知識では分かっていることなのですが、「実感」によって自分のものになったということです。
 最近のOJシンプソン事件でも分かるように、白人が有色人種に対して本音のところで持つ差別意識は、日本人の想像力を超えるという実感もあります。だからと言って国粋主義者にはなっていませんが、アジア人としてのプライドをくすぐられたことも確かです。「人類みな兄弟」という言葉は、言うのは簡単なことですが、実感するためには幾多の苦労をし、忍耐と努力がいることでしょう。だからこそスローガンなのですが…。では、私は「アメリカが嫌いになったか」というと、そんなことはないのです。親しくなった友人たち、あの美しい自然が恋しいのも事実です。アメリカの持つダイナミックな力も魅力的です。
 今、アメリカナイズされていく若者の生活を見ながら、彼らがアメリカに1人住んで仕事をするようになった時には私のような「実感」はないのかもしれないと思ったり、否アメリカの若者たちと共有文化を持つという錯覚から、もっと激しいショックを受けるかもしれないと思ったりもしています。いずれにしても、小さな島に住んで内輪で生活していると「精神的ガラパゴス」になってしまいますから、外の荒々しい世界に身を置く人が増えることを期待しています。そして私も、海の向こうへ今後も何度も足を運んでは体で異文化に触れ、「実感」をしたい、と思っています。

 日本に帰ってきて、すぐこれらのレポートをまとめようとしたのですが、次々と大きな仕事に関わり、自分のことは後回しにする性格もあって、原稿はずっと部屋の片隅に押し込まれていました。武蔵野書房の福田さんにプッシュされなかったら今でも原稿を放置したままであるに違いありません。その上、北京会議の報告書作成に時間を取られ、初ゲラの校正もままならず福田さんにはずいぶんご迷惑をかけてしまいました。感謝とおわびを申し上げます。また、アメリカからの私のレポートの愛読者であり、何かと励ましてくださった劇作家の木庭久美子さんには心から感謝しています。
 1995年秋  生田典子

 著者略歴:
 1935年、東京に生まれ、すぐに父親の仕事の関係でマニラに住む。1958年、東京女子大学英米文学科を卒業。その後北鎌倉女学園、相模工業大学(現在、湘南工科大学)付属高校にて英語の教師として教鞭をとったあと、1993年バージニア州ノーサンプトンハイスクールに交換教員として勤務し、翌年帰国。その他、視覚障害者のために朗読をし、地元でよい芝居を上演するための実行委員をする。また第3回国連世界女性会議・ナイロビ会議、東アジア女性フォーラム、第4回国連世界女性会議・北京会議に参加し、「男女でつくるいい社会」を目指す。現在地元の鎌倉市民同窓会の環境部会に属し、鎌倉FMラジオでは「イクタノリコのつれづれ日記」で様々なメッセージを発信中。

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