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        漢点字訳書紹介 『寺山修司歌集』

                                    
   岡田 健嗣


 2011年度に横浜市中央図書館へ納入した漢点字書、『寺山修司歌集』をご紹介します。
 寺山修司著『寺山修司歌集』(国文社、現代歌人文庫B、1983年)
 収録歌集は以下の通りです。『空には本』(昭和33年)、『血と麦』(昭和37年)、『田園に死す』(昭和40年)、「テーブルの上の荒野」(『寺山修司全歌集』より、昭和46年)
 本書は、著者寺山修司氏が逝去した、1983年に刊行されたものです。
 歌人から出発した寺山修司のプロフィールは、本書によると以下の通りです。
 《1935年12月10日、青森県弘前に生れる。1954年春早大入学、「チエホフ祭」50首によって、第2回短歌研究新人賞を中城ふみ子に次いで受賞、一躍脚光を浴びる。同年冬、ネフローゼを発病、22歳までの四年間を、病床にありながら、歌作、劇作、読書等に専念。以後65年、最終歌集『田園に死す』刊行までの10年余り、短歌前衛を果敢にリードする。71年、未刊歌集「テーブルの上の荒野」を『寺山修司全歌集』一巻の中に暴力的に収録し、歌の別れを告げる。1983年5月4日晴天、永遠に歌の訣れを告げる。》
 このように著者寺山修司の歌人としての活動は、10年あまりと極めて短いものでした。しかしもたらしたインパクトは、計り知れないものがあります。本会であえて寺山の歌集を漢点字訳することにしたのには、理由があります。それは、私を含めて視覚障害者の多くの者が、寺山の原点である短歌の創作とその発表と、それに伴う社会の揺れ動きから、否応なく隔てられてきたことにあります。彼の逝去から30年を迎えようとしている今日、その意味では、やっとこのような機会が訪れたか、そういう感慨を禁じ得ません。
 インパクトの強さは、それを受け止める側からすれば、大きな動揺と感じられます。寺山の場合はそれが途方もなく強かった。そして大方の反応はそれに拒絶的だったようです。
 本書に収録されている歌人論『アルカディアの魔王』で歌人の塚本邦雄氏は、
 《芸術の諸ジャンルにはそれぞれを劃(かぎ)る不可視の牆壁があるらしく、それに妨げられずに自在に創造力を発揮した芸術家は、古来意外に数多くはない。本職が別にあつてその方も堪能だつたとか、余技が神技に達したと言ふのならこの限りではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの自然科学に機械工学、アマデウス・ホフマンの法律とオペラ、(中略)例証に事欠くものではないが、ジャンルを言語芸術内の諸形式に限つてみても、傑れた評論家は拙劣な詩人であつたり、卓抜な俳人が愚昧な小説家であつたり、非凡の劇作家が悲惨な歌人であつたりする場合が、実例の枚挙は別として、通例であり得た。天は二物を与へるのに際して異常に吝(やぶさ)かであつたのだ。ところがその天が時によつては法外な大盤振舞をすることがあつて、その被饗応者を人人は天才とか超人とか呼びたがる。私も亦たとへば寺山修司をさう呼びたがつた一人だし、今も呼ぶことをやめてはゐない。クロニクル風に言へば、俳句、短歌、詩劇、戯曲の順に、彼はその鬼才ぶりを示して来た。評論、散文詩、ルポルタージュ等はその各形式の背後で著者と形成されて来たし、派生的な産物シナリオ、歌謡等は戯曲、散文詩の中に含めて評価してよいだらう。そしてこれらはすべてその辺の文学青年の出来心的偶発作品ではなく、一つ一つに傑作、代表作があり、厳然とした寺山修司独りの世界があり、その時代の典型たり得てゐる。私は彼を天才、鬼才と呼び、この後もさうあつてほしいと希望するが、同時に彼を秀才と呼んだことも冀(ねが)つたことも、まだ一度もない。秀才と呼ぶあの一度も地獄を見たことのない、渾沌も虚無も、不条理も反社会も、惑乱も耽溺も、わが事に非ずと姿勢を正した合理主義の化物のシンボルを、私はかつて信じたことも愛したこともない。(中略)// 今は昔、彼が作中人物通りではなかつたと眦を決して短歌のモラルを説いたり、用語に先蹤ありとあげつらつて、博覧ぶりを誇示した頑なな先輩たちを前に、途方に暮れつつ憫笑を以て応へてゐた寺山修司を、私はいたましい思ひにみちて想ひ出さねばならぬ。赤旗を売らずに売つたと歌つたことが、それ自体罪と呼び得た、このうとましい世界に、私は彼より先に住んで耐へてゐたのだつた。》(昭和庚戌(1970))
 つまり寺山は、決して好意的に迎えられてはいませんでした。誤解でも無理解でもなくこういう困難さは、優れた表現者には必然なのでしょうし、ある意味で寺山は、見事にそれに答え続けたと言えるのでしょう。
 しかしこのような表現や応答は、受け止める能力を持たぬ者には、その存在さえ知り得なかったのでした。能力の一つ、この分野では決定的な能力である〈文字〉を持ち得なかった視覚障害者には、寺山のどうでもよい、ダーティな情報ばかりが耳を通して届きました。競馬やボクシングやアングラ芝居、視覚障害者にはそれらは、危険な領域、踏み入ってはいけない領域として伝わってきて、あたかも寺山がそのような危険人物ででもあると、了解されていたのでした。
 しかしそんなわけはない、いつか、何とかして、寺山を漢点字で読みたい、私はずっとそう思ってきました。本書に収録されている歌集『田園に死す』の「跋」に寺山は、
 《私の将来の志願は権力家でも小市民でもなかつた。映画スタアでも運動家でも、職業作家でもなかつた。/ 地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思つていたのである。// これは言わば私の質問の書である。/ こんど歌集をまとめながら、しみじみと思つたことは、ひどく素朴な感想だが、短歌は孤独な文学だ、ということである。/ だが、私が他人にも伝統にもとらわれすぎず、自分の内的生活を志向できる強い(ユリシーズのような)精神を保とうと思つたら、この孤独さを大切にしなければいけない、と考えないわけにはいかないのだ。》
と述べています。
 最後に、塚本氏の抽出した寺山の作品からご紹介して、結びとします。

 そら豆の殻一せいに鳴る夕べ母につながるわれのソネット
 日あたりて貧しきドアぞこつこつと復活祭の卵を打つは
 失ひし言葉かへさむ青空のつめたき小鳥撃ち落とすごと
 智恵のみがもたせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱
 ドン・コザックの合唱は花ふるごとし鍬はしづかに大きく振らむ
 サ・セ・パリも悲歌にかぞへむ酔ひどれの少年と一つのマントのなかに
 かぶと虫の糸張るつかの間甦る父の瞼は二重なりしや


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