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   点字から識字までの距離(64)

                         
山内薫(墨田区立あずま図書館)

    漢字批判(上)

 日本語の文字はかなと漢字によって構成されていることが当たり前であると思われているが、その漢字を廃止したり制限すべきだという主張も繰り返し提唱されてきた。古くは新井白石がその著書『西洋紀聞』(1715年頃)の中でアルファベットと漢字について次のように言及している。アルファベットは「其字母、僅に20余字、一切の音を貫けリ。文省き、義広くして、其妙天下に遺音なし、其説に、漢の文字万有余、強識の人にあらずしては、暗記すべからず。しかれども、猶声ありて、字なきあり。さらばまた多しといへども尽さざる所あり。徒に其心力を費すのみといふ。」要するに、アルファベットは20数文字で一切の言葉を表現できるが、数が万にも及ぶ漢字を覚えるには相当記憶力の良い人であっても精神的に負担が多いと述べている。
 明治維新以降、日本語近代化の一環として漢字廃止を唱えたのは郵便の父とも言われる前島密だった。「御国においても西洋諸国のごとく音符号(仮名字)を用いて教育を布かれ漢字は用いられず終には日常公私の文に漢字の用を御廃止相成候様にと奉存候」という「漢字御廢止之儀」という建白書を1866年、徳川慶喜に提出している。その前書きの中で前島密は「日本の教育は漢字をおぼえることに追われているため、一般国民は知識から遠ざけられているばかりでなく、漢字を学ぶ者は中国崇拝に走って愛国心をわすれ、また物理、技術関係の知識をいやしむために西洋の文化からとりのこされてしまった。」と述べている。そして、明治6年(1873)に独力で 「まいにちひらがなしんぶん」というカナばかりの新聞を発行した。しかし「まいにちひらがなしんぶん」は売れゆきが悪く、まもなく廃刊となった。
 同じ頃、福沢諭吉は「文字乃教」と題する著書(明治六年・1873年)の中で「日本に仮名の文字ありながら漢字を交え用いるは甚だ不都合なれども往古よりの仕来りにして全国日用の書に皆漢字を用るの風と為りたれば今俄にこれを廃せんとするも亦不都合なり。(中略)今より次第に漢字を廃するの用意専一なる可し。其用意とは文章を書くに、むつかしき漢字をば成る丈け用いざるよう心掛ることなり」と漢字制限を主張した。福沢諭吉はこの本の中で、小学校(当時は四年制)の漢字として八〇四字を提案した。(当時の小学校では3千字〜4千字を教えていたという)
 その10年後の明治16年(1883)には、国語辞典『言海』の編纂者として有名な大槻文彦等によって「かなのかい」ができた。この会の規則第1条には、会の目的として「我が国の学問の道を容易くせんが為めに言葉は和漢古今諸外国の別無く成るべく世の人の耳に入り易きものを択び取り専ら仮名のみを用いて文章を記するの方法を世に広めんとするにあり」とある。5年後には1万人もの会員を擁したが、この会はまもなく姿を消してしまった。
 それ以降、漢字の廃止や制限を主張する運動は(1)新国字論(2)ローマ字論(3)カナモジ論の大きく3つの流れで展開されることになる。
 新国字論というのは新たに文字や書体を考案した案で、速記文字を改良したもの、カタカナを改良して横書きにしたもの、ヒラガナを改良したもの、カタカナとヒラガナをとりまぜたもの、漢字の表意性をとりいれたもの、カタカナにローマ字のような書体をとりいれたもの等々、さまざまなものが提唱された。しかしそのどれも現実に使われることはなかった。
 ローマ字は古くは16世紀、日本に渡来したイタリアやポルトガルの宣教師たちによって書かれていたが、明治18年(1885年)「羅馬字会」が結成され、明治42年(1909年)には物理学者の田中館愛橘等によって「日本のローマ字社」が設立された。田中館の高弟であった田丸卓郎が同社より1914年(大正3年)に出版した『ローマ字国字論』には、「語は人の思想を表す為の道具で、字はその道具を写すだけのものである。」「思想知識を中身とすれば、語はそれを入れてある重箱のようなもの、字はその重箱を包む風呂敷位なものである。我々が漢字の読み書きや使い分けに苦労しているのは、風呂敷の詮索にばかり暇どって、肝心な中身をお留守にしているようなもので、随分馬鹿気た話である。」と、アルファベットを使用している外国と比べて、漢字を使用することでいかに国民が損を被っているかを縷々述べている。そして、最後の要点では「日用文字としてローマ字を使うことによって、初めて漢字から来る損を救い、教育をもっと有効に且つ経済的にして、吾々が世界における烈しい競争に加わって行くことが出来る。ローマ字を使うことは日本語の世界的発展を助け、その他一般生活に、軍事に、商業に、印刷に、外交に、直接間接に要用な利益を与える」とまで述べている。
 3つ目のカナモジ論にはひらがな論とカタカナ論があった。先の前島密の「まいにちひらがなしんぶん」の後、国文学者の物集高見はひらがな書きの辞書『ことばのはやし』を明治21年(1888年)に編んでいるが一般の関心は盛り上がらなかった。カナモジ運動もはじめの頃はほとんどがひらがな運動であった。しかしひらがなは漢字の草書に由来するため1字1字の独立性が強すぎ、語形を作る要素がとぼしかったので、あまり広まることなしに姿を消したという。
 一方カタカナ論は明治19年(1886年)政治家であった末松謙澄が『日本文章論』で、カタカナの横書き採用とその字体の開発を提案したが伝統勢力からの反発もあって立ち消えになった。その後大正年間に住友銀行の理事だった山下芳太郎は末松の案を発展させ、左横書きのカタカナに日本語を統一する案を提唱し、大正9年(1920年)「仮名文字協会」を設立した。そして2年後には機関紙「カナノヒカリ」を創刊した。「カナノヒカリ」は現在も財団法人「カナモジカイ」によって発行されており、最新刊は2006年アキ号で通巻933号となっている。カナモジカイの方針は以下の5点にまとめられている。「1、カタカナを横書きにすること。2、分かち書きを採用すること。3、カナヅカイは、表音式とすること。4、字体は、横はばをせまくして密着させること。5、それぞれの文字は、ローマ字のように、上に出る線のあるものや下に出る線のあるものなど、特色を与え、それによって、それぞれの語に語形を与えること。」このうち1から3までは点字と共通であり、4と5はカタカナ書体(フォント)のことで、様々なカタカナ書体が考案されている。
(今回の記事は「カナモジカイ」のホームページ、および紀田順一郎著『日本語大博物館』ジャストシステム、1994などを参考にしました)


 
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