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   点字から識字までの距離(67)

                         
山内薫(墨田区立あずま図書館)



   「漢字批判」批判

 先日、新しく図書館を利用して下さる視覚障害者のお宅へ点訳希望のパンフレット(CDの解説)を取りに伺った。その方は生来全盲で、小・中・と盲学校に通われ、大学は一般の大学で学ばれた方だ。いろいろお話しを伺う中でとても印象に残ったのは、盲学校の教育はほとんどが晴眼者の発想や感じ方で行われていて、触覚を主体とした視覚障害者の発想や物の捉え方が欠落しているという話だった。晴眼者は視覚文化圏に生きているが、視覚障害者は触覚文化圏に生きているという側面をもっと教育の中でも取り入れるべきだと話されていた。その話を聞いて、すぐに思い浮かべたのは、丁度今までの聾学校において聴者の発想で教育が行われてきたために、手話言語が否定され、口話法が取り入れられてきたことだった。学校という組織の中で目の見えない、あるいは耳の聞こえない当事者の発想や考えが無視されてきたことは「点字」と「漢字」の問題にも当てはまるのではないかと思わずにはいられない。
 この連載では、3号にわたって様々な漢字批判を紹介してきたが、その根底には、日本語の表記に仮名やアルファベットを採用して表音文字を使用することが望ましいという発想がある。戦後1946年に告示された当用漢字は、「当面用いられる漢字」であって、将来的には漢字をなくすという含みがあったようである。しかし、結局は漢字の廃止には至らず、1981年に常用漢字が告示されたことによって「当用漢字」という考え方は廃止されたのだった。日本語の表記を表音にしようという考え方の背景には、言語というものは音声言語=話された言葉であるという思いこみがある。あべ氏が引用した文章、「わたし自信は性格にはわからないのだが、わたしの正確はのんびりしているそうだ。大将的に彼はせっかちで、いくら中位しても効かない蛍光がある」は、確かに音声言語を日常使用している人には、音に変えればある程度理解出来るかもしれない。しかし、例えば日本手話を第1言語としている人にとっては、おそらく全く意味の取れない文章になってしまうだろう。また、あべ氏が別の論文で漢字弱者として取り上げているディスレクシア(読字障害)の人にとっても意味の取れない文章になってしまう可能性がある。わたしの知っているディスレクシアの方は、同席した会議で、配布された文書を読むときにお弁当の箸袋を読むべき行の下に当てがい、右手の人差し指と中指を開いた空間に見える何文字かを判読しながら書類を読んでいく。その方にとっては仮名だけの文章はかえって読みにくいものであり、漢字表記が読むことを助けているのだが、おそらく上記のような誤った漢字を使った文章は非常に理解困難であろうと思われる。「漢字は難しく仮名はやさしい」とは一概に言えることではなく漢字に助けられて読むことができる人も多く存在するのである。
 そもそも「話し言葉」と「書き言葉」は異なるものものではないだろうか。現在の日本は標準的な日本語によって書かれた教科書を用いた学校教育が普及し、テレビ、ラジオから流れてくる日本語は全国どこで耳にしても同じなので、すべての日本人が同じ言葉を話しているような錯覚を持ちかねないが、例えば青森県の方言を表音で表したものを鹿児島県の人が理解出来るかどうかは怪しいと言わねばならない。ニュースを伝えたり、考え方や意志を伝えるために、教科書や新聞という共通の日本語で書かれた書き言葉が必要とされるのである。漢字の本場中国でも、地域で話される言葉はそれぞれに全く違うにもかかわらず、漢字という統一した文字があるお陰でお互いの考えを伝えあうことができるのだ。
 どのように書くか、漢字を書くか書かないかは全く個人の自由にゆだねられているが、書かれた漢字を読むことに関しては、漢字を学んでいるか、いないかで大きく変わってきてしまう。あべ氏が言う漢字が障害になっている、というその障害はすべての漢字に振り仮名をつけることで、ほとんど解決出来る問題ではないかと思う。漢字をなくすことを目指すよりも漢字にはすべて振り仮名をつけることを目指す方がよほど意味があり現実的ではないだろうか。(墨田区立図書館の図書館利用に障害のある人へのサービスの利用案内は絵文字を使用すると同時に使われている漢字にはすべて振り仮名を振っている。)
 さて、はじめの「盲学校の教育はほとんどが晴眼者の発想や感じ方で行われている」という問題に立ち返ってみて、それなら何故晴眼者が当たり前のように使用している漢字(漢点字)を盲学校で採用して教えないのかと疑問に思う。よく二つの漢字を表す点字が併存していることがその理由のように言われるが、本当の理由は、教える側にとって漢点字を憶えるのが難しく教えるのが困難だから、あるいは単にめんどくさいからなのではないかと勘ぐってしまう。誰が盲人には漢字はいらないと判断しているのだろうか。漢字を権威であると言ったり、視覚障害者は漢字弱者であるというのはそれこそ晴眼者の発想ではないだろうか。漢字を学びたい、漢字仮名交じりの文章を点字で読みたい書きたいという点字使用者の意向を全く無視している盲教育界、そして社会こそ権威にあぐらをかいて点字使用者を差別している元凶であると思わずにはおれない

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