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                  私 の 風 景
                              横浜漢点字羽化の会
                                代表  岡田 健嗣


      歴書に替えて (1)

 私は、本会の代表を務めております岡田健嗣(オカダ・タケシ)と申します。本会が初めて製作しますこのホームページに、私を売り出してやろうと、会員の皆さまがこのページを用意して下さいました。

    
生地
 私の故郷は、「広島県御調郡向島町兼吉」です。「御調郡」は「みつぎぐん」、「向島町」は「むかいしまちょう」、「兼吉」は「かねよし」と読みます。広島県の東部、旧国名では備後国に含まれます。
 御調郡は地図にありますように、尾道市の前に広がる瀬戸内海に点在する小さな島々を占めています。そのために、尾道市とは、切っても切れない関係にある地域です。というより、地図をご覧いただけばお分かりのように、尾道市の前にある細長い小さな島であるこの向島も、その東部は、現在では行政区画として、尾道市に属しています。私の生まれた西部だけが、今でも小さな町を営んでいるのです。
 ですから私は、「出身地は?」と尋ねられると、勢い込んで「尾道です!」と答える癖がついてしまいました。しかし、〈それはちがう〉、その度に小さな声を聞くのです。概ね間違いではない、だが違う、周辺なのだ。
 私が生まれたころは、その場所は「兼吉」ではなく、「名郷丸」(なごうまる)と呼ばれていました。「兼吉」は、それより少し東側の商店の多い地域のことでした。その名は恐らく、その昔、小さな集落の名だった名残なのでしょう。また後に地名が変わったのも、日本のどこでも行われていた、行政を単位とした区画整理の故だったのでしょう。
 向島には造船所があって、よくカーン・カーンという音が聞こえてきました。また朝まだきや夕間暮れ、島の人々は、潮(汐)の引いた浜で、あさりやはまぐりを拾ったのでした。そのころの向島には、大きな戦を潜り、多くの人が変わっても、まだ、直哉や独歩の時間が流れていたのでした。

    
町へ行く
 恐らく当時の我が国のどこでもが、半貨幣経済の中にあったのではないでしょうか。
 農村にあった私の生家も、その生活の多くを、自給自足に営んでいました。勿論貨幣なしの生活という訳ではありません。衣食住の多くを、自前で賄っていたということです。
 向島は平地が少なく、また、水源も乏しい島でしたので、水田も少なかったのです。人家と畑地が、狭い土地に入り組んでありました。人々は耕作地を求めて、小高い丘の斜面に鍬を入れて、段々畑を耕しました。
 サツマイモ、ジャガイモ、ナンキン(かぼちゃ)など秋に収穫する作物、大麦、小麦という春に収穫する作物、そしてナスビ、キュウリ、トマト、マクワウリなどの生り物、大根、ニンジン、ゴボウ、里芋、エンドウ、ソラマメ、落花生、ネブカ(ねぎ)、タマネギ、ホウレン草、キャベツ、白菜、あらゆる作物が穫れました。夏にはその畑の周囲にトウモロコシが生長して、まるで生け垣のようでした。
 畑の脇には夏ミカン、カキ、イチジクの木があって、甘味の楽しみを与えてくれました。夏ミカンの木の下にはフキが、庭の井戸の脇にはニラが自生して、食卓に色を添えてくれました。
 朝夕には新鮮な魚の、豆腐の売り声が聞こえ、くまでを持って潮の引いた浜へ行けば、朝餉・夕餉のみそ汁の実が拾えたのでした。
 そのような生活の中にあっても、町へ行かなければなりませんでした。生活は、その日を終えればよいものではないからです。
 向島の中にも町はありました。現在生地の地名となっている「兼吉」です。当時の「兼吉」は、尾道へ渡る渡し船の発着地で、尾道との間に行われる人と物との交通の要所でした。船の発着点、「渡し場」を頂点に、商店が軒を接して商いに精を出していました。この町は、向島で生活する者にとって、貨幣の力を教えてくれるところでもありました。
 自前では手に入らない品物、衣類や家具、また行事に必要な品々は、この町、あるいはもう一つ足を伸ばして、尾道に渡って手に入れなければなりませんでした。自前での調達は、社会生活を営むには不充分だったのです。
 町は挑発的でした。
 人々は尾道に渡り、汽車に乗り、大阪へ、東京へ、刺激と夢を求めて出て行きました。

    
渡し船
 向島と尾道を結ぶ足は、渡し船でした。
 瀬戸内海は大変静かな海で、いつもは波も穏やかでした。ただ気を付けなければいけないことは、潮の速さとその流れの方向です。それを除けば、潮の香りだけが、海であることを教えてくれるような海でした。
 そのような海を、遊覧をする訳でもなく、漁をする訳でもない、ただ、「渡し」だけを目的として考えられた船が、運行していました。
 現在就航している船も、その原型は、当時の渡しをモデルにしています。
 その船の形というのは、極めてユニークなものでした。
 船の形と言えば、航行の安全と速度を重視して、舳先が尖り、艫を丸くした、全体に流線型に近い形のものです。小さなボートから大きなクルーザーやタンカーまで、おおよその基本形はこのようです。
 ところが向島の渡し船は、舳先が尖っていません。なぜならば、その本来舳先であるはずの前の部分から、人や荷物が乗り降りするようになっているからです。
 小さな船でした。ずんぐりしたその木造船は、一面に屋根で覆われていて、艫に焼き玉のポンポン・エンジンを載せていました。
 舳先の部分は大きな塵取りを付けたような形で、その部分を浮き桟橋に乗り上げて、人が乗降するのでした。人だけではありません、オート三輪車が乗ったり、ときには牛までも乗りました。そのようなときは、乗客は舷のベンチに腰をかけて、足を引かなければなりません。そして船はぐっと沈んで、左右にぐらりと揺れたのでした。
 出港は、まずスクリューを逆転させて自動車のようなバックをしながら舵を切ります。充分沖に出たところで、船首を前にして再度発進するのでした。
 普段は静かな海ですが、嵐のときは、波が立ちます。少し高くなると、波は船首を持ち上げ、ついで下に叩き付けます。船首から水がざざあっと流れ込みます。どうもうまくできているようで、その水は、船尾から外へ出て行き、遭難には至りません。
 勿論波がさらに高くなれば、欠航しますし、それも今都会に住んで省みれば、しばしばあったようです。ゆっくりした時間の流れの中で、嵐の過ぎるのを待つのは、当時の人々には、当然のことと受け止められていたのでしょう。
 現在運行している渡し船は、自動車を数台載せる大きさで、大きなディーゼル・エンジンで動く鋼鉄船です。浮き桟橋も大変立派になり、当時とは比較になりません。乗降の方法は変わりませんが、船首を浮き桟橋に乗り上げるのでなく、鉄板を渡して安全に乗り降りできるようになりました。またこの船は、電車のように前後がなく、船尾であった方を船首にして出港するのです。
 しかし、今も昔もこの船が、向島の人々にとって、尾道への足であることに変わりはありません。


        
履歴書に替えて (2)

    
学校
 私は父の仕事の都合で、横浜へやって来ました。小学校入学直前のことでした。役所の指導で、強度の弱視であった私は、市立盲学校の小学部に入学しました。
 盲学校では、点字で書かれた教科書を使って点字で読み書きを勉強しました。点字の50音、点字の数字、点字のローマ字。しかし、漢字は勉強できませんでした。その代わりに、仮名の点字の語と語の間に、スペースを一つ入れることを学びました。
 私たち盲学校の生徒は、世の中に漢字があることを知っていましたが、勉強することはできませんでした。点字を使用するほど視力の弱い生徒に、漢字を教えようという先生がいなかったからです。

    
卒業
 成人式を迎える年に盲学校を卒業しました。
 盲学校は小・中・高(理療科)・専攻(理療科)の課程があって、職業教育が施されました。14年間同じようにして、家と学校の間を往復したのでした。
 盲学校は生徒が少なく、多いクラスでも10人を越える程度で、私のクラスは、6人でした。そのクラスが、私たちにとっての世界だったのです。
 卒業して驚いたことは、世の中には何と人の多いことか、そしてこの沢山の人々と関わりを持たなければ、社会を生き抜けないのだということでした。盲学校の中にいる限り、決まった人と、決まった関係を保っておりさえすれば、ほとんど問題は起きなかったのです。しかし、世の中に出れば、そうは行きません。たった一度しか会わないかもしれない人とも、何らかのコミュニケーションを結ばなければなりませんでした。
 もう一つ驚いたことがありました。そのコミュニケーションの方法である言葉が、盲学校在学中と同じように使っていたのでは、通じなかったことでした。ごく限られた少人数の世界であった盲学校では、語彙も語数も、限られた範囲で充分でしたが、世の中に出ると、そうは行かなかったのでした。
 このようにして初めて、日本語を支配しているのは〈漢字〉であって、日本語は〈漢字〉の意味に頼ることで、言葉としての機能を果たしているのではなかろうかと、朧気ながら気付かされたのでした。
 しかしまだ、漢字の世界に足を踏み入れることはできませんでした。

    
漢点字
 私が29歳のとき、ある点字の雑誌に「漢点字の通信教育」の記事を見付けたのでした。これが私が漢字の世界へ導かれたエポックです。言い換えれば、日本人として生を受けてから29年間、漢字を知らないままに置かれて来たのに、漢字の世界への入り口が、漢点字の姿で、突然現れ、扉を開いたのでした。
 無我夢中でした。
 漢点字は、大阪府立盲学校の物理の先生であった、故川上泰一先生が、盲学校赴任直後から苦心に苦心を重ねて、漢字の構造を点字の符号に実現したものです。そのため、漢字との相互変換を速やかに行うことができて、漢点字を習得すれば、漢字の形を覚えたいときに大変力を発揮しますし、中途で失明された方が、漢字の知識を元に漢点字を習得することを、容易にしているのです。すなわち、視覚障害者が漢点字を習得するということは、その人が、漢字の世界に一歩踏み入ったことを意味しているのです。
 私が漢点字を習得して、何が変わったのでしょうか?これはよくいただくお尋ねです。
 さて、何が変わったのか、実は私は、漢点字習得以前のことが、よく思い出せないのです。忘れてしまったのではありません。あまりにも隔たりが大きく、何から何まで変わってしまったと言うより他ないほどなのです。
 何かたとえを挙げてご説明しましょう。
 ここに「シン」という音があるとします。この音にどの漢字を当てるか、この「シン」という音だけを手がかりにしては決められません。なぜなら「シン」の音の漢字は、常用漢字だけでも40字以上あるからです。
 また逆に、「ハカル」とか「ミル」とか「トル」と読む字も、これだけではどの字を使ってよいか分かりません。なぜなら「ハカル」や「ミル」や「トル」と読む漢字も沢山あるからです。
 このように音や読みから漢字を選択するには、情況や対象の要求する文字を知っていて、的確に判断しなければなりません。そのためには、言葉、とりわけ文字に関する知識を豊富にすることと、言葉の経験、読むこと、書くこと、話すことの経験を積極的に積むことが求められます。
 上に挙げた文字の選択の不可能性は、〈漢字〉という文字の持つ特徴に由来しています。その特徴には三つの性格が挙げられます。一つはその文字の構成、すなわちその文字を支える形です。次に音や訓の読み、すなわちその文字の持つ音です。最後にその文字が持つ意味です。これをまとめて『形・音・義』と呼びます。この三つの特徴が一体となった文字が、〈漢字〉なのです。英語で漢字をLETTERではなく、CHARACTERと呼ぶ訳は、この特徴によると言われています。
 この特徴からもう一つ言えることは、漢字は中国の言葉を表す文字で、一つ一つが中国語の単語として機能していることです。その機能が、日本語の表記にも生かされていて、日本語に用いられる漢字も〈単語〉としての性格を強く保持していることです。
 学校教育の中で漢字に触れる機会がなかった視覚障害者には、その意味で、日本語そのものが手の届かないものでした。そのような環境にあった私は言葉の使い方で、以前は文字の選択などということで悩みはしませんでした。そんな悩みがあることすら知らなかったのです。また私たちが日常使っている言葉には、思いの外漢語の熟語が多いのです。そのために、同音異義語が沢山用いられます。これはうっかりしていると、漢字を熟知している人でも間違えることも珍しくないほどです。この熟語が、漢字を知らなかった私にとって、最も触れることの困難な母国語でした。
 以上、私が漢点字を習得する以前、どのように言葉とつき合っていたか、想像していただければ幸いです。漢点字を習得してからを集約的に言えば、曖昧模糊としていた言葉が、すっきり整理できた、言葉を整理する術を手に入れた、ということになるのではないでしょうか。概念が整理でき、人称が整理でき、主語と述語、体言と用言が整理できて、本当にすっきりした思いです。と同時に、文の難しさ、発語の困難さを、骨身にこたえてもいる現在です。
 漢点字とその考案者の川上先生には、感謝してもし足りない思いです。


         
プロフィール

 岡田 健嗣
 1949(昭和24)年8月7日、広島県御調郡向島町に生まれる。強度の弱視。
 1955(昭和30)年、横浜市に移住。
 学業は、横浜市立盲学校の小学部、中学部、高等部に学ぶ。
 盲学校在学中、全ての勉学を、点字の触読で行う。漢字の学習は皆無であった。
 1968(昭和43)年、全盲になる。
 1978(昭和53)年、漢点字の存在を知る。故川上泰一先生の通信教育を受講。
 1979(昭和54)年、当用漢字の学習終了。
 1991(平成3)年、漢点字訳書の製作を思考。
 1994(平成6)年、吉田映氏製作になる、漢点字変換プログラム〈EIBR〉完成。
 1996(平成8)年、横浜漢点字羽化の会の現態勢開始。
 同年、木下和久氏製作になる漢点字変換プログラム〈EIBRK〉1.00完成。
 1997(平成9)年、学習研究社発行の漢和辞典『漢字源』の漢点字版完成、横浜市中央図書館へ納入。
 現在に至る

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