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              岡 田 メ モ に つ い て

                         横浜漢点字羽化の会代表  岡田 健嗣


 1.岡田メモとは

 この『常用字解』という書物の音訳版を作ろうという活動が開始してから、予想はしていたとは申しても、無から有を生み出すとでも申しますか、あるいはどこから手を付けてよいか分からないと申しますか、五里霧中、あるいは無我夢中の中に投げ込まれたような思いを味わったのでした。これまでの音訳書の製作の経験に、範を問えないことばかりがこの中に幾つも存在することを、思い知らされたのでした。その1つがこの岡田メモの作成に結びついたものです。
 『常用字解』という書物は、白川静先生が切り開かれた漢字学を、一般の私どもにも読み易く、また理解し易く著されたものです。しかし漢字についての解説書ですから、それを音訳するに当たっては、そこに説明されている漢字を説明するところから考えを始めなければいけません。しかしながらこれまでの音訳の作業の中には、漢字の説明を施すことは極限られていて、しかもその説明の方法も、定まっていなかったことに気づかされました。現在まで製作された音訳書では、どの文字を説明するか、またどのように説明するかは、音訳に携わっておられる音訳者に委ねられていて、その説明は音訳者によってまちまちで、また同じ音訳者・同じ書物の中でも、同じ文字の説明が、出て来る度に異なったものになっていることも珍しくありませんでした。そういう現状を顧みて、本書『常用字解』の音訳に当たっても、同様の情況が出現してはならないということを、音訳者の皆様と確認しました。
 そこで私どもは、漢字をどのように説明するかというところから検討を始めました。漢字には「形・音・義」という3つの要素があると言われます。ともかくこの3つの要素を文字の説明の中に盛り込むことでそれが果たされるのではなかろうかという考えが、まず浮かびました。
 そこで私岡田が、音訳者の皆様にお示しし始めたのが、この「岡田メモ」です。名称は現在もそのまま使用しておりますが、その中身は、当初のものととは全く異なったものになりました。

 2.岡田メモのあらまし

 このようにして文字の説明に当たって、「形・音・義」の3つの要素をまとめて説明することが必要だというところまで考えが及びました。そこで「形」の説明を加える方法を試してみましたが、「音・義」と共に行うと、説明が徒に長くなって、「音・義」も割愛し勝ちになることが分かり、またこの『常用字解』では、本文の中で字形の説明が重要な位置を占めていることから、「形」の説明は岡田メモには含めないことを原則としました。従って文字の説明としては、「音」と「義」とを組み合わせたものとなりました。
 また従来の音訳では、その主たる目的は、その書物に著されていることを欠け目なしに聴読者の方にお伝えすることが求められていると考えて、また文字の説明はその範疇にはないものと考えて、できるだけ短い説明が望ましいと考えられておりましたが、音訳の作業を進めているうちに、日本語の表記の中に漢字の占める位置が思いの外大きいことを、また思い知らされることになりました。その書物の著すところを欠け目なしに伝えようとすれば、そこに使用されている文字についての情報も伝えなければ、伝えることにはならないということが明らかになって来ました。極端に言えば、出来得るならば、そこに使用されている漢字には、全て文字の説明を施すのがよいのではなかろうかと考えるに至ったのでしたが、それでは文章の音訳とならないことは言を待ちません。
 そこで考え方として、従来行われて来た文字の説明法である、対象とする文章の中から、説明を要すると思われる文字を選出するのではなく、それとは逆に、全ての文字に説明を施すものと前提して、その中から説明を割愛してもよい文字を最大限抽き出して、残された文字にその説明を施すという方法を採ることに致しました。(もっともこのことは、従来の方法と同じことを立ち位置を変えて見たもので、説明の可否ももっと緻密に見定める必要がある、という意味です。)
 そしてこの活動を通じて、むしろ文字の説明が、文章の一部であるような音訳の仕方があるのではないかという考えを、音訳者の皆様にも、共有していただけるようお願いしました。

 3.文字の説明の方法

 この『常用字解』という書物は、漢字について解説している書物ですので、その音訳に際しては、文字の説明なしには音訳書として成り立たないことは誰しもが想像できることでしょう。
 しかしこのことは独り『常用字解』ばかりではなく、どの音訳書にも言えることと考えます。なぜならば、音訳とは、活字書を音声化して、録音媒体に記録して、聴読者に供給されるもので、その元になる活字書が漢字を用いて著されている以上、漢字を表現しないということは、その書物の大方が失われることだとも言えるからです。活字書は文字で表されていて、本来はそれを視読することで「読む」という行為を完成させます。しかし音訳書の聴読では、活字を音声化した時点で、漢字という要素を失います。聴読では、「読む」という行為を通じて、漢字から送られて来る何かを、残念ながら受け取ることができません。
 そこで考えますに、出来得るならば、音訳される際に、活字書で著されている漢字全てを、何らかの形で音声化するのが最もよろしいというのが私の基本的な考えですが、それでは文章の音声化は成立しないというのも事実です。そこで先にも申しましたように、ここでは最大限説明を必要としない文字を抽き出して、残った文字にその説明を施すという方法を採ることにしました。
 どのように説明を施したか、困難な部分を挙げて、ご紹介しますと、漢字には同音同義の文字も珍しくありません。そういう文字であれば片方が淘汰されて消え去るのではと思われますが、言葉というものの面白いところか、あるいは難しいところ・不可思議なところか、それぞれに残っていることがあって、それぞれに使用されております。限られた数の常用漢字では殆ど見られませんが、非常に身近な文字の中に1対あります。
 「処」と「所」です。この2つの文字は、音読が「ショ」、訓読が「ところ」です。音義も訓義もどちらもほぼ等しいようです。ここまでの説明ですとどちらの文字を使用するかは書き手の任意ということになりますが、ただしこの2つの文字の使われ方は別様です。この2つの文字は、歴史的にはともかく、現在では「ところ」と訓読されるのは「所」の方で、「処」と書いて「ところ」と読ませることは極めて希です。
 そこで岡田メモでは、義として音読の熟語を2つずつ使用することにしました。「処」では「処理」と「処分」、「所」では「所属」と「場所」を採用しました。

処 ところ・しょり・しょぶんのしょ 処理・処分

所 ところ・しょぞく・ばしょのしょ 所属・場所

 また音読・訓読が同じで、意味に相違のある文字があります。例えば音読が「カン」、訓読が「みる」と読まれる文字があります。「監・看・観」と、常用漢字ではありませんが「瞰」もそれに該当します。
 このように挙げますと、視読される方にはその区別は明らかなことですが、聴読者には音読と訓読だけでは文字の違いが分かりません。言わば「みる」という訓読に、これらの文字で表されるだけの広さの意味の領域が存在していると言えます。これらの文字を岡田メモでは、

監 みる・みさだめる・かんとくのかん 監督

看 みる・みまもる・かんごしのかん 看護師

観 みる・かんねん・かんさつのかん 観念・観察

瞰 うえからみる・みおろす・ふかんのかん 俯瞰

としました。このように「みる」という和語の領域を漢字で表そうとしますと、「カン」の音読の文字だけでもこれだけ出て来ますし、他の音読の文字をも加えますと、十を遙かに超える文字が数えられます。言葉の世界・文字の世界はこのように、意味や読みが多層に重なり合ったり鱗状に重なり合ったり、またその領域の広さも形も、様々だったりします。
 岡田メモの文字の説明の構成は、以上のように、原則として、「訓読」・「訓義」・「音読の熟語と音読」の3つの要素から成っています。原則としてと言うのは、文字の多くがこの原則に沿えず、「訓義」のところに色々な工夫をせざるを得なかったことによります。「処・所」のように、音読の熟語を「訓義」の代わりに入れたり、呉音が多く用いられる文字の場合は呉音の熟語を入れたり、あるいは訓読が幾つかある場合はその中から1つを選び出して入れたりしました。

 音訳版の『常用字解』では、この岡田メモを事前に用意することができませんでした。そのためにいわゆる泥縄となってしまいました。音訳はア行から順に進めて参りましたので、岡田メモもその進行に連れて変化してしまったことも否めません。その辺りは極めて残念に思わずにはおられません。しかしこの音訳活動を通じて、漢字の説明について考える機会を得たことは、私にとって大変貴重な経験をさせていただいたことと感謝しております。
 この岡田メモは、現在でも決して完成したものとは申せません。多くの音訳者の皆様と聴読者の皆様のご批判を仰げれば幸甚に存じます。

補記

 現在音訳の終盤に差し掛かっております『常用字解』は、画期的な方法で漢字を分析して、「漢字学」と呼ばれる学にまで高められた白川静先生が、私ども一般の者にも容易に理解できるように、平易な表現で表された書物です。漢字を説明する書物ですので、漢字の大きな要素である「形」は、この書物の主要な要点の1つとして、文字の説明の全てに取り上げられています。漢字の3要素である「形・音・義」を説明するには、まず「形」から、そして「音」、最後に「義」の順にしなければ、説明にならないということが、この書物からよく分かります。それだけに「形」の説明も、避けては通れないものでした。
 本会ではもう十年を数える以前に、この漢点字版を完成させておりましたが、この漢字の「形」をどう表すかというところが、漢点字版製作の大きな山でもありました。と申すのも、視覚障害者を対象としたものとしての、漢字に関しての先人の足跡は、1つも見いだせなかったからで、中でも漢字の「形」についての資料は、皆無と言ってよい状態だったからです。参考にしたくとも参考にすべき資料がなかったというのが現状でした。
 そこで思い起こしたのが、かつて漢点字の創案者の川上泰一先生が、漢点字のテキストの中で、「漢点字は点字であるので、漢字の構成要素を全て点字に置き換えることはできない。どうしても省略したり位置を変えたりということをせざるを得ない。」と言われ、そこで漢点字を補う目的で、漢字の「形」を表すために、「字式」という方法をご提案になられました。テキストでは、その方法も極めて初期的なもので、文字の構成要素を大きく、縦の関係と横の関係として捉えて、縦の関係を「/」で、横の関係を「+」で表して、数式の形式で表してはどうかと言うものでした。
 残念ながら先生のご提案はそこまでで、一般に使用されている文字の字形を「字式」で表すところまでには至りませんでした。
 しかしながら『常用字解』の漢点字版を製作しようと言うとき、この「形」を何らかの方法で表現しなければいけないと言うことは、切羽詰まったものでした。それができなければ、この書物の漢点字版も成り立ちませんし、延いては視覚障害者と漢字との関係も、当時の現状のままの隔たりを超えることはできなかったものと思われます。
 そこで本会では、川上先生のご提案の「字式」をもう一歩進めることにしました。漢字の構成を、縦の関係・横の関係という2つの関係ばかりでなく、漢字の構成を、構成要素の関係として捉えるとすればどのようなものになるのかを、一つ一つ洗い出すことにしました。このようにして、漢点字版では、漢字の「形」を「字式」として掲載することができたのでした。
 現在進めております音訳版の製作は、この漢点字版で字形の説明が可能だという手応えを得て、初めて踏み出すことができたものです。当然のことですが、音訳版でも漢字の「形」の説明が求められます。そこでお集まりいただいた音訳者の皆様に、字形の説明に当たって、漢点字版の「字式」を参考にしていただきたい旨をお願いしました。
 音訳に当たって、漢点字版の「字式」に使用されているいる記号の読みを統一していただくことを、音訳者の皆様にお願いしました。
 例を挙げれば、縦の関係を表す「/」は、「…のしたに」、横の関係を表す「+」は、「…の右側に」と読んでいただくことをお願いしました。

 守  宀/寸  ウ冠(のしたに)寸

 村  木偏+寸  木偏の右側に寸

 このような記号をどのように使用するか、漢点字版製作に当たって、多くの試行錯誤を重ねましたが、その例を2つほど挙げてみましょう。

 冠  ワ冠/“元@+寸”  ワ冠(の下に)元、(その右に伸ばした脚の上に)寸

 巫  人<工>人  工(の縦棒の左右に)人

 「@+」は、音訳では「右に伸ばした脚の上に」と読んでいただくように、右下に伸びた線の上に何かが乗る形で、「冠」の形を何とか説明したいところから編み出した記号です。後にこの記号は、多くの文字に応用することができることが分かりました。例えば左側に「九」がある字で、九の脚を伸ばしてその上に何かを乗せる形の文字(旭・馗)と、脚を伸ばさないで右側に何かを置く形の文字(鳩)のように、右側に何かを置くにしても、伸ばした脚の上に置くか、脚を伸ばさないかを区別するのに必要なことが分かってきました。
 「<」と「>」は、左右どちらかが大きいという不等号を表す記号ですが、それを「小さい方」を「大きい方」の中に入れるという意味として用いました。大きな枠の中に何かを入れ置く形の文字は、「門構え・国構え・行構え」という「構え」と呼ばれる部首がありますが、そればかりでなく、例に挙げました「巫」のような文字にも応用できることが分かってきました。これらも適宜、音訳者の皆様に読み方の統一をお願いしました。
 このようにして漢点字版『常用字解』の字形の説明も整理できましたが、同時にそれが音訳にも充分生かされることが、音訳者の皆様のご努力によって証明できたことは、私にとって何よりの喜びと言わなければなりません。現在では音訳者の皆様は、「字式」を見て字形を説明するばかりでなく、新たに現れた文字の字形を、「字式」を使用して説明して下さるまでに至りました。このことは「字式」の一般化の1歩を踏み出したことかと、将来に期待を抱いております。
 以上、『常用字解』の音訳版の製作に当たっての音訳者の皆様のご努力と漢点字版との関係について述べてみました。
 ご期待下さい。

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