漢点字の散歩 (序) 岡田 健嗣 |
序
本誌『うか』は、本会・横浜漢点字羽化の会の機関誌として一九九七年に創刊されて、本号から十一年目に入ります。本誌を発行するには、ご執筆いただいている皆様は勿論のこと、編集に当たって下さった(ている)皆様、印刷、製本、発送に当たって下さっている皆様、また歴代の表紙絵をご製作下さっている皆様のご尽力あってのこと、感謝してもし足りない思いでおります。加えて視覚障害者の読者向けに、音訳の労を担って下さっている音訳者の皆様には、とりわけお世話をおかけしております。点字符号をどう読むか、拙文のような未熟な文章を、耳で聴いて如何に理解できるように読み上げるか、九〇分テープ一本に収まるよう、如何に要領よく時間を配分するか等々、毎号限られた時日の中でのご尽力に、誠に感謝に耐えません。
このようにして本誌を発行して参りましたが、その紙面を借りて私は、〈漢点字〉の普及の情況を分析して、どこに課題があるかを探ってみたい気持ちを抑えられませんでした。私が〈漢点字〉に巡り会って、計り知れない恩恵に預かっているのに、多くの視覚障害者は、積極的にアプローチしているように見えなかったからで、その理由は何だろう(?)と、ずっと疑念を抱いていたからに他なりません。
先ず私が試みたのは、〈漢点字〉の創案者である川上泰一先生のコンセプトの先頭に挙げられる、〈触読〉についての考察でした。
〈触読〉という考えは、視覚障害者は視覚に障害を負っている、視覚に代わって〈文字〉を読むことのできる感覚器官は〈触覚〉を置いてない、というところから始まります。
ルイ・ブライユが〈点字〉を案出したのは、それまで満足できる〈触読文字〉がなかったことから、@独力で読み書きができること、Aさらに「文章」を読むことができること、を念頭に置いてのことでした。現在私たちが使用している〈点字〉は、このブライユの考え方を基礎としているものです。この〈点字〉は、このように〈触読〉を第一義的な目的として置いたために、「墨字」(アルファベット)の形とは似ても似つかないものになりました。そのために長いこと世の中、とりわけ盲教育関係者に受け入れられず、一部の視覚障害者の間に流布されるに留まっていました。反対の面から言えば、それまでの〈触読文字〉とされていた、普通の〈文字〉を浮き彫りにしたものは、独力で読み書きできるものではなかったし、「文章」を読むには不適当なものだったと言えるのでした。にもかかわらず〈点字〉は、簡単には普及しませんでした。
しかしブライユの〈点字〉は、彼の死後、世界中に知られ、使われるようになりました。それは一つに、「読める〈文字〉」、「書ける〈文字〉」として、視覚障害者の文化に欠かせない〈触読文字〉という位置づけを得ることに成功したからでした。
〈漢点字〉を巡る情況も、ブライユの〈点字〉を巡る情況と、私にはその意味で大変似通って見えています。川上先生は、〈文字〉の働きとして、第一義的に「読み」を置かれましたが、現状では中々受け入れられてはおりません。そこで私は、〈触読〉とは何か(?)と問うて見ました。(拙稿『点字の読みづらさと漢点字の触読について』、本誌バックナンバー11〜42号に延べ23回にわたって掲載)
次に、我が国の視覚障害者が置かれている社会の環境、これは一般に「社会福祉」と一括して語られるところから、その〈福祉〉の理念と喧伝されるノーマライゼイションをキーワードに考えてみました。
ノーマライゼイションとは、「ハンディキャップを持つ人たちを、そのハンディキャップを克服して社会に適応させるのではなく、社会を変えて、その人たちが生き易くなるようにして行くこと」と定義されています。
この側面から言えば、社会を変えて行くことが大きな眼目ということになりますが、さて、社会の何を、どのように変えるのか、その辺りを探ってみたかった。がむしろ視覚障害者には、視覚障害者の織りなす社会、「共同体」と言ってもよいほどの社会の、案外強固な帰属意識を伴った組織を構成しているようだ、そのように捉えるようになって行きました。つまり社会を変える前に、視覚障害者自身が変わることからノーマライゼイションは始まる、そのように考えるようになったのでした。(拙稿『Normal, Normalize, Normalizaition』、本誌バックナンバー55〜59号に延べ4回掲載)
私が盲学校を卒業して社会に出て、最も大きなショックと困難を感じたのは、私には〈漢字〉の知識がなかったことでした。盲学校では〈漢字〉を習得する機会を与えられなかったからです。日本語は「漢字仮名交じり」で表されます。〈漢字〉の知識なしには、言葉を使いこなすことができない、そしてこの〈言葉〉こそが、社会を動かす原動力であり、情報のフィードバックの本体であることを、強く思い知らされたのでした。言い換えれば、〈言葉〉が貧困であれば、そのようにしか生きられない、努力の可能性も閉ざされてしまう、このことが骨身に沁みたのでした。このようなことは視覚障害者は誰しもが経験していることで、であるならば誰しもが〈漢字〉を習得する機会があれば、それに邁進するに違いない、そう疑わずにいたのでした。
〈漢点字〉に出会って、私は〈漢字〉の世界を知りました。そしてそれが私の予想を違えず、〈言葉〉の可能性、努力の可能性を保証してくれたのでした。
しかし、「誰しもが〈漢点字〉の習得に邁進するはず」という信は見事に外れて、現在では〈点字〉という〈触読文字〉も、忘れ去られる運命のようです。「パソコンで読み書きできるから」、「パソコンの音声ガイドで〈漢字〉の説明があるから」、それで充分というのが大方の考えのようです。
次号から、このような情況の下、お一人のご要望でもそれにお答えするために、〈漢点字〉のテキストを書きながら、本稿では、その中で調べたことや気付いたことをご紹介したいと考えております。
【付記】
かつて〈触読〉について論じました。その後も幾らかの経験を積んでいる中で、ふと気付かされたことがあります。〈漢点字〉の〈触読〉は、従来のカナだけの点字の文章を読むときとは、明らかに違った指の動きがあります。
私が学校の小学部に入学したのは一九五〇年代の半ば、盲学校自体を卒業したのが一九七〇年でした。最初に教えられたのが、点字(カナ)の「書き方」と「読み方」でした。その「読み方」は、横書きの点字の一行の半ばから左側を左手の人差し指、右側を右手の人差し指で読むというものでした。先ず最上行の左端に左手の人差し指を触れて行の半ばまで滑らせます。そこで右手の人差し指にバトンタッチして、左手は次の行の左端に置いてスタンバイします。その間に右手の人差し指は行の右端まで読んで、次の行の左手にバトンタッチします。これを連続させて読むのです。誠に理に合った動きのように思われます。
ところが〈漢点字〉の文は、このようには読めません。一文字一文字を確認するようにして読みます。右手と左手は、常に相携えた位置にあります。従って従来のカナ点字の文を読む要領で〈漢点字〉の文を読もうとしますと、「読めない」ということになります。〈漢点字〉の文を読み難いと感じられる人は、先ずこのことに留意していただかなければなりません。
〈漢点字〉の〈触読〉とよく似た動きをするものがあります。他でもない、「英語点字」を読む仕方です。「英語点字」は「略字」と呼ばれるアルファベット以外の点字符号が使用されます。その多くが単語の単位で、「略語」と呼ばれます。〈漢字〉も「単語」ですから、〈触読〉に当たって、指が似た動きをするのも頷けるとも言えましょう。
逆に、従来のカナ点字の文章の〈触読〉は、日本語の音を追っているだけで、「単語」を単位とした読みはできないであろうことも、充分頷けることと思われます。
【付録】 英語点字の略語(アルファベットで記述)
(一文字)
b=but c=can d=do e=every f=from g=go h=have j=just k=knowledge l=like m=more n=not p=people q=quite r=rather s=so t=that u=us v=very w=will x=it y=you z=as
(2字以上)
ab=about abv=above ac=according acr=across af=after afn=afternoon afw=afterward ag=again alm=almost alr=already al=also alt=altogather alw=always bl=blind brl=braille cd=could dcv=deceive dcl=declare ei=either fr=frend gd=good grt=great hm=him hmf=himself imm=immediate xs=its xf=itself lr=letter ll=little myf=myself nec=necessary nei=neither pd=paid qk=quick rcv=receive rjc=rejoice sd=said td=today tgr=togather tm=tomorrow tn~=tonight wd=would yr=your yrf=yourself yrvs=yourselves