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顧 み て (1) 岡田 健嗣 |
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(一) 前回は、町田市の点訳グループ・町田赤十字点訳奉仕会様からお招きをいただきまして、昨年10月15日に、漢点字のお話をさせていただきました折りの、レジュメを中心にして、そこで感じたこと、あるいは日頃思っていて、そういうことを機に鮮明になったと思われることなどについて考えてみました。 川上泰一先生が漢点字を創案して世に問われてから50年余り経ちました。そして先生がご逝去されてから、昨年で30年を迎えました。 先生は戦後、大阪府立盲学校で教鞭を執られて、盲学校ではわが国の表記法である漢字仮名交じりの本体である漢字を教えていないことをお知りになって大いに驚かれました。その原因の根本が、漢字を表す触読文字の存在しないことにさらに驚かれたのでした。そして明治23年に「日本語点字」が施行されて以来、誰も触読し得る漢字の体系を試みていないことに、もう一度驚かれたのでした。 このようにして先生は漢点字の開発に乗り出されたのですが、残された先生のお話によれば、艱難辛苦を地で行ったような日々だったようです。 1969年に当時の当用漢字を完成させて、発表されました。当用漢字は2000に足りない数の文字数でしたので、点字のマス数で、2マスに収まるものでした。これを基本にして、現在言うところのJISコード第1水準・第2水準の文字を作られました。 漢点字の構造は漢字の構造をなぞるもので、川上先生は、まず部首を構成する文字から作られました。その最も基本的な文字を「第1基本文字」と呼ばれて、1マスで表すようになさいました。点字は6つの点でできていますので、1マスの中の点の組み合わせは64通りです。そのうち0と1点だけの符号を除いて、2つ以上の点の組み合わせでできた符号が57個できました。この57個の点字の符号を、1つ1つの部首に当てて、その部首を表す符号としました。つまり、最初に決めた「第1基本文字」は、57個ということになります。 さらにこの「第1基本文字」を部首として、漢字の特徴である2つ・3つ…の部首を組み合わせて新たな文字となるという方法に従って、2マスの漢点字を作られました。 点字の点の数は6つです。1マスですと57個の漢点字ができました。2マスに増やしますと、点の組み合わせは単純計算で4096通りとなります。このことから計算上は、2000字足らずの当用漢字を作るのには、2マスの点字の符号で十分であることが分かります。 その後は、基本文字の種類を増やし、部首を表す符号を増やすことで、六書で最も数の多い形声文字に対処なさいました。こうして当用漢字を表す漢点字の符号ができ上がって、私達視覚障害者の元へ届けられることになりました。 (二) このようにして川上先生が世に送り出された漢点字ですが、私がそれに気づいたのは、それほど早い時期ではありませんでした。1978年に、ある点字の雑誌を、どこかの点字図書館で見ていて、川上先生が漢点字の通信教育の受講者を募集している記事を見つけました。これが私と漢点字との出会いで、普段は見ることのない雑誌でしたので、極めて偶然の邂逅と言ってよいものだと思います。 私はそのころ、盲学校を卒業して社会の空気に触れるようになって、その社会の厳しさを肌身に感じておりました。どうすればそれを克服できるのか、それを何とかしなければ生き抜くことは覚束ない、誠に大袈裟な物言いになりますが、そんな風に思い詰める日々でした。そしてその社会の厳しさの第1に挙げられるのが、私の言葉の貧困だと、かなり早くから気付いておりました。しかし、その言葉の貧困がどこに由来しているのかが、ずっと分からずにおりました。 どういうところで私の言葉の貧困を思い知らされていたかと申せば、どこと言うことはありません。日常そのもので、日常的に人と接する度に、それを思い知らされていました。人は人と接点を持たなければ生活は営めません。その生活の中で、常にダメを出されているのです。 盲学校の中では、周囲は私と同様の人ばかりでした。盲学校では、生徒ばかりでなく先生方も、同様の情況の中に生活しておられて、晴眼者の先生方から時折私達の言葉の貧困を、「おまえら、漢字を知らないと、世の中に出た時困るぞ!」などと嫌みな揶揄するような言い方で指摘されたことがありましたがそれは生徒に対してばかりで、視覚障害者の先生方は、私達と同様の情況下におられましたが、その言葉の貧困は、厳しさを伴って知らされることはなかったようです。さすがに晴眼者の先生方も、同僚である視覚障害者の先生方の前では、言葉の貧困について発言されることはないようでした。従って盲学校にいる限りは、私達も、言葉の貧困を指摘されることはあっても、頭を低くしておれば、凌ぐことができたということができます。 しかし一歩社会に出ると、それまでとは全く違った光景が、眼前に広がったのでした。それまでも同じ社会を見ていたはずなのですが、全く違った風景の中、私は、全く違った対応を迫られたのでした。これまた大袈裟な物言いをお許しいただけるならば、毎日毎日、一刻一刻が、試験場に立たされているように思わされたものでした。そしてその都度、落第点を付けられていたのでした。それはどうやらこういうことだったようです。 社会は言葉が支配する世界でした。その言葉の支配する世界では、そこで通用している言葉を使いこなせなければ、普通人とは見做してもらえませんでした。そこで通用している言葉をわがものにすること、それが私に求められていることでした。全てはそこから始まる、そこからスタートですので、どうしてもそれを成し遂げなければ、生き抜くことはできない、そう思ったものでした。 しかしどうしてもそれを克服する手掛かりが掴めない、どうすれば社会の皆さんと通用する言葉を習得することができるのか、悶々とする日々が続いていました。そうしたところに、この漢点字の通信講座の受講者の募集記事を発見したのでした。 早速私は、川上先生にお手紙を差し上げて、通信講座の受講を始めました。 夢中で当用漢字の習得に励みました。 (三) 漢点字を勉強しながら、言葉の貧困について考え続けました。 漢点字を学ぶというのは、文字通り漢字を点字に写した文字を、1文字1文字覚えて行く作業でした。一般の子供達が、小学校に入ってからカナ文字を学んだ後に漢字を学ぶように、そのプロセスと同様のプロセスを踏んで、漢点字を学んだのでした。小学生と異なるのは、漢点字は、その構成のプロセスに、第1基本文字・漢数字・比較文字・発音文字……というように、小学校のカリキュラムには沿った構成になっていないことでした。漢点字の構成のプロセスに添って見ますと、これはやむを得ないことで、私達大人が学ぶのには、何の障害になるものではありませんし、むしろこの構成に沿って学ぶのが、漢点字の理解に易いと言えました。子供達に教えることを考えれば、多少進め方に工夫が必要かもしれませんが、取り敢えず私が学ぶには、全く問題ありませんでした。 しかし当初予想していたのとは異なって、漢字という文字は、丸暗記してしまえばよいものではありませんでした。むしろ外国語の勉強に似たものを感じながら取り組んだのを覚えています。 普段何気なく口にしている言葉を、文字に表そうとしますと、おや!と思わされることがしばしばあります。例えば、「それは、全然カンケイないよ」などと言うことはよくあることです。しかしこの「カンケイ」という漢語に漢字を当ててみますと、「関係」となります。だから何だと言えばその通りなのですが、しかし何で「関係」などという難しげな漢語が、日常的な慣用句として使われるようになったのでしょうか。「関係」の「関」の音読は「カン」、訓読は「せき・かかわる」、通行を堰き止める「関所」を表す文字です。本州の西の端の関は「下関」、京都から近江に抜ける道筋には「逢坂関」がありました。また音読では、一家の出入り口である「玄関」、肘や膝のように曲げたり伸ばしたりする「関節」、人の心を引く「関心」、そして人と人との関わりを表すのがこの「関係」です。 「係」は、音読は「ケイ」、訓読は「かかり・かかる」です。「…がかり」などと仕事の役割を呼ぶ時に使われます。従ってこの「関係」という熟語の2つの文字を2つともに訓読してみますと、「かかる・かかる」ということになります。人と人とが継続的に関わり合いを持ち続けながら生活することを表す熟語ということが言えます。恐らく人と人との繋がりというところで、常に身近な熟語となって、日常的な慣用句としても使用されることになったのでしょう。 1つの漢字には音読と訓読という2つの系統の読みがあります。その2つの系統の読みも、他の文字の読みと組み合わせて熟語が作られます。そうしてその熟語によって、その文字の意味がさらに深まります。この熟語が還元されて日常的に使用されて、慣用句となる、そういうことが繰り返されているのでしょうか。1文字1文字の漢字を習得しただけでは、句や熟語、そして文章の理解には、一歩進んだ程度だということを、後に思い知らされることになりました。 私は漢点字の勉強を始めたころ、まずは漢点字の符号を、そしてその音読と訓読をと、取り敢えずそれだけを懸命に覚えました。熟語や使い方やそれらが指し示す意味などは、後回しにしてよろしい、と考えて、まずは漢点字を覚えることを最優先しました。というのも、勉強しなければならないことが余りにも多く、優先順位を決めなければ、とても成し遂げられそうになかったからです。そのようにしながら当用漢字を習得することができましたが、それだけでは言葉の貧困を克服することには、どうやら十分ではありませんでした。 私達視覚障害者の周囲には、書籍というものが極めて乏しい、その主なものはカナ点字の点訳書で、もう1つ、音訳書も製作されていました。しかし全体の数量が極めて乏しい、なければならない資料、視覚障害者にも分かる、漢字に関する書籍は皆無という常態でした。 そこで新たな苦悩に見舞われることになりました。漢字は習得できたが…、この後どうこの知識を生かせるか、あるいはどう深めることができるか、というところで、足踏みを余儀なくされたのでした。 つづく |
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