「うか」064  トップページへ


  一 言
                    
岡田健嗣

 あるネコ好きの作家が半死半生のネコの赤子を見つけた。生まれたとたんに捨てられたかノラネコの子どもだったのだろう。
 早速獣医の診察を受けて、何とか一命を取り留めることができた。
 ところがどうやら目が見えないようだ。片方の目は眼球そのものがなかった。獣医は、全盲になるかもしれないと言った。
 作家は獣医のもとへ日参して、治療に努めた。
 作家は知人にその話をした。知人には全盲の子どもがあったのだ。
 知人は言った。「そんなに心配することはない、結構生きていけるものだよ。うちの子なんて、部屋に入って来て、テーブルの前にぴたりと止まるよ。どうしてそんなことができるのか分からないけどね。」
 ネコは治療の甲斐あって、片目の視力を回復して、ともかく全盲になることはなかった。作家は幸福を感じた。
 このようなエッセイを以前読んだ。

 勿論これでめでたしめでたしとは行かないのかもしれない。しかしこのネコの一生はだいたいこれで決まったと言ってよいのではないだろうか。もし飼い主に恵まれなかったら、まず生き抜くことはできなかったであろう。このように愛情豊かな飼い主に出会えれば、たとい片目が見えなくとも、あるいはこの作家が心配していたように全盲になったとしても、それゆえに命を落とすことはないのである。
 私がこの話を思い出したのは、この作家の心配の仕方と、その知人の反応のコントラスト−−作家自身もそこに注目したのであろう−−である。
 このネコが全盲になったと仮定してみる。作家はうろたえる。全盲のネコの飼育の仕方など、誰も教えてくれない。何時も一緒にいることで、段々分かって来る。そして普通のネコと変わらないというところに落ち着く、と私は想像する。知人が全盲の子どもを見る目と変わらない目で見ることになる。(勿論人の子どもとネコの子どもは一緒ではない。全盲であるのが共通するだけなのだ。)
 このように全盲であるかないかは、個として見る限り、本来的問題とはならない、というのは一つの答えだろう。しかしこの作家はまずうろたえる。その知人も恐らく当初はうろたえたはずだ。
 私は長いこと視覚障害者であるが、残念ながらいわゆる健常者の経験がない。従って健常者であった者が障害を負う、あるいは健常者であった家族が障害者になるという経験がない。従って「うろたえる」から「受け入れる」というプロセスを知らない。その意味では、一般社会の健常者と変わらないとも言える。
 私の世代は、「障害者は自立すべし」と言われて育った。私の世代の数年上の世代の視覚障害者は、その多くが、白杖を持って独り歩きすることがなかった。私の世代の前後になって、一人で外へ出なければいけない、と言われるようになって、勇気を出して一人で外へ出ることが、生活圏を広くすることに繋がることを知るようになった。そうしてみるとそれが面白くてたまらない。何処へでも一人で行っちゃおう。つい先頃まで私もそのような生き方をしていた。
 健常者の社会で障害者が生きる。福祉社会を標榜する現代社会では、よく「具体的なニーズを出して下さい。」と言われる。「理念や考え方という抽象論ではなく、個別・具体的な要望の形で表して下さい。」と。そしてバリアフリーとかで、色々な設備が整えられるようになって来た。
 それは確かによいことだ。私もそう思うのだが…。
 二つのケースを考えてみたい。
 まず、駅のホームを全盲者が独り歩きするところである。
 ホームには乗客が電車を待っている。電車を待つ客は、新たにホームに入って来る客のじゃまにならないように立っている。新たにホームにやって来る客は、既に立って待っている客を避けながら自らの所定の場所を目指して歩く。
 そこに一人の視覚障害者が白杖を振って登場する。彼も歩行者であるから、立っている客を避けながら所定のポジションを目指したい。ところが中々叶わない、どうしても人にぶつかってしまうのだ。避けなければいけないのは現在歩いている彼なので、立って待っている客ではない。だが彼が歩む方向に、必ず客が立っている。ぶつからないときは、恐らく先方が先に見つけて避けてくれるのだろう、立って待っているにも関わらず、避けてくれるのだ。先に気付いてくれなかったり、避ける必要を感じてくれなかったりすれば、どうしてもぶつかってしまう。そうして人にぶつからない、人に避けてもらう歩き方は許されないのである。
 もう一つ、障害者の「自立」には、職業の自立が言われる。経済的自立である。自ら稼いで、生活を「経営」する。
 これは難題である。自ら稼ぐ、となれば、自ら仕事をしなければいけないことになる。それでは「仕事」と呼ばれる行為はどのような要素で成り立っているのだろう?
 よく「貨幣は社会の血液」だと言われる。社会を生体に例えればそう言えるのかもしれない。その言い方を借りて、それでは社会の「酸素」は何だろう?言うまでもなく「情報」である。貨幣に情報が乗って社会を駆けめぐる。そんな中でビジネスマンたちは仕事をしているのである。
 人にとって「情報」が具体的に現れるのは、「言葉」としてである。「言葉」は「文字」であり、生身の人間である。
 障害者が経済的自立を目指す場合、このビジネス社会が行っている情報の交換を、一般のビジネスマンと同じレベルで処理しなければならない。
 冒頭の、障害という現実の「うろたえ」から「受け入れ」というプロセスと、社会の中で生きるという現実には、どうやら大きな乖離があるようだ。もう一つの鎖の輪が、もう一つの架け橋が必要に思われてならない。が、それは何だろう?

 トップページへ