「うか」82号  トップページへ
                  一  言
                                 岡田 健嗣
    ヴィクトール・フランクル

 前号では「読む」ということを考えてみました。
 私どもは、私どもが行っている漢点字普及の活動は、そのまま視覚障害者の識字運動であると考えています。日本語を母語とする私どもは、視覚に障害がある/なしによらず、「漢字仮名交じり文」を読み書きすることを求められています。ところが「漢点字」が発表されるまでは、漢字を表す触読文字はありませんでした。従って視覚に障害を持つ者は、漢字の体系の文字を使うことができなかったばかりでなく、漢字の知識の習得も叶わなかったのでした。触読できる文字は「点字」と呼ばれるかな体系(実際はローマ字体系)の音標文字だけでした。やっと1969年になって、世界で初めて触読可能な漢字の体系である「漢点字」が、故・川上泰一先生によって発表されました。そして初めて漢字の知識を手にすることができ、触読で「漢字仮名交じり文」を読めるようになったのでした。
 ところでここで私は、「視覚に障害がある/なしによらず」と書きました。この認識がそもそも違う、というご意見があるのかもしれないことに気づいています。視覚に障害のある者は、「漢字仮名交じり文」を読み書きする必要はない、というご意見です。私はこれまでこのことを考えに入れてきませんでした。もしこれが公的な見解であれば、私どもが行っている活動も、識字運動ではなく、漢点字愛好者のクラブ活動に過ぎない、と位置づけられるのでしょう。しかし公的機関はもとより、どの方面からも何方もこのようにはおっしゃいません。誰も言いませんが、視覚障害者は「漢字仮名交じり文」を読み書きしなくてもよろしい、「漢点字」は「漢点字」の愛好者が使用すればよろしい、と暗に誰かが言い、多くの視覚障害者と彼らがなす社会に足場を置く晴眼者がそれに呼応してうなずいている姿が浮かんでくる、誰も何も言わない、決して正面から議論しない、そうして視覚障害者の「漢字仮名交じり文」の読み書きそのものを黙殺している、それが現在の情況に見えてくる、黙して顧みられないという情況が…。何がそうさせているのか、私には分かりません。ひょっとしたらこれは普遍的な黙契なのか?もしそうであれば、私だけが不感症であったために、その黙契に棹を差してしまった、そうなのかもしれない、多分そうなのだろう、そんな風に見え始めました。
 障害者福祉の領域でノーマライゼーションという言葉が唱えられるようになって久しく時が経ちました。ノーマライゼーションとは一言で言えば、社会のあらゆる場所で、障害者を、その障害を理由に排除したり拒んだりしてはいけない、社会の責任において、障害者を社会の構成員として受け入れて、分け隔てない生活が営めなければいけない、という理念のことです。実に荘重な理念です。その実現にかかる費用は、社会的コストとして、社会が負担しなければならないとも言っています。
 この考え方は前世紀の半ばに、デンマークの社会福祉の現場に発したと言われます。後に欧米の社会福祉の原理とされました。わが国でも1970年代辺りからよく聞かれるようになって、現在インフラとしてよく見られる、公共施設のエレベーターや点字ブロックの設置、駅の券売機の点字表示などはこの考え方に則った整備と言われます。そして厚労省や福祉関係者の間では、「わが国のノーマライゼーションは、ほぼ達成された」と言われていると耳にします。
 なるほどそうか、ノーマライゼーションの考え方からすれば、エレベーターや点字ブロックを設置するのと同様に、漢点字の習得を進めることなく、実際には「漢字仮名交じり文」が読めなくても「読める」ことにする、「読めると見做」せばよろしいということなのかと、今私は膝を打ったところです。なるほどそうか!
 前置きが長くなりました。
 最近「ハドン・クリングバーグ・ジュニア著、『人生があなたを待っている−−〈夜と霧〉を越えて』(赤坂桃子訳、みすず書房)」という本を読みました。これは「夜と霧」とサブタイトルされているように、その著者・ヴィクトール・フランクル(1905〜1997)の生涯を紹介したものです。著者のクリングバーグは、フランクルの弟子とも言える精神医学者です。視覚障害者にも音訳書ができていますので、読むことができます。
 周知のようにフランクルは、戦後「ホロコースト」と呼ばれるナチスの強制収容所から辛くも生還した数少ないユダヤ人の1人です。収容所内で父の病死を看取り、母は引き離された後にガス室へ送られ、妻とも別れ、その妻もあのアンネ・フランクと同じ時期に同じ収容所で、熱病(発疹チフスと言われる)に倒れてこの世を去りました。その数か月後には終戦を迎えようとしていたのにです。
 フランクルはウィーンに戻ってその事実を知ります。独りになったことを知って彼は、口述筆記で『夜と霧』を書き上げたと言われています。
 左の引用は、前掲書に収録されているフランクルの講演です(傍点を =A棒線を−−で表しました。)。その中で彼は、人間は本能から指針を得ることはできない、現在では伝統や価値観からも、指針を得ることができなくなったと言います。そのような中から人は、内面に空虚感を抱くようになる、彼はこれを「実存的空虚」と呼びます。この空虚の出現とその克服が、この文の主題と言えます。これは昨年、作家の村上春樹氏のテルアビブでの講演で用いた「壁と卵」の喩に通ずるものを感じさせます。卵は弱い、壁にあたれば壊れる。だが弱いものは壊してもよいのか…?
 「基本的に、根源的に、本質的に、人間はホメオスタシスを気にかけないのです。人間は、本質的に=A愉悦、幸福、あるいは自分の内部の状況を気にしないのです。そもそも基本的に、人間は自分自身、あるいは自分の内部のすべてにかまわないのです。人間であることの真のしるしとあかしは、人間はつねに自分以外の何かをめざし、その方向に向かうという点にあります。人間の存在は、つねに、それ以外のなにか、自分以外の誰かに結びついています。」(下の引用から)
 村上氏の作品では、スポイルとその克服がテーマになっているように読めます。この克服が、フランクルの言う「自己実現」でなく「自己超越」なのだと語る語り口に響き合っているように読めるのです。この超越あるいは克服に、「言葉」が大きな力になるに違いない、私はそう思うのです。
 フランクルは最晩年に、イランから招待を受けていたといいます。彼自身、大変乗り気だったともいいます。彼が言うように、そこに有効性を見出すことは不毛でしょう。しかしあのイランに、ホロコーストから生還したユダヤ人が訪れるというのは、遠く離れた地にいる私どもも、耳目を惹かれる思いにさせられる出来事だと言ってよいと思います。残念ながら彼は、それを果たすことなくこの世を去りました。
 (引用は、音訳書から私が起こして、東京漢点字羽化の会会員の杉田ひろみさんに校正していただきました。)

(ヴィクトール・フランクル、1973/02/11の講演から、トロント、マッシーホールにて)

    若者における意味の探求

 みなさま、私は先日、アメリカの学生からお手紙をいただきました。この手紙から2つの文章を引用させてください。「フランクル博士、私は学位と、車と、安全と、必要以上のセックスと力を持てあましている22歳です。いま私がしなければならないのは、これらすべてがどんな意味を持っているのか、自分のためにその説明を見つけることだけです」
 この豊かな社会のただ中にあって、いったいなにが欠如し、なにが失われ、彼が持っているものすべてにはどのような意味があるのでしょう?このすべてが無意味であるという感覚が、今日ほど若い人びとのあいだで増大し、蔓延したことはありません。それはしばしば、内面の空洞からくる空虚感と関係があります−−私はこれを「実存的空虚」と呼んでいます。この空虚な真空状態は、人生を価値あるものにする意味を探し求める若者の実存的フラストレーションなのです。このことについて簡単に説明いたしましょう。
 動物とは異なり、人間はなにをすべき≠ゥ本能が命じてくれなくなってから久しいのです。また昔とはちがって、伝統や価値観も指針となってくれません。そこで現代の人びとは、自分が本当にしたい≠アとがなにかすらわからなくなっています。その結果、彼はほかの人たちがしていることをそのまましようとするのです−−体制順応主義−−あるいはほかの人が自分に望んでいることをする−−全体主義と言えるかもしれません。
 私は、かつてジークムント・フロイトがマリー・ボナパルトに書いた文章には賛成できません。彼はここで、人間は自分の価値、存在の意味を疑っているときは病気であると書いているのです。でも私は、その人間がほんとうに病気だとは考えません。むしろそれは真の人間存在であることの表明です。蟻も、蜂も、いかなる動物も自分の存在に意味があるかどうか疑問を感じたりしません。人間だけなのです。存在の意味について思い煩うのは、人間の特権なのです。人間はそのような意味を探し求めるだけでなく、その意味を実現する権利≠与えられています。このような理由から、それは神経症の症状ではなく、人間としての成就だと認めなければなりません。つまりそれは、知的な誠実さと偽りのなさのあらわれなのです。人生の意味はすでに与えられていると考えるより、大胆にそこに立ち向かっていく−−疑問を抱き、そのような意味がほんとうに存在するのか挑戦を挑むのが若者の特権です。しかし私が思いますに、この勇気には忍耐も必要です。若い人たちは、性急に自らの命を奪ったりせず、待つ−−辛抱づよく待つ−−必要があるのです。そうするといつかそのうちに意味が見えてくるのです。若者たちの自殺が世界的な規模で増加している現実を、よく考えてみなければなりません。
 また、薬物の力を借りて逃避する若者がいます。ある種の薬物を服用すると、全世界が突然「はてしなく意味にあふれている」ように見えてくるからです。すべてが意味に満ちているという感覚が得られますが、それは単に主観にすぎず、真実の意味、現実の意味、ほんものの意味によって裏打ちされていません。ほんものの意味は外の世界にあって、あなたによって成就されるのを待っています。それはあなたがた自身の心の中にはないのです。薬物の力を借り、無限の意味を主観的に経験して自分を満たそうとする若い人たちは、オールズとミルナーが自己刺激の実験を行った被験動物と同じような危険にさらされているのです。彼らは被験動物の脳の視床下部に電極を挿入し、電気回路を接続するたびに、動物が明らかに性的オルガスムスまたは食物摂取による満足感のような感覚を経験していることを観察しました。動物はレバーに飛び乗って自分で回路を閉じることを学習し、この操作がやめられなくなります。性交または食物摂取時のような主観的な満足感を得ることができた動物は、ほんものの性交相手または食物が与えられてもこれをかえりみず、無視するようになりました。電流で十分だったのです。同じように、薬物の常用により意味の経験を味わってしまった者は、その人によって−−他の誰でもない、まさにその人によって−−なし遂げられるのを待っている真の課題、真の意味を避けて通るようになるのではないでしょうか。そしてこれらの意味は、他でもないその人によって、いま、ここで実現されなければ、永遠に過ぎ去ってしまうのです。
 人間を、その人間的な次元まで追跡せず、人間的な現象に高い価値を認めず、その代わりに還元主義者のようにその人間性を奪ってしまったなら、私たちはこの世の状況にうまく対処できないでしょう。真の人間的モチベーション−−つまり意味の探求−−を認めていないのであれば、それが挫折したとしても気づきようがありません。ちがう言葉で説明してみましょう。どうやったら、あなたがたはこの時代の病や苦しみを克服しようとしている人びとに向き合い、彼らを助けられると思いますか?それには時代遅れのモチベーション理論を乗り越える努力をしなければなりません。私が言っているのは、あなたがたが大学でひっきりなしに吹き込まれている現代の学術的心理学の図式や決まり文句−−人間は動物と同じように閉鎖されたシステムで、自分の中にあるものすべてを均衡状態に保とうと試みる、生物学で言うところの「ホメオスタシス」をもつという理論−−のことです。人間は自分の衝動を満足させ、欲求を鎮め、自分のホメオスタシスのためならほかの人間をセックスのパートナーとして使うことまでするのだ、という見方を克服できなかったらどうなりますか?もしもこのカリカチュアのような人間のまま他者を助けようとすれば、事態を変える手助けはできないのです。
 基本的に、根源的に、本質的に、人間はホメオスタシスを気にかけないのです。人間は、本質的に=A愉悦、幸福、あるいは自分の内部の状況を気にしないのです。そもそも基本的に、人間は自分自身、あるいは自分の内部のすべてにかまわないのです。人間であることの真のしるしとあかしは、人間はつねに自分以外の何かをめざし、その方向に向かうという点にあります。人間の存在は、つねに、それ以外のなにか、自分以外の誰かに結びついています。
 つまり私が自己超越と言っているのは、言い換えれば、人間はもともと自分の人生における意味を発見して実現し、他者を愛して励ますことに関心をもっているということです−−性的緊張や攻撃的衝動、潜在意識などを振り払うための道具として他者を利用するのではないのです。そうではなく、人間的、個人的次元で、他者の唯一無二の存在を人格として認めて理解すること、つまりこの人間を愛することを意味します。自己超越とは、人間は基本的かつ本来的に−−その存在が神経症を病んでいないかぎりは−−自分より偉大なものに奉仕し、あるいは自分以外のちがう人を愛そうとするものなのだ、ということです。ある理由のため、または他者への愛のために尽くすことによって、人間はいわば副次的な効果として自己実現しますが、それは目的ではないのです。自己実現を目的とすると、最終的には自己破滅的な結果に至ります。
 私が提唱する意味への意志の概念を、オーストリア出身のフランクル博士とかいうやつの理想主義的で私的な仮説さ、と簡単に片づけてしまわないでください。私の理想主義は、ほんものの現実主義なのです。たとえば意味への意志は、大学の実験心理学部で13,511人の被験者を対象に行われた調査で実証されています。調査の結果、意味への意志が存在し、それは人間のモチベーションの主たる原動力だということが判明しました…ヨーロッパでは、成人したアメリカ人というのはお金を稼ぐことばかりに熱心だとみなされがちです。しかし大学生を対象とした他の調査では、人生の主要な目標はお金をたくさん稼ぐことだと答えた学生は、16パーセントにすぎませんでした。なにがいちばん重要な目標だったか、皆さん、おわかりになりますか?このアメリカの若者の78パーセントが、人生における意味と目的≠探すことに関心を寄せていたのです。
 もしも人をその人のあるがままにとらえたら、私たちはその人を悪くしてしまう。その人を彼が本来あるべき人のように扱ったなら、私たちはその人が到達できるところへと至らしめることができる−−これは誰の言葉かご存じですか?ゲーテです。
 もしも若者がもつ意味への意志を認めなかったら、あなたは彼を悪くさせ、鈍感にさせ、彼のフラストレーションに加担することになります。いわゆる犯罪者や非行少年少女、または薬物乱用者などにも一瞬、まばゆく光るものがあるにちがいない−−そう、意味を求めるきらめきがあるはずです。それがあるという前提に立とうではありませんか。そうすれば私たちはそれを彼から引き出し、彼が原則としてなれるはずの何かになる手助けができるのです。
 自己超越という抽象的な問題を、私たちの目を例に挙げて説明してみましょう。というのも、目はある意味で自己超越的だからです。周囲の世界を知覚するという目の能力は、皮肉なことに、鏡を見れば話は別ですが、それ自身を知覚する能力の欠如≠ノよって決まります。私たちの目がそれ自体のなにか、たとえば光の回りに色付きの光輪を感知したら、それは目そのものの緑内障が原因です。私が物の表面の曇りを見るとき、実は私は自分自身の白内障、自分の目のなにかを見ています。しかし健康で正常な目は、それ自体のなにかを見ません。視力は、目がそれ自体のなにかを感知する度合いに合わせて悪化するのです。
 それは人間存在でも同じです。人間存在は、他者を幸せにする代わりに興味の対象を自分に向ければ向けるほど、ゆがめられてしまうのです。人びとは幸せを目的にしてそれを追い求め、それがためにねらっているものを失っているのです。皆さんもおわかりのように、今日では、人間がもともともっている意味への意志が欲求不満に陥ると、性の快楽がその代わりとなってしまっています。実存的空虚の時代には、性的衝動が増大するのはなんの不思議もありません−−実存的空虚の中で、それは驚くほど肥大するのです。「セックスのインフレ」と私は言っていますが、これは金融市場などにおけるインフレと似ています。つまり、価値の低下を引き起こすわけです。そもそもセックスは楽しみのためだけのものではなかったのですが、今日ではセックスの価値は下がり、人間性が奪われてしまっています。人間のセックスはつねに単なるセックス以上のものです。なにかセックスを超えるもの、メタ‐セクシュアルな身体表現として−−愛の具現化として為されるとき、それは単なるセックス以上の意味をもちます。私は道徳家として教えを説いているのではなく、医療現場における日々の仕事、臨床や病院での経験に基づいて話しています。そのような立場から、私はこの結論に達したのです。
                               (前掲書P433〜439)
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