わたくしごと
木村多恵子
大別して、人は物事を論理的に考えられるタイプの人と、情緒的に思いをめぐらす人とがいる。発想から、決断に至るまでの時間のかけ方は人により、自ずと差異があるに違いないが、恐らくその思考過程は、論理的に考えられる人は、それなりに共通しているのだと思う。解決しなければならない問題を抱えたとき、事柄の本質を理路整然と整理し、科学的合理的に無駄のない解決法を見つけ、実際に行動を取れるのだと思う。わたしには遠く及ばないことばかりで、ただただ感心しきりである。
では、わたしはどうかというと、一方の叙情性豊かな人間ではなく、単に愚かな「ノロマ」だけのものである。自己弁護をさせていただけば、物事を決め、行動を起こすまでの、トロく、ぐずぐずの中に、道草のような心の揺らぎが起きるのである。
実例を挙げればこんな風である。
ある時、作りためておいた雑巾が無くなりかけていることに気づき、古くなった夫の下着をとりわけた。雑巾として使いやすい大きさにするため、無駄のないように畳み、不必要な所を取り除こうとする。ここからがわたしの苦手な仕事になる。必要な大きさに畳んで、鋏を入れようとすると、手が強ばってしまう。同じことでも、自分のものやタオルを切るときはなんとも感じないのだが、夫のものは、「あっ、手を切る、足を切る」。そんな恐怖が全身を揺さぶり、ザワザワと泡立ってくる。単に古くなった布とは思えない。ボタンを切り落とすのさえ気持ちが萎える。刃先を広げては閉じ、閉じては開き、なかなか切ることができない。
若い頃ならいざ知らず、六十路を過ぎた、今でも変わらないこの恐怖を避けようと、「いっそ切らずにこの形のまま使おうか」と試みたこともある。鋏を入れないままで、ガラスや棚をふいてみた。けれども、これがまたやっかいで、大きすぎたり、じゃまだったり、第一この方法も、ますます気分が悪い。結局この、「雑巾に整形する」過程さえ過ぎ去れば、もはや雑巾と化して何度も使ううちに、あの背筋を襲う、寒気のような恐怖は、どこかへいってしまうのであるから、今では元のやり方に戻している。つまり若い頃から似たようなことを何度も繰り返してきたのである。それにしても、鋏を使うときの、全身が泡立つ恐ろしさ、ピリピリとした痛みが走るあの違和感は、なかなか慣れるものではない。
でも、いったい、この思いは何だろう。合理的に物事を考える習慣を持っている方々には、古い衣類は、ただの古い布切れとして認識し、こんな逡巡は起こらないのだろう。
物に魂が宿る、と思うほどの鋭い感性が、あるわけではないが、やはり、昔の人は、自分が大切に使ったもの、掌に入れていとしんだ物には、使った人の魂が注がれると信じて、「形見分け」をしたのはこんなところからではないだろうか。近頃行われているような、形見分け代り、あるいはその略式の香典返しではなく、本当の形見分け、つまり故人が身につけていたものや、愛用していた物を、生前に世話になった人や近親者、親しい友人に、感謝と愛を込めて記念として送る、これが本当の形見分けであり、その思いを伝えたいと願うのが自然ななりゆきであろう。
少なくとも、母親が使っていたものや、父親の愛用していたものを、いつの間にか子供が使いはじめているということは、多くの方が経験していると思う。それが「形見分け」だとは気ずかずに!そう考えると、やはり物に魂が宿るというのは的はずれではないのであろう。
すっかり横道に逸れてしまったが、ことほど左様に要領を得ない回り道ばかりしているわたしである。