「うか」074 連載初回へ トップページへ

  わたくしごと

                      木村多恵子

 「神様がくれた漢字たち」、なんと魅力的なタイトルだろう。だが用心してかからないと大変だ。何故って、この本は白川静先生が『常用字解』の序文で、「小、中学生向けに、漢字が作られた殷(3300年前)当時の、古代中国時代の生活習慣や宗教に深く関わる物語を著す」と約束した本がこれであろうから、ちょっと恐ろしい気がするのである。
 漢字は、亀の甲羅や牛や羊、鹿の肩胛骨に刻まれたもので、それらの文字を「甲骨文字」といい、その文章化されたものを「甲骨文」と呼ぶようになったという。大半の漢字は亀の甲羅に記されたものであり、しかも、それは鋭い刃先のナイフのようなものでキリっと刻まれているという。
 漢字が成立したのは、およそ3300年前の、中国の殷王朝が幾度か都を遷したのち、安陽に定着した武丁王の時期だという。
 その安陽の時代に出土した亀の甲羅や動物の骨に、雨が降るか降らないか、風が吹くか吹かないか、穀物の実りがよいか、出産に危険はないか、異族を征伐できるかどうか、などいろいろなことがらについての占いの内容が、漢字で刻まれている。
 この問いは、王が神に告げ、神に尋ね、神に訴えるものである。それに対して神からの応答も記されている。神の応答は、亀の甲羅を灼いたときの裂け目に現れると信じられ、その裂け目を「兆候」といい、それを手掛かりに、王は判断する。なお興味深いことは、王の判断の言葉とともに、その判断が正しかったことを示す結果がつぶさに記されている。
 王は、この漢字を用いて神に呼びかけ、神からの応えを読み解き、神の許しや助けを求めることが大きな仕事であった。もしそれらの要求が実現し、結果がよければ、王の判断は正しかったことになり、民衆から信頼され、神と等しい力を持ったかのように、その権威を増してゆく。つまり、漢字は王の特権を保証するために創造されたもののようである。
 古代の支配の仕組みは、基本的には、王自身が、神と人びととの媒介者として、重い使命を担うことになる。
\2  殷の王である湯が、夏王朝の桀(けつ)という王を討伐してから、ひどい旱魃が7年つづいた。洛川の水も涸れ果てた。殷の湯王がいった。「私が雨乞いをするのは、民のことを思うからである。もし、誰かが、祈らなければならないとするならば、どうか、私をその任に当たらせて欲しい」。こうして、祓い清めて髪と爪を切って、自らを犠牲とし、桑林の中の祭壇で祈った。\\
と『太平御覧』の中の『新王世記』という書に書かれているという。
 このように古代の王は、本来民を守るための存在であったようだ。
 これは「王と神の物語」に書いてあったのだが、読み進むに連れて、ちょっと薄気味悪い説明が沢山出てくる。
 漢字が成立した殷・周の古代中国では、「人」を崇高なものとして扱ってはいない。この時代に出土した青銅器に鋳こまれた銘文や甲骨文には、殷から見て「南人」と呼ばれる南方の異族や、「羌人(きょうじん)」と呼ばれる西方の異族の多くの人が、羊や牛とともに捕獲≠ウれて、生け贄として神にささげられた、という内容の記事が沢山見られるという。
 「民」の字の由来は『万葉集』や『古事記』にもあるが、農耕に従事する人、罪を負う人、天皇の財宝とされる人などの意味で用いられたという。したがって、下層民のことを「民草」ともいう。「民」は「田見」に語源を求めるようであるが、「民」の漢字の成り立ちに、むしろ「罪を負う人」のイメージがあるようで、もとは大きい矢か針で目を突き刺す形で記された。おそらく殷王朝を脅かす異族を捕らえて、その人の目に加える処罰を示すもので、こうして眼蜻(まなこ)を失った捕虜の多くは、神の僕として神に仕える身となるのだという。
 「耳」にまつわる話は、これもまた凄惨になる。戦場で敵の首を打ち取ったとき、その左の耳を切り取って自分の陣へ持ち帰り、手柄の証明とする。左耳を手で取るさまを示す字が、「取」である。なぜ左の耳なのかはわからないが(勿論どちらか片方に決めておかなければ、正確に打ち倒した敵の数がわからないからであろう)、この顔から突き出しているところに霊的なものが宿ると感じていたのだろうという。この耳を祀った「耳塚」が何カ所もあるという。
 この打ち取った敵の死体から、さらに耳を切り取ることや、耳塚を作って、耳の霊すなわち死者の霊を鎮める習わしは日本にも伝わったので、我が国にも耳塚は何カ所も残っているという。霊が籠もっている耳を祀らずに、安んじていられるものではないであろう。
 このように耳には強い霊力があると信じられていたので、耳が入った文字は特別の意味があるものと考えられた。
 たとえば、「聖」は大きく誇張された「耳」を持つ人の形で、神の預言を聴き分ける霊能のある人をいい、聖徳太子は、一度に幾人もの人の意見を聴くことができたと言う言い伝えはよく知られている。
 「聖」、「聡」、「聴」の字は、いずれも、神の声に耳を澄ます態度を表すものと相通ずるところがあるという。
 次にわたしが心惹かれた文字は「采」である。「采」は、彩り、手で取り入れる、選び取るなどの意味がある。「采」は、上の方から手をかぶせるもの、木の実を「手」に採る形だという。
 おおよそ紀元前八世紀から九世紀にかけて詠われた詩を収める「詩経」の中に、「卷耳(けんじ)」という詩がある。遠征に赴いていった人を思い懐かしむ詩である。
 原文は省略する。ただし、一、二行目はここに挙げた文字なので記しておく。
 「卷を采り采るも傾筐(けいきょう)に盈(み)たず」
 〔耳菜草(みみなぐさ)を摘み摘むも/ 籠に満たない/ ああ、あの人を思えば/ 遠く、あの人のもとへ通じる道のほとりに置く/ 岩山に登れば/ わが馬はすでによたよた/ いささか酒酌んで/ 思いを忘れよう/ 高山に登れば/ わが馬はすでに黒ずんだ/ いささか酒酌んで/ 憂いを忘れよう〕
 詩の初めの二句は、耳菜草をくりかえし摘んではいるけれど、いっこうに籠をいっぱいに満たすことができない、その嘆きを伝える。なぜこうまでして草摘を続けるのか、気がかりである。食用にするためであれば、せっかく摘んだ耳菜草を道のべに置くことはない。草を摘み、その草を道のべに置くこと自体に、重要な意味があったのだという。そして三句めでは、はるかかなたの人を追想している。草を摘んで、道のほとりに置くことで、遠く隔てられた人に捧げ、その人の無事を祈ることであった。
 『万葉集』の中に姫御子たちが、大津の御子を追想して、馬酔木の花を摘んでいる歌がある。山部赤人も、「春の野に菫摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」と詠んでいる。
 草摘は、古代の人々の祭礼、俗習として広く行われていたようである。草を摘むことは、草を育てる大地にあるエネルギーをもらうことだったのである。
 この本を読みながら、大樹に寄りかかっているときのあの満足感が、古代の人のような鋭い感性ではないまでも、わずかなりともわたしにも残されていることがうれしかった。そして、子供の頃、為政者のために、寺院や宮殿など、大きな建築物の建立に当たって、その浄めとして、乙女を人柱としてさし出さなければならない、親子の悲しい話を読んだことを思い出した。あれは単なる「作り話」ではなかったのだ。犠牲にならざるをえない貧しい下層民の怒りが、悲しみが、傑出した物語として噴出し、多くの人たちの共感を得て、言い伝えられたのであろう。
 ほとんどの人類は、最初、畏敬をもって神を創造している。神を信頼し、委ね、求め、訊ね、謙虚に神の言葉を厳粛に聴きしたがっている。しかし、いつの間にか人はその神に取って代わろうとしがちだ。漢字が作られ、王の権威が高まり、力を増すことによって、「神からの託宣」は、何時の間にか、王自身の都合のよい方向へ誘導していったのではなかろうか?
 これは本来のことから大変逸脱してしまったが、中国の人々の智恵は、言葉では言い表せないほどの驚きである。漢字が作られたのは、今から三千三百年ほど前だと知ったとき、わたしは思わず読んでいた本から手を離して立ち上がり、部屋中を歩き回った覚えがある。
 今回「常用字解」と「神様がくれた漢字たち」を手にして、ほんの少しだけ、文字の成り立ちについて理解しようとすると、古代の人々の、自然に対する鋭い感性は、「人は畏れ」から物事を考えるのだと気づかされた。「耳」が顔から突出しているのは、神の霊が宿っているところだ、と信ずるのには意表を突かれた。戦場で敵を討ち取って耳を切り取ることも、「耳塚」のあることも聴いていたし、何故「耳」を取るのか、理屈としては分かったつもりでいたが、今回の古代の人々の、人や物に対する考え方を、今までよりは理解出来た気がする。
 エジプト王の墓に彫られた「ヒエログリフ」やシュメール人の「シュメール文字」や、クレタ島に現れた「線刻文字」は、何れもおよそ三千年ほど前に作られた文字である。しかしもう疾うに日常的には使われなくなった。
 漢字は中国の人々の知恵の集積である。
 とは言えわたしは臆病ものなので、オドロオドロしい説明を読み続けるのが少し辛い。
 「神さまがくれた漢字たち」を読めるようにしてくださった、「東京羽化の会」の皆様ありがとうございました。

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