わたくしごと
木村多恵子
石井和子(TBSアナウンサー・気象予報士) 著『平安の気象予報士 紫式部〜「『源氏物語』に隠された天気の科学」〜(講談社)という本を見つけ、そのタイトルに魅せられて読み始めた。
わたし流の理解ではあるが、かなり昔から『源氏物語』には興味を持っていたので、気象学的な見方とはどんなものかと、このタイトルが気になったからである。
高校の国語の教科書に『源氏物語』のごく一部、〈桐壷〉のはじめや〈須磨・明石〉など載っていたのを読んだのが最初である。国語の教師が、その一部から派生してかなり物語の内容を熱く語ってくださった。この教師もこの物語が好きだったのだと思う。現代文の単元のときとは違った熱の入れようだったので、わたしにもその情熱が移ってきた。その証拠に、もう少し内容を読み取りたいと思い、墨字の、俗にいう、「虎の巻」を、読みたい巻に合わせて何冊か買ってきた。これらの本を買いに連れて行き、本を選ぶのを手伝ってくれたのは姉である。そして実際に少しでも読んでくれようとしたが、残念ながら彼女は家事その他の仕事が忙しく、やっとわたしと相対したときは、姉はすっかり疲れ果てて、込み入ったものを読んでくれる時間も体力もなかった。仕方なくその筋だけでも追えたら?との思いから、わたしは『谷崎源氏』(テープ)、『与謝野源氏』、『円地源氏』などの現代語訳本をテープと点字で長い年月をかけて読んだ。人物の関係を覚えるのがなかなか難しかったり、宮中の組織やそれぞれの官職の仕事内容など覚えられなかった。けれども、主人公光源氏と登場人物との関わりが少しずつ分かるようになると、多少なりともその巻巻に出てくる人物の心理的葛藤を推測できるようになった。しかしそれは当然ながらまだまだまったくの表面上のことであり、単に筋立てを追っているにすぎなかったことが、次に読んだ、村山リウの「わたしの『源氏物語』」(テープ)で分かった。
この本は単なる現代語訳だけではなく、一人ひとりの心理描写を丁寧に描き出し、時代背景や平安時代の生活習慣、文化についての解説が書かれていた。たとえば家事の分野で、衣裳の色目合わせから染色、織物、裁縫、お香の作り方、料理、また、教育については、手習い、息子と娘の教育法の違いからはじまって、政治経済、家作り、造園などあらゆる分野にわたって、物語にそってより分かりやすい解説が書かれていた。
筋だけを追っていたのでは恋愛物語だけに終わってしまう。けれども、実際に深く読めば読むほど人間の生き方を追求していることが分かる。とくに女の生き方、問題が生じたときの身の処し方など、現代のわたしたちにも示唆を与えていると思う。人間の感情の本質は今も昔も変わらないであろう。当時の人びとの悲しみは当然のごとく今のわたしたちの悲しみであり、悲しみをもたらす本質も根元的には同じなのだと思う。
前置きが長くなってしまったけれど、そんなこんなでわたしは『源氏物語』には興味を持ち続けてきた。ところがこの石井和子の、『平安の気象予報士 紫式部』〜「『源氏物語』に隠された天気の科学」〜(2002年11月)は、これまでわたしが知っているものとは、物語に対する見方がまるで違っているように思えた。なお、この本を漢点訳してくださった方は、もう既に逝かれ、新たに漢点訳していただけないのが残念である。
昔から言われているように、紫式部は、物語の登場人物の心理と情景とが響き合うように、雪や雨、野分、また虫の音などの風景描写を美しく描いている。従って、石井和子さんが気象に関することがらをどう教えてくれるのか楽しみでこの本を開いた。
まえがきを読み、第1章「『源氏物語』を生んだ平安時代の気候」を読み始めて、わたしは途端に平安時代よりさらに古い時代へと想いを凝らすことになった。
「古気候を探る」との表題で、「過去の気候を研究する学問を古気候学といい、平安時代、つまり『源氏物語』が書かれた時代の気象に関する見方もこの古気候の分野に入るのだという。そして古気候を探るために、大きく九つの方法が上げられていた。
* 以下1〜9の項目は著者石井和子さんの原本から、勝手ながらわたしが省略して引用させていただく。
1.古文書を調べる_『日本書紀』や『三代実録』などから天気の記録を参考にする(琵琶湖などの湖や山の氷の状態、水位、桜の開花時期、農作物のでき具合)をみる
2.木の年輪を調べる_木は、気候のいい年は、より成長するため、年輪の幅が広くなる。ヨーロッパやアメリカでは、この方法で、ドイツでは9世紀ころまで、カリフォルニアの古木ではBC3000年くらい前の気候も分かる。日本ではせいぜい屋久杉の千年程度なので、法隆寺などに使われている、伐採後の柱などから推定する。
3.花粉を分析する_湖底の泥を柱状に採って、年代別に泥層に含まれている花粉の化石を調べる。(この方法では細かい変動は分からない)
4.湖底にたまった泥の層状構造を調べる_川から流れ込んだ泥が沈澱する。雨の多いときは沈澱が厚くなる。
5.高山の万年雪の層状構造を調べる_乾季には塵などが積もり、万年雪の年輪となる。
6.酸素(O2)の同位元素の割合を調べる_ユーリが開発した方法で、グリーンランドの氷柱を調査し、西暦800年ころまでの水温が推定されている。
7.炭素(CO2)の同位元素・原子量12と原子量14の割合を調べる_地中に埋まっている植物が死んだ時期の太陽の活動状態が推定できる。
8.氷河や変化した海岸線の位置から推定する_岩石でわかる氷河運動の痕跡などから、ヨーロッパでは、古代ローマ時代のころに氷河が後退しており、この時代が温暖であったこと、さらに、BC8〜5世紀には前進していて、気候が寒冷化に向かったことなどが知られている。また、海岸線の変化は海面の上昇と密接に関係している。地球温暖化で極大陸の雪や氷が溶けたり、海水が膨張したりする。ちなみに『源氏物語』の書かれたころは、今よりも大阪湾が深く入りこんで京都の南部近くまで内湾化していた。
9.太陽の黒点数を調べる_太陽活動は黒点の多いときほど活発で、莫大なエネルギーを放出するフレア(黒点の上空領域で起こる爆発現象)も活発となる。ガリレオが発見して以来、約300年、黒点数はおよそ11年周期で増減することもわかっている。
わたしは、『源氏物語』の世界に入る前に、琵琶湖の湖底の泥をかき混ぜないように、細心の注意を払いながら、泥の塊?ヘドロであろうか?を採り出す仕事をしている人びとの激しい労働の様子を想像し、また、その採取された泥を実際に目の前に置いて、ためつすがめつ見つめている人たちが泥の、重なり具合、塊の中にどんなものが含まれているか、緊張しながら調べている人の様子(ちょっと気むずかしい顔、ニコニコしている顔)まで想像してしまう。わたしは、この本の冒頭から興味をそそられて、まだ先に進めないのである。じっくりと楽しませていただきたいと思っている。
最期に『源氏物語』の「野分」の巻の中から、夕霧が六条院の女君たちを垣間見する場面など、四首のみ記す。
おほかたのをぎの葉すぐる風の音も うき身ひとつにしむ心ちして
風さわぎむら雲まがふ夕べにも わするる間なく忘られぬ君
吹きみだる風のけしきにを女郎花 しをれしむべき心地こそすれ
下露になびかましかばを女郎花 あらき風にはしをれざらまし
(大塚ひかり 全訳、ちくま文庫、2009年3月)
2009年10月1日
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