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漢点字の散歩 (5)

                          岡田健嗣


       3  どうして?(承前)

 前々・前号と、なぜに我が国の視覚障害者の「識字」が、正面から問われなかったかを考えた。
 先ず一般的に、これまで「識字」がどのように捉えられて、どのように取り組まれて来たかを見た。昨年の夏の読売新聞に載った「俳句教室」の紹介記事を引用させていただきながら、「学校教育と識字」、「学校教育外と識字」について考えて見た。そこで分かったのは、「学校教育」と「識字」は、切っても切れない関係にあるということであった。そしてもう一歩踏み込めば、「識字」は一国の国力の指標でもあって、「識字率」がその国の教育水準と国力を表すと考えられているのである。そんな中で学校教育で〈文字〉を習得できなかった人々がいた。〈文字〉に対する人々の飢餓感とそれを強く希求する姿に思いを致しながら、直向きに学んでおられる人々の姿と、焦らずゆっくりと見守りながら手解きをされておられる教育関係者の皆さんの努力に、心を打たれたのである。それは、単に日本という国家の国際競争力増強の目的ではない、もう一つの「識字」の力が、人々の生きる力と喜びを伝えて来たからにほかならない。〈文字〉は、国家の成立とともに発達し国家の存立を支えたが、同時に人の心の栄養となり力となり、それを豊かに育むものでもあったからである。もっとも古代の人々には、国家と個人の区別や対立などありはしない。むしろ言葉の力、文字の力、文章の力に、国家の行方を託していたのである。
 前号では、視覚障害者が〈文字〉を我が物にするには、「触読」という方法を開発し求めなければならないことを述べた。触読用の〈文字〉である〈点字〉の先進国である欧米の例を知るという観点から、「ドイツ語点字」の解説書の序文を引用してみた。そこにあったのは、その書物が触読文字である〈点字〉に関する解説書であっても、基本には、「ドイツ語」の解説も同時に為さなければならなかったという執筆者自身の言であった。ドイツ人の母語であるドイツ語の〈点字〉を解説するのであるから、ドイツ語に通暁していなければならない、それは考えて見れば当然なことである。そして(私の読める範囲で)英語もドイツ語も〈点字〉は、徹底的に〈触読〉を究めているように見える。英語圏では「英語」、ドイツ語圏では「ドイツ語」という母語に肉迫し、〈触読〉は研究されて、〈英語点字〉や〈ドイツ語点字〉に結実しているように見える。
 それに引き替え我が国では、〈点字〉は〈点字〉の専門家に任せておけばよろしいという黙契があるようである。日本語を表す〈点字〉の議論の中に、我が国の標準的な「国語教育」を持ち込む例は、これまでになかった。〈点字〉は〈点字〉、〈点字〉の世界で充足しておればよろしい、そのように扱われて来たようである。
 確かに日本語の〈点字〉の表記法の解説には、日本語文法に則っているような説明がある。しかしその文法の解釈と適用には、先ず「カナ点字」だけの表記ありき、「カナ点字」だけの表記であるのだから、「漢字仮名交じり文」は表現できないので考慮の外として、ローマ字の表記と同様の「品詞による分かち書き」の採用と、「品詞」を強調することによって、文法による説明としているのである。このような「〈点字〉では漢字仮名交じり文は表現できない」とするア・プリオリな解釈と説明は、今なお強い影響力を持っている。このようにして〈漢点字〉が証して来た、日本語の表記の神髄である〈漢字〉を、触読文字である〈点字〉によって表される事実を、公式には未だ認めていない。むしろ、〈点字〉では〈漢字〉を表すことは不可能と、黙殺を決めているようにさえ見える。

     触読とは?

 〈文字〉が一般に広まったのは、それほど古いことではない。せいぜい数百年である。それ以前は、極めて限られた身分の、しかも著述となれば、さらに限られた知識人にしか許されていなかった。そんな中で視覚障害者が〈文字〉に触れる機会を得るようになるのは、一般の識字が進んでから後になる。〈文字〉は目で見て読むものであるが、しかし視覚といえども、本来は〈文字〉を読むための器官ではないのである。感覚器官の一つ、中でも最も分化の進んだ器官と言えるだけである。〈文字〉は、この視覚の能力に負って発達したのであって、〈文字〉の発達と視覚による読みの発達と、そして言語表現の発達のフィードバックが、現在の言語文化を築いていると言ってもよいのである。視覚障害者にとって、このような視覚言語を感受するのは容易いことではないはずだ。視覚で築かれた〈文字〉と感覚器官との関係を、触覚に置き換える努力が求められるからである。
 前号でも、またこれまでに幾度か、「触読のメカニズム」を考えて見た。私に知り得る英語とドイツ語の点字を参考に、〈点字〉のパターンを検証してみた。縦三点・横二列の六つの点の組み合わせ「」を最小単位として、それを「マス」と呼んでいること、〈文字〉の組み立てとしては二マス「 」を単位とすることが、触読にとって最も適っていること、それによって触読文字としての情報量を格段に増大させることに成功していることが分かった。「英語点字」と「ドイツ語点字」の検証からこのようなことが分かった。しかし触覚は普通、〈文字〉を「読む」ことには用いられない。視覚を失った者にのみ、〈文字〉を触知することが求められるのである。
 視覚障害者の〈触読〉を考える目的で、中途失明者に、〈点字〉の触読の習得について尋ねてみたことがある。ある程度の年齢、若くとも十代前半以降に失明した者が、〈点字〉(この場合は「カナ点字」)の触読に挑戦して、どのようにして読めるようになったかを尋ねてみた。私の予想では、徐々に読めるようになるのだろうと、安直に考えていた。努力の量が、そのまま触読の実力に結びつくものと考えていた。ところが答えは違っていた。
 失明し、盲学校に入学して、最初に与えられるのが〈点字〉の教本である。目が見えなくなったのだから、〈文字」は指に触れて読むしかない、指先で読むには、〈点字〉という、触読専用の〈文字〉がある。ここまでは誰でもが知っていて、習得に努力するのが当然と思われていることである。が、いざ指に「」(め)を触れる。分からない。「 」(あいうえお)に触れてみる。分からない。………。延々と繰り返す。生徒も教師も必死である。繰り返し、繰り返し、繰り返し、……。この繰り返しのプロセスがどれだけ繰り返されたか、ある日突然、分からなかった〈点字〉が、分かるようになったのである。おおよそこのような答えを得た。
 これは何を意味しているのであろうか?
 元々触覚は〈文字〉を読むようにはできていない。経験則から「」、「 」のパターンの〈点字〉であれば、触読できることが分かっているだけである。そして〈点字〉の学習とは、「」や「 」のパターンが〈文字〉であることを予め知っていて、「」や「 」を〈文字〉として触知したいと努力を重ねることを言う。
 指先の触覚のレセプターは「」や「 」の点のパターンをパターンとして感知する。この感知も当初は決して容易ではないが、ともかく感知する。その情報が知覚神経を通して頸髄に行き、大脳の指先の触覚中枢に届く。この時点では「」や「 」は〈文字〉ではない。しかし〈文字〉であるという予知はある。この予知が「何が〈文字〉なのか?」というバイアスとなって、神経細胞に働きかける。こうして新たな軸索とニューロンの回路が形成されて、突然「分かる」ようになるのではないか?
 実はこれは、触覚ばかりに起きていることではない。視覚も元来、〈文字〉を読むためにある訳ではない。視覚情報の処理のプロセスに〈文字〉が介入することで叶ったのである。
 幼少時に視力を失っていた人の開眼手術が成功した例が、生理学や心理学の教本に、事例として挙げられている。リハビリテーションの一つとして、図形の認知の訓練が行われる。「△、□、○」を見せて、それらをそのように認知できるまでの時間を計測したり、視線の動きを調べたりする。その図形を見せられた当初は、被験者の視線は辺や角を確認するように動いて、「△」を三角形、「□」を四角形、「○」を円と認識する。何回か繰り返すうちに、辺や角を確認することなしに、一挙に分かるようになるという。形や大きさの違う三角形や四角形も、一目で分かるのだという。
 〈文字〉の場合は図形の認知よりずっと複雑であろう。〈文字〉を図形として認知した後に、〈文字〉と認知し言語と理解する。〈文字〉の認知は、「識字」の教育と同時進行しなければならないこともあって、開眼手術直後の調査は不可能であろう。が、〈文字〉を図形として認知するところまでは、この調査に沿ったものと想像できる。
 〈点字〉の触読にも、これと同様のことが言えるに違いない。ここで対象としているのはカナ点字である。極めて単純な構成であるので、教育にはさほどの手間はかからない。予知として五十音の〈点字〉のパターンを教えて、「読み」の前に「書く」ことから始める。これは予知をより確実なものにするためであって、要件として欠かせない。
 〈触読〉は、先ず自分の書いたものから始める。自分で書いたものは、何が書かれているか予め知っている。それを触読するのであるから、記憶の確認の意味合いが強い。
 そして次に読みの練習に入る。
 「読む」とは、自分で書いたものを「読む」のではない。他人が表した言葉に触れることである。予見し得るものもあればできないものもある。これが「読む」ことの難しさであり楽しみでもあるのだ。


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