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漢点字の散歩(31)
                    
岡田 健嗣

    こころの間口

 昨年3月11日の、東北・関東地方の東海岸を襲った大地震と、それに伴って発生した大津波による大災害から、1年と半年を経ようとしています。直後私も「未曾有」という言葉を使ったことを記憶しています。その大きさを測りきれないと言う意味です。勿論現在も変わりはありません。
 しかし私たちには、ご家族を失い、住居を奪われ、職場も潰えた被災者の皆様とは異なって、案外早い時期に、日常が戻ってきました。
 3.11の後まるまる一週間は、テレビ報道は震災関連で埋められました。また鉄道を中心とする首都圏の交通は、取りあえずの復興までに数週間を要しました。とりわけ最初の一週間は、帰宅難民とか交通難民とか呼ばれて、多くの皆さんが移動を妨げられて、誠に長く感じられたものでした。しかしその後は、急速に日常が回復して、3.11は、早々と過去の体験として振り返る対象と化して行きました。
 私が「未曾有」というときに抱く茫とした落ち着きの悪さは、恐らくこのような情況に抗し難く、あの被災の共有に失敗してしまったと感じるからではなかろうか、そう思えてなりません。
 あの震災の後総合雑誌『文藝春秋』は、作家の故・吉村昭氏が調査しまとめ上げた関東大震災、そして明治初期から昭和三十年代にかけて東北地方を襲った大津波の記録を再録しています。
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9、震度6という大地震が、関東地方を襲いました。氏はその震災の特徴について、次のように括っておられます。
 ・関東大震災の災害は、揺れによる建物や道路の倒壊よりも、伴っておきた火災によるものが甚大であった。
 ・その火災は通常言われているように、昼食の調理に使われていた火が、地震によって延焼したものばかりでなく、大学の研究室や化学工場で使用し保管されている化学物質の容器が、損壊して発火したものも少なくなかった。
 ・家財道具を背負うなどした避難民の荷物が火を呼んで、犠牲者を倍増させた。
 ……
 最後の、荷物を持って逃げることが被害を拡大させたということは、先人の知恵を忘れてしまっていた結果だとも述べておられます。それは、有効な消火法のなかった江戸時代、大火が頻発していたころ、火災時に、荷物を車に載せたり背負うなどして運ぶことを厳禁していたこと、それは延焼を防ぐとともに、避難路を確保すること、そして何といっても消火作業(建物を破壊して、可燃物をなくすることで延焼をくい止める消火法)を妨げないためであると言います。江戸幕府は、荷物を持って避難することを、罪として罰したのでした。
 氏は、もしこれが守られていたら、関東大震災の人的被害は、ずっと小さなものになっていたであろう、氏自身、戦時中空襲に見舞われた際、荷物を捨てたことで一命を取り留めた経験があるとも述懐しておられます。
 震災直後の被害の調査と分析は、精力的に、詳細になされました。災害に強い都市計画、災害時の被害の予想、被害を最小限に留めるための方法と試作、これらが生かされることが望まれるのだが、しかし1995年の神戸の大地震の後テレビ番組に出演したとき、関東大震災に関する資料について役所にただしたところ、その存在さえ知らなかったと、強く憤っておられました。
 もう一つ、明治から昭和30年代にかけて東北地方を襲った津波の記録は、私たちに覚醒を求めるものに違いありません。3.11の後繰り返し報道された津波の映像、その被害の有様は、その記録にそのまま映し出されていたのでした。つまり私たちは、既に津波というものがどういうものか、どんな被害をもたらすものか、情報としては充分持っていたのでした。しかも人びとの取る行動、避難に至るまでのプロセスも、ほぼ繰り返しなぞっていたのでした。そうであればなおさら、人の心、人の記憶とは、如何に当てにならないものかということを、もっとその身に、当てにならないその心に刻みつけなければいけないと、思わぬわけにゆきません。3.11に起きたことは、明治30年代、昭和の初期、昭和30年代に、既に充分過ぎるほどに繰り返されていて、しかもその都度同様の被害と悔恨を残したのでした。そして現在、早くも1年半前の記憶は、直接の被災者ではない私たちのなかで、変容しつつあると思えてなりません。
 吉村氏はもう一つ、極めて重要と思われることを述べておられます。
 関東大震災の直後、世界の他の地域では見られない、被災者の落ち着きと労り合いの姿が、至る所で見られたということです。被災者同士が安否を確認し、情報を交換し、物資を分け合う姿が、至る所で当然として繰り広げられたのでした。これは特筆されるべきことで、世界の他の地域が同様の災害に見舞われると、人びとは例外なく動顛し泣き叫び、自らの不運を訴えると言います。また当然のように、強盗や略奪が発生し横行すると言います。ところがわが国では、人びとは労り合い秩序が保たれ、整然と復興へと向かったと述べておられます。勿論例外はありました。不幸な事件もありましたし、震災を隠れ蓑にした暴力も行使されました。それでも一般の民衆は、整然と避難し、暴力に手を染めることはなかったと言います。
 氏は震災の記録とは別にもう一つ、興味深いエピソードを記しておられます。旧海軍の潜水艦の事故に際して乗組員の取った態度が、一般の潜水艦事故とは全く違っていたと言うのです。事故後に引き上げられた潜水艦を調べてみると、一般(他の国々の海軍)の潜水艦の事故では、海面への浮上の可能性が閉ざされたことを知った乗組員は、出口のハッチへ殺到して、われ勝ちに艦の外へ脱出しようとした跡が残っていると言います。ハッチは元より強い水圧で開きません。たとい開けることができたとしても、流入する海水の力に押されて、脱出できることはないと考えられます。それでもそのような行動の跡が見られたと言います。
 ところがわが国の潜水艦事故では、浮上の可能性のないことを知った乗組員は、それぞれの寝台に横になり、徐々に酸素が欠乏し死が訪れるのを静かに待っていたらしいのです。これは関東大震災直後の被災者の行動に、どこか通じるものがあると思われてならない、と氏は言われます。
 絶望的な情況への対応のこのような相違は、何に由来するのか、大変興味深いものがある、これが日本人の特質であるとするなら、これは優れた点と言ってよいのではないかと述べておられます。
 本会の活動の一つに、新聞の健康記事を漢点字訳して、読者に届けるというものがあります。これは朝日新聞と読売新聞の記事の中から、比較的短い記事を選んで作っています。
 3.11直後、朝日新聞は通常の記事を中断して、震災関連の記事に差し替えられました。読売新聞では、健康記事の体裁を残しながら、被災地へ取材に赴いて、医療の現状と問題点を伝えていました。従って本会では、朝日新聞の記事は暫く休み、読売新聞の記事の漢点字訳に力を注ぐことにしました。その記事を通して私は、強く感銘をを受けたことがあります。
 それと言うのも、通常漢点字訳している記事の体裁は、おおよそのレイアウトが予め決められていて、始まりがこうなら次はこう、その後展開があって最後に結びがあると、折り詰め弁当の詰め合わせのごとく、読み進んでいるうちにも次に何が書かれているか予想がつくように構成されています。読み易さ、理解し易さの点からみれば、誠に当を得た構成と言えるのかもしれません。それだけに黒白のはっきりした、ステレオタイプな構成になり勝ちなことも、免れ難いものがあります。
 ところが当時の記事は、誠に余談を許さない、読者の予想を裏切りつつ興味を引きつける、大いに力の籠もったものに仕上がっていたのでした。記事は3月の末から4月、5月と同様の企画で進められました。恐らく記者の皆様が、その評価の基準や分析の方法を持ち得ないまま災害の現場に向かわれて、手探り足探りの中から情報を得て、ひとつひとつ積み重ね整理しながらの記述が、あの臨場感に満ちた記事になったものと思われます。
 しかし私たち非被災者が日常を取り戻すのと歩を同じくするように、被災地からの報道も、徐々に元の起承転結のはっきりした、分かり易い、読み易いものに戻っていったのでした。私のような読者にしてみれば、残念な気分は否めません。当時の隅々まで目が行き届かずとも、切り口の鮮明な、好奇心に溢れた記事に触れて、読者である私も、心の結ぼれが解けるような気持ちになったものでした。
 最後に、ささやかな私の体験について、一言させていただきます。
 (これから先は、多少物欲しげに読める箇所もあります。ご容赦下さい。)
 私は視覚障害者ですが、若い頃は白杖一本を頼りに、何処へでも一人で出かけたものでした。全盲の者が一人で外出するということは何と危険と思われているか、案外本人には分からないものです。警察官や役所の方から、「一人で歩くのは危険ですよ、どなたかご家族はおられないのですか?」などと声をかけられます。これは珍しくありません。本人にしてみれば、一人で歩くということは危険と引き替えに、自由を得ることを意味します。一人で歩くということ、自由を得るということが、何より掛け替えのないものになって参ります。そんな折り、どなたか付き添いは…?と言われるのは…。考えてみて下さい。外出の必要を感じる度に、家族や友人の手を煩わせること(このプロセスは省略します)、このことを誤解を恐れずに言うならば、くびきに繋がれているのと同じ状態にあるとさえ言えます。
 そこで一人での外出を決行します。決死の覚悟とまで言わずとも、かなり「よし!」という、気合いをかけて臨んでいるに違いありません。とはいえ毎日のことですから、毎日気合いをかけることはできません。気合いをかけている状態が常態になってくる、というのが当たっているのではないでしょうか。そのようにして私は、行動の自由を得てきた、と取りあえず申しておきます。
 7年前より私は、視覚障害者の外出支援事業に手を染めることになりました。この事業は、公費によってガイドヘルパーを、障害者に派遣するというものです。私個人にとってこのような事業に関わるには、幾らかの経緯がありました。何と言っても歳には勝てない、一人歩きが辛くなってきたということが最も大きな理由です。それに加えて、怪我のできない身体になってしまったということがあります。一人歩きには、怪我がつきものです。当時は生傷が絶えませんでした。
 しかし制度上どうしても一人で歩いたり乗り物に乗ったりしなければならないことがあります。
 一人歩きをする視覚障害者には常識になっていることですが、一般にはそうは思われていないことがあります。一人で白杖を持って電車に乗ります。都会の電車の座席は、だいたい空いていません。一般には吊革につかまって前の席が空くと、そこに腰を下ろします。立っている人が少なければ、少し離れた席でも、そこへ行って座ります。くだんの視覚障害者と言えば、立っている前の席が空いたときには、何とかそれを感知して腰を下ろすことができます。しかし離れた席が空いたときは、感知できません。ターミナル駅などでひとの動きが大きく、どこかに空席ができたらしいと分かっても、その席を探すことはできません。
 読者諸兄姉はここで、妙ないぶかりを感じておられると思います。「周囲の乗客は、誰も教えてあげないのかしら」。誠にその通りで、ほとんどの人が、ちょっと教えてあげれば済むことなのに、と思っておられるようですし、誰か席を譲るくらい造作のないことではないか、と思っておられるらしいのです。
 正確な数値を出すことはできませんが、このような場合、空席を教えてもらえる機会は、恐らく10回に1回もないのではないでしょうか。席を譲って下さる(今ではさほどの抵抗はありませんが、若い頃は、実に気恥ずかしいものでした)となると、もっと希なことなのです。従って私たち視覚障害者は、短時間の乗車の際は、できるだけドアに近いところに位置を占めて、着席は初めから考えないことにしています。少し長く乗るときは、できるだけ座席の前の吊革につかまるようにして、ひたすら前の席の空くのを待つのです。
 昨年の3月11日、午後2時46分、東京・横浜にも希な、震度5という揺れが襲いました。その後一週間は、公共交通機関はほぼ不通の状態が続きました。鉄道ではJRの復旧が最も遅く、私鉄各社も取り分け相互乗り入れを中止するなど、人の移動を大きく制限していました。
 私はこの間、全く外出しないで、閉じ籠もり状態にありました。テレビ・ニュースで、鉄道の復旧の状態を知るようになって、震災から3週間後に、一人で外出してみました。そこでの体験は、私にとって忘れられないものになったのでした。
 京浜急行線の横浜駅は、通常よりやや混雑していました。プラットホームに降り立ってみると、職員や警備員の方ではない一般の乗客の方が、次々と声をかけてくださって、危険のないよう、障害にならないよう、皆さん気をつけて下さったり、誘導して下さったりしたのでした。次の電車を待つ間周囲に耳を傾けてみますと、人の雰囲気が普段とは全く違っていました。見知らぬ乗客同士が、互いに譲り合い気遣い合っている様子が、混み合ったホームのあちこちから伝わってきたのでした。電車が到着して乗客が乗降する間も、先を争う声も身体のぶつかり合う動きも、伝わってきませんでした。
 私の降車駅に着いてホームに降りると、やはり横浜駅と同様に、乗客のお一人が改札口まで誘導して下さいました。方向が違うらしく、改札を出たところでお別れして少し進むと、いつもの難所に差しかかります。それは大規模なパチンコ屋さんで、その前に自転車が蜘蛛の巣状態に置かれているのです。普段はぶつかりながら倒しながら、蜘蛛の巣に捕らわれないよう、その外周をゆっくり探りながら進むのですが、その日は駅の中と同様に、「あぶない・あぶない!」と、通行人のお一人が飛んできて下さり、私が乗るバス停まで誘導して下さったのでした。
 こう書いてみると日常的にありそうなことに思われるかもしれません。しかしそうではありません。当時は、東北地方・関東地方の太平洋沿岸地域を襲った大規模な地震と津波が、見たこともない光景を現出しました。そして首都圏に引き起こした鉄道と道路の麻痺が、人びとの日常を根底から覆されて、ある意味、カオスの真っ直中に投げ込まれていた、そんな情況だったのでしょう。その証に、10日後に同様のコースを一人で歩いてみたところ、以前に戻っていたのでした。混雑しているところでは、私の直前を横切って、白杖に足を引っかけるとか、点字ブロックの上に立ち止まって私の歩みを妨げるとか、誠に日常が急速に戻ってきていたのでした。
 この一年あまり私は、このような情況をどのように捉えたらよいか、考えてみました。
 以前欧米の障害者と社会の様子をうかがう機会があって、たとえばドイツでは、下肢障害の人が道路を横断しているときデモ隊が通りかかり、その前を横断する形になった場合に、デモ隊は、その場に留まって横断を見届けてから行進を再開するとか、車いす移動中に段差で難儀している人を見かけると、近くにいる人が直ぐに手伝うとか、そういうことが日常の中に浸透していると言います。私自身東京で迷ってしまって途方に暮れたことがありました。どなたも声をかけて下さらない中に、外国人らしい方が手を貸して下さり、事なきを得たという体験があります。雑踏の中で人とぶつかるケースは珍しいことではありません。そのようなとき「ソーリー」という声をよく聞きますが、日本語の声を聞くことは、むしろ希です。
 この稿の初めに、災害時の日本人の振るまいは、世界の多くの人びととは違うという、吉村昭氏の見解をご紹介しました。しかし私は、ここにきてそうとばかりは言えまいと考えるようになっています。わが国の災害時には、絶望のあまり泣き叫んだり呪詛したり、暴動・略奪に終始することはないようです。他の地域や国々でも、そういうことばかり起きているとも思えません。多少そういうこともあるかもしれませんが、頻度に違いがあるだけではなかろうか、そう考えています。わが国の災害時にも、立派に悪事を働く者はいるのです。
 ここで私が最も関心を寄せることは、わが国の災害時にはなぜ労り合い助け合う、互助的な関係ができあがるのか、関係はできあがるのだが、決して組織されるのではない、しかも一過性で、直ぐに次に移行するということです。しかもそのような関係は短期間に終わって、早い時期に日常が復帰する。「一期一会」とは、誠にこのようなものをいうのかと、目から鱗の落ちる思いがしたものでした。精神医学や心理学ではどのように言うのか詳らかにしません。しかし普段からこのような災害時と同様の心の働き、あるいは気持ちの持ち方ができれば、大変生活し易い社会になりそうだ、そう思われてなりません。あの3.11から3週間後の私の体験は、私ばかりでなく多くの人びとに、心地よい何かを残したに違いありません。
 私は取りあえずこのような心のあり様を、「こころの間口」と呼ぶことにします。日本人は日常には「こころの間口」を、必要以上に開こうとしない、そのために手を差し伸べなければならないときに、対応が遅れてしまいます。欧米の人びとは、「こころの間口」を常に広く保とうと努力している。そのために無理なく身体が動く。どうやらそのような図が描けそうです。
 私自身、あの災害から学んだことの一つとして、このことを心に刻んで置きたいと思っているところです。
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