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漢点字の散歩(37)
                    
岡田 健嗣

           万葉集初体験 (2)

 《古代日本人が国家の意識をはっきり持ちはじめ、神々と人間との分離を知りだした第一歩は、仁徳〜雄略朝あたりに求めることができる。『古事記』が、神々の物語である上巻(天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)〜鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと))、神と人との物語である中巻(神武〜応神)、純粋に人間の物語である下巻(仁徳〜推古)の三巻に分かれ、その下巻を仁徳天皇からはじめている構造を掘りさげてゆけば、右の認定がたやすく得られる。『宋書(そうしょ)』倭国伝(わこくでん)における「倭(わ)の五王」の始まりを仁徳王朝に擬する考えがあるのも、そうした探究による成果である。/ 仁徳朝以降、人びとの心に培われた神人分離の認識は、欽明〜推古(六世紀後半〜六二八年)、とくに推古朝に至って時期を画した。聖徳太子による冠位十二階制(六〇三年)や十七条憲法の制定(六〇四年)、大陸との正常な国交の開始(六〇七年)や仏教統制機関の設置(六二四年)などは、推古朝における国家意識の飛躍を物語る。また、天皇記・国記・本記(ほんぎ)などが編まれたこと(六二〇年)は、推古朝が古代における歴史体系の未曾有の獲得期であったことを示す。人間の個の自覚は、国家意識の生成と密接にかかわる。/ 抒情詩の個性は、集団を構成する人間が国家の確立による統一的な秩序や機構によって制約をうけ、一定の義務や権利を与えられて矛盾や喜びを感じる時に形成されてくるといわれる。記紀に収められる古代歌謡ならぬ万葉和歌が、推古朝を継ぐ舒明朝頃から急増し、新しい相貌を見せてくるのは偶然ではない。万葉の時代を築きあげた天智・天武両帝や持統女帝の、父であり祖父である人が舒明天皇であったために、『万葉集』においてとりわけ舒明朝が重んぜられたという事情も考え合わせなければならないものの、舒明朝あたりが万葉の黎明(れいめい)であったことは否定できないであろう。そして、このことを身をもってあかすのが、舒明御製の歌柄(うたがら)であり、その歌を二番歌(にばんか)として開巻冒頭歌の直後に据えた巻一の構造である。/(以下略)》
 以上は本誌前号の本欄に引用した『萬葉集釋注』の編著者である伊藤博先生が、「釈文」に記された文です。推古天皇の即位とともにわが国が、国家を為すべく矢継ぎ早に手を打ち、それを継ぐ舒明天皇とその後継である天智・天武そして持統天皇のお姿が、この『万葉集』の中に見えてきます。手元の『広辞苑』の年表を見ても、神武天皇・仁徳天皇・雄略天皇というわが国の創世に多大な功績のある天皇のお名前は見えず、この推古天皇から西暦に並列されるようになっています。いわゆるわが国の歴史時代は、この推古天皇の時代に始まったと言っているのです。ここで言う国家とは何を指しているのか、これは極めて重要な課題と言えます。
 国家の起源には多彩な論や説があるようです。私が学生であったころは、わが国の国家の起源と言えば、その早々期を弥生時代としていました。つまりわが国の歴史の早々期を縄文時代(前1万年超〜前5世紀あたり)として、当時はまだ国家としての体裁はなく、人々は定住せず、生業は狩猟と採集経済に委ねられていたとされていました。ただし、各地の遺跡や貝塚から、当地の産物でない物(黒曜石や曲玉など)が出土することは珍しくなく、そのことから既に、何らかの交易が盛んに行われていたらしいことが伺われるとされていました。
 しかし今から20年と少し前に、青森県の三内丸山で、驚くべき発見がなされました。広辞苑に以下のように紹介されています。

 《【三内丸山遺跡】/ 青森市南西部にある縄文時代前期中頃〜中期の大遺跡。1992年からの発掘で、竪穴住居・掘立柱建物・墓などのほか、溝・柵・道や大規模な土木工事痕跡などを発見し、多くの遺物も出土。》

 国家の起源を人々の定住と集中、社会的な役割の発生と分業化などに求めれば、既にこの三内丸山に営まれた集団は、国家と言ってよいものに他なりません。わが国の国土に生きる人々にも、決して遅くない時期から、国家と呼んでよい生活が営まれていたのでした。それは縄文時代の中程と推定されていて、その時期は紀元前6、5,000年であろうと言われています。
 また縄文時代と歴史時代の間に、弥生時代があります。この時代も炭素の同位元素の分析の結果、その始まりを紀元前5世紀とされていたのが、前10世紀へと遡っています。前10世紀と言えば大陸では、周王朝が殷王朝を滅ぼした易姓革命の時期に重なります。北の周が南の殷を滅ぼすことを南進と言いますが、この南進とわが国の弥生時代の訪れが、無関係とは言い切れないように思われてなりません。
 そうしてみると一つ興味深いことに気づかされます。
 私たちが歴史を捉えるとき、学校で学んだ教科書には、四大文明から説かれています。西からエジプト、メソポタミア、インド、中国の四つ、それぞれにナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河という大河の辺に起こったとされています。
 これらの文明は、エジプト、メソポタミア、インドは、それぞれに交通が盛んであったらしいこと、中国でも、黄河・長江両大河による交通が盛んであったらしいこと、このような交通(交易や戦争)が、小さく点在していた初期の小国家を集約し巨大化して、大文明圏を形成して行ったらしいこと、初期の小国家はそれによって役目を果たして吸収され消滅して行ったこと、大文明圏はそのまま巨大化して、エジプト、バビロニア、ペルシア、インド、殷と、現代に繋がる国家を形成して行ったのでした。私たちが学校で学んだ歴史によれば、ここからが歴史の始まりということになっています。
 ところで今回発見された三内丸山を年代から見てみると、古エジプトやシュメールの初期に該当しはしますが、中国でもまだ国と言える国は成立してはいない時期です。そうしてみると、この三内丸山に成立していた集団・社会を国家と呼べるとするならば、共時的には、決して偏狭な地域・社会ではなく、恐らく普遍的な、世界の何処にも成立していた国家の一つであったに違いないと言うことができます。そのような初期の国家が、世界文明の巨大国家へと変貌しなかったばかりか、やがて消滅する運命にあったことは、一体どういうことだったのであろうかとつい思ってしまいますが、しかしこれも、世界の何処にでも起きていたことで、取り立てて珍しくないことでした。ただその後のエジプトから中国とその周辺に至るユーラシア各地の抗争と諸国家の興亡を歴史のダイナミズムと見るならば、わが国の国土に占める人々の営みは、未だ歴史に参加するには時日を要するものだったと言えるのも事実だったのでした。そのようにしてわが国が、歴史の流れに位置を占めて姿を現し始めたのが、この推古天皇の時代であったのでした。普遍の一つであった社会が、何時の間にか偏狭に堕していることに気づかされたのが、この時代だったと言えるのかもしれません。このような歴史へのデビューが幸福なものであったのか、多少疑問に思わないではおられないのも、それまではなかった国際関係に、否も応もなく引き出されざるを得なくなってきたことが、このような事態に至った理由と思われるからです。
 世界のレベルでそれ以前を見てみると、わが国が中国の資料にその名を顕したのは、あの有名な「魏志倭人伝」と呼ばれる三国時代の魏の歴史書だったようです。紀元後3世紀ころと言われます。それ以前はなかったかと言えば、秦の始皇帝が不老不死の妙薬を求めて、徐福という人物を東海の島に送ったという記事が、司馬遷の「史記」にあると言います。そしてわが国でも、和歌山県・紀伊半島に、その徐福を祀った碑があるとも言いますし、各地に秦の文字の入った地名が残っていて、徐福とともに渡来した人々が移り住んだところだと言われてもいます。真偽の程は誠に詳らかにはできませんし、誰がどの時点でそのようなことを言い出したのか、実に不思議な話と言わずにはおられませんが、このような伝承が伝わるほどに、わが国と大陸とは、深い関係にあったと捉えることには、何の不足もございません。
 中国の全土は、秦の始皇帝によって統一されましたたが、始皇帝の死後直ぐに各地で乱が起き、漢の劉邦と楚の項羽が覇権を争って、漢が国土の統一に成功したのでした。前漢・後漢と漢の時代が400年ほど続きましたが、2世紀の半ばを過ぎたころから漢の王朝の力も衰えを見せ、三国時代へと流れ込みます。その後晋が統一するなどの六朝時代を経て、五胡十六国、南北朝、そして隋の統一に至って一つの王朝の統一国家が成立します。その隋も直ぐに唐に代わってやっと落ち着きを見せますが、この隋の時代と、わが国の推古朝の時期が重なります。
 この中国の隋・唐の統一は、わが国に何をもたらしたのでしょうか?
 推古天皇は初めての女帝で、弟の聖徳太子が摂政として政務を司りました。その事績は右に伊藤先生が述べられておられますように、冠位十二階の設定と憲法十七条の公布に象徴されます。
 冠位十二階とは、朝廷内の位を冠で表すことで、広辞苑に、「冠位の最初のもの。六〇三年に聖徳太子・蘇我馬子らが制定した冠による位階。冠名は儒教の徳目を参考にして徳・仁・礼・信・義・智とし、おのおのを大・小に分けて一二階とした。各冠は色(紫・青・赤・黄・白・黒)とその濃淡で区別、功労によって昇進。蘇我氏は皇室と共に授ける側にあった。」と紹介されています。朝廷内の位を冠とその色で表すこと、昇進は功績の評価によって決まるというものでした。官僚組織の構築が如何に急がれたかがよく分かります。
 推古天皇を補佐した聖徳太子のお仕事のもう一つは、十七条憲法の制定です。全文が引用されることはほとんどございませんので、ここにご紹介致します。広辞苑の資料から抽出しました。私も初めて読みましたが、誠に新鮮に感じました。

 一に曰く、和なるを以て貴しとし、忤(さか)ふることなきを宗とせよ。
 二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。
 三に曰く、詔を承りては必ず謹め。
 四に曰く、群卿百寮、礼を以て本とせよ。
 五に曰く、餐を絶ち欲することを棄てて明かに訴訟を弁(さだ)めよ。
 六に曰く、悪を懲し善を勧むるは、古の良き典なり。是を以て人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。
 七に曰く、人各(おのおの)任有り。掌ること濫れざるべし。
 八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退でよ。
 九に曰く、信は是れ義の本なり。事毎に信有るべし。
 十に曰く、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。
 十一に曰く、功過を明かに察(み)て、賞し罰ふること必ず当てよ。
 十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさめと)らざれ。国に二の君非ず。民に両の主無し。
 十三に曰く、諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。
 十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。
 十五に曰く、私を背きて公に向(ゆ)くは、是れ臣が道なり。
 十六に曰く、民を使ふに時を以てするは、古の良き典なり。
 十七に曰く、夫れ事独り断(さだ)むべからず。必ず衆と論(あげつら)ふべし。
        〈日本古典文学大系〉日本書紀

 今から1500年前に書かれた戒めですが、民主主義社会と言われる現代にも充分通用するものと思われてなりません。官僚組織の構築と、法と倫理の中央からの規定は、それまでは感じなくて済まされた国際関係の緊張がもたらしたものでした。唐は、隋の王朝から禅譲を受けて、その勢いのまま朝鮮半島に進出してきます。わが国はそれまで密接な関係にあった半島の百済を支えるために派兵を余儀なくされます。このような緊張状態から国家意識が芽生え、官位制度を整備し、憲法を制定して、国土と組織としての国家の保全こそが、国家運営の第一義的な目的となって参ります。このようにして急速に国家を意識の上に乗せることになって、わが国を国家ならしめているものが何か、それを証することが必要であることが、推古朝以降の朝廷の人々の心を占めるようになりました。
 推古天皇以降女帝の治める時代が断続的に続きます。推古朝では天皇の弟の聖徳太子が摂政を務めて、国家の運営と舵取りを担いましたし、その後の女帝・皇極・斉明朝では、息子の中大兄皇子がその任に当たりました。聖徳太子は天皇の位に即くことはありませんでしたし、中大兄皇子は、即位後天智天皇として豪腕を振るいましたが、それまでは長く母の皇極・斉明天皇を補佐して、国家としてのわが国の基を築かれました。その後の女帝の持統天皇は、夫の天武天皇の崩御の後、子の草壁皇子の即位を望んでいましたが、皇子は大変病弱で、止むなくご自身が皇位に即かれました。間もなく皇子は身罷られて、その子、天皇にとっては孫に当たる文武天皇の成長を待つことになったのでした。このような経緯からすると、持統天皇はいかにも中継ぎのために即位されたように写りますが、夫天武天皇が道半ばにした藤原京の造営、飛鳥浄原令(あすかきよみがはらりょう)の施行、大宝律令の公布など、律令国家の基礎を築くという、大事業に辣腕を振るわれたのもこの持統天皇でした。
 その後孫の文武天皇が即位しましたが、その父と同様病弱で、母の元明天皇が、文武天皇の子・聖武天皇への中継ぎとして即位しました。さらに聖武天皇の姉である元正天皇が即位した後、やっと期待されていた聖武天皇の即位となりました。
 この時代は推古天皇から皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇と女帝が帝位に即いた時代でしたが、同時に、わが国を国際関係に耐え得る国家ならしめるよう力を尽くした時代でもありました。推古朝での官僚組織の構築と十七条憲法による、国家運営の法的・倫理的枠組みの提示、持統朝での律令制度の基礎付けなど、約100年の時間の中で、現在のわが国の基礎を築き上げたと言ってよい時代でした。また元明天皇も、聖武天皇への中継ぎという位置づけと見えながら、『古事記』を712年に、『日本書紀』を720年に完成させ、その他にも各地の風土・物産・文化を記した「風土記」の編纂を求めたり、わが国最初の貨幣である和同開珎を鋳造したりなど、大いに腕を振るわれました。このようにして大急ぎに急いだ国家の体制作りも一つの完成を見ることになり、聖武朝にバトンタッチすることができたのでした。
 記紀の編纂は言わば国家プロジェクトで、中でも『日本書紀』は、わが国の正史と位置づけられています。正史を編むということは、わが国の拠って立つ根拠を、国の内外に証しすることになります。中国には文献資料も1000年以上の積み重ねがあります。それに匹敵する資料がわが国にも是非とも必要だと考えられて、編まれたのでした。
 記紀の構成は、先の伊藤先生のご紹介にありますように、神の時代・神と人の時代・人の時代の3部に分けられますが、『万葉集』も、各巻それぞれに、その拠り所とするお歌を、それぞれの冒頭に置く構成になっています。巻第一では、雄略天皇の御製歌、その次に舒明天皇の御製歌を置いて、わが国最初のアンソロジーの開巻を宣言しています。
 巻第二以降はどうなっているでしょうか。ご紹介しましょう。前号同様、お歌の後に振り仮名を、その後に伊藤先生の釈文から、その現代語訳を掲げます。

八五
 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
 きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ
 〈あの方のお出ましは随分日数がたったのにまだお帰りにならない。山を踏みわけてお迎えに行こうか。それともこのままじっと待ちつづけようか。〉

八六
 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
 かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを
 〈これほどまでに恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと、お迎えに出て険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだ。〉

八七
 ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに
 ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに
 〈やはりこのままいつまでもあの方をお待ちしよう。長々と靡(なび)くこの黒髪が白髪に変わるまでも。〉

八八
 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
 あきのたの ほのうへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ
 〈秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧ではないが、いつになったらこの思いは消え去ることか。この霧のように胸の思いはなかなか晴れそうにもない。〉

 以下、伊藤先生の「釈文」より、

 《右八五〜八の四首は、巻二「相聞」の冒頭を飾る歌。葛城氏から出て、第十六代仁徳天皇の皇后となった磐姫(いわのひめ)が、旅に出て久しく帰らぬ夫仁徳天皇を思慕した歌である。/(中略)/ 磐姫皇后をめぐっては、持統朝の頃、異常な嫉妬の物語が伝えられていた。仁徳天皇が異母妹八田皇女(やたのひめみこ)に愛を注いだことを怨んで、山城の筒城(つつき)の宮に引き籠り、その地でひとり寂しく生涯を終えたと『日本書紀』に記し(九〇左注参照)、『古事記』にもほぼ同様な話を伝える。『古事記』の、天皇の妻妾たちが普段と違った物言いをするだけで「足もあがかに」(地団駄ふんで)ねたんだという叙述や、紀伊の国から採集して船に載せてきた祭祀のための御綱柏(みつなかしわ)を、留守中天皇が八田皇女と馴れ親しんでいると聞くや、ことごとく「海に投げ棄て」てしまったという話は、ことに印象が深い。/ 嫉妬は愛情の裏返しである。そんな磐姫皇后にもこんな反面があったという次第で生まれてきたのがこの四首なのであろう。ここには、たしかに、記紀におけるそれとはまったく異質な磐姫皇后像が造型されている。心はやりながらも、女らしく待とうと内省し、立ちこめて消えやらぬ朝霧のごとく悶々の情に閉ざされる万葉の磐姫像は、すこぶる可憐である。「山尋ね迎へか行かむ」と言ったり、「高山の岩根しまきて死なましものを」と叫んだりしているところには、記紀に語られる磐姫の片鱗が見られるけれども、それを押さえて悩んでいるだけに、第四首の嘆きが強くひろがる。/ 第三首の下の句に多少の破綻が覗いてはいるものの、いちずに綿々と男を思慕する女の姿が切実に描かれるこの四首は、おそらくは主として宮廷の女性たちに提供され、いたくもてはやされたのであろう。四首を享受した人びとは、これをあの磐姫皇后≠フ一面と信じて感に耽(ふけ)ったのであり、そこに、女の模範を汲み取って心酔したことでもあろう。/ 四首が、巻二「相聞」の冒頭に掲げられたゆえんもまたここにあるだろう。四首は、古き世の高貴な女性の恋心を美しくうたった「相聞」の歌の規範として、冒頭を飾ったのにちがいない。そして、四首のあとには、近江朝以下藤原朝まで、白鳳現代の相聞歌群が連綿と続く。公的な「雑歌」の冒頭には男性の高貴(天皇)の歌を、私的な「相聞」の冒頭には女性の高貴(皇后)の歌を、一つさかのぼる古き世の典型として配した処置は、心にくいかぎりといわなければならない。/ 磐姫皇后の嫉妬は、彼女が臣下葛城氏の出身で、皇族の八田皇女に比べて格が低い点に一つの由来があろう。有史以来はじめて人臣の出身で皇后になるという経験を持った磐姫にとっての保身の術は、嫉妬しかなかったのかもしれない。天皇への深い愛情に根づいているだけに、それはどんなに強烈であっても最も安心できる戦術だったのではないか。『日本書紀』の記述は、この皇后が筒城の宮でひとり没するや、ただちに八田皇女を皇后に立てたという残酷な筋になっている。けれども、その身に仮託された名作が『万葉集』巻二「相聞」の冒頭に飾られることによって、磐姫皇后の魂は万代ののちまでも安らかに鎮まることになった。》

 磐姫は、仁徳天皇の現皇后です。八田皇女は仁徳天皇の異母妹で、当時は母親が異なれば結婚できたので、皇室の血統からすれば誠に由緒正しい相手ということになります。従って磐姫は、皇后とは言えども勝てない戦を戦ったということになります。記紀には磐姫の尋常ならざる嫉妬の様子が語られているとのこと、実に人間味のある、初々しささえ感じられるエピソードではないでしょうか。このエピソードは持統朝時代にも、「磐姫」と言えば「八田皇女」として、語り継がれていたと言います。
 伊藤先生の解説によると、仁徳天皇は巻第一の冒頭歌の作者とされている雄略天皇より五代前・第十六代の天皇、5世紀前半の天皇、その皇后である磐姫のお歌とされるこの四首は、当時の歌ではない、5世紀前半にはまだこのように整った歌は、作られていない。むしろ巻第二の冒頭に、仁徳天皇に因んだお歌、それも相聞のお歌を置きたいと、磐姫のお歌として、この四首が選ばれたものと考えられると言われます。相聞歌の冒頭は、女性のお歌がふさわしい、そこで仁徳天皇の皇后のお歌として、この四首を入れたということ、また八五番の歌は、山上憶良の編纂の『類聚歌林』に収められている歌で、人麻呂の歌の可能性が高いとおっしゃっておられます。またこの四首は、一人の作者の歌ではなく、『万葉集』編纂に当たって編集されたものであろうともおっしゃっておられます。わが国最古の編集者の面目躍如です。
 なおもう一方の当事者である八田皇女のお歌は、巻第四・相聞の冒頭に置かれています。

四八四
 一日こそ、人も待ちよき 長き日を かく待たゆれば 有りかつましじ
 ひとひこそ ひともまちよき ながきけを かくまたゆれば ありかつましじ
 〈一日ぐらいなら人を待つのもたやすいことでしょう。しかし日を重ねに重ねてこんなにも待たされたのでは、とても生きてはいられない気持です。〉

                以下次号

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