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漢点字の散歩(45)
                    
岡田 健嗣

        「常体表記」と「詩体表記」、再考


 前号・前々号に引き続き今回も、漢点字版が完成しました『萬葉集釋注』第四巻(伊藤博著、集英社文庫)(万葉集巻第七・巻第八収録)から、「非略体表記」と「略体表記」の、柿本人麻呂の歌について触れさせていただこうと思います。
 と申しますのも、「万葉集」に関して私の持っておりました知識あるいは先入見が、この巻の人麻呂歌によって御破算になってしまったからに他なりません。驚きの連続でした。
 前号ではその驚きの覚めやらぬままに脱稿したために、その認識も論旨も混乱し、足下がおぼつかない状態になってしまいました。その辺りを少し整理してみたいと思います。
 「万葉集」の表記法をどのように考えていたかという、私の当初の認識を申しますと、「万葉集」は「万葉仮名」と呼ばれる原書の仮名文字で表記されていて、現在使用されている仮名文字は、この「万葉仮名」を源としている、というものでした。そして「万葉仮名」は、中国に発した漢字を取り入れて、その字音を日本語の音に当てて使用したもので、「安(あ)、以(い)、宇(う)、衣(え)、於(お)」(広辞苑より)のように、現在の仮名文字の最初期に位置づけられる文字であるというものでした。勿論このような認識が、間違いだと言うのではありません。「万葉仮名」と呼ばれる、漢字を仮名文字として用いる表記法は、確かに存在しましたし、その多くは、字音を日本語の音に当てることで仮名文字として機能するように使用されておりますので、この認識は大いに事宜に叶ったものと言えます。ところが私が初めて『萬葉集釋注』の漢点字版に触れてみますと、この万葉仮名は、現在の仮名文字に置き換えられるようなものではないことが、即座に分かったのでした。勿論このことは、「万葉集」に少しでも触れた経験のある方には、常識であるに違いありません。なぜならば、私自身が万葉集に触れた途端に、右のような知識・概念は通用しないことを、まず知ったからに他なりません。「万葉集」は漢字音を日本語の音に当てて日本語を表記する文字として使用された歌集とばかりは言えない、そうではなく、日本語を表記する文字がないころ、如何に日本語を表記しようとしたかを、跡づけた歌集と位置づけられるということを、誠に当然のことを、目から鱗が落ちるような気持ちとともに知ったのでした。
 そこで今回も、読者諸兄姉のお許しをいただいて、人麻呂歌の「非略体表記」と「略体表記」の歌を、もう一度引用させていただきながら、考えを進めてみたいと思います。
 今回は、前・前々回掲げました「非略体表記」の歌四首、「略体表記」の歌四首全てを、音仮名・訓仮名・訓読・読み下しに分けてみたいと思います。

 注 (音)音仮名、(訓)訓仮名、(訓読)漢字の訓読、(読み下し)漢文読み下し体


【非略体表記の人麻呂歌】
一〇九五
  三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念  鴨
   みもろつく 三輪山見れば こもりくの 泊瀬  の檜原 思ほゆるかも
   みもろつく みわやまみれば こもりくの は  つせのひはら おもほゆるかも

  三諸就(訓読) 三輪山(訓読)見(訓読)者   (訓) 隠口(訓読)乃(訓) 始(音)瀬之   (訓)檜原(訓読) 所念(読み下し)鴨(訓)

一〇九六
  昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香  具山
   いにしへの ことは知らぬを 我れ見ても 久  しくなりぬ 天の香具山
   いにしへの ことはしらぬを われみても ひ  さしくなりぬ あめのかぐやま

  昔者(訓読)之(訓) 事波(訓)不知乎(読み  下し) 我見(訓読)而(読み下し)毛(音)   久成(訓読)奴(音) 天之香具山(訓読)

一〇九七
  吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不来益   山之名尓有之
   我が背子を こち巨勢山と 人は言へど 君も  来まさず 山の名にあらし
  わがせこを こちこせやまと ひとはいへど き  みもきまさず やまのなにあらし

  吾勢子(訓読)乎(音) 乞許世(音)山(訓   読)登(音) 人者(訓読)雖云(読み下し)   君(訓読)毛(音)不来益(読み下し) 山(訓  読)之(訓)名(訓) 尓(音) 有(訓読)之(音)

一〇九八
  木道尓社 妹山在云 玉櫛上 二上山母 妹許曽  有来
   紀伊道にこそ 妹山ありといへ 玉櫛笥 二上  山も 妹こそありけれ
  きぢにこそ いもやまありといへ たまくしげ   ふたかみやまも いもこそありけれ

  木道(訓・訓読)尓(音)社(訓)妹山在云(訓  読)玉櫛(訓読)上(訓)二上山(訓読)母(音)
  妹(訓読)許曽(音)有(訓読)来(訓)


【略体表記の人麻呂歌】
一二四七
  大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
  大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らく  しよしも

  大穴道(おほなむち) 少御神(すくなみかみ   の) 作(つくらしし) 妹勢能山(いもせのや  まを) 見吉(みらくしよしも)

一二四八
  吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与
  我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きたら  ば 我れに告げこそ

   吾妹子(わぎもこと) 見偲(みつつしのは   む) 奥藻(おきつもの) 花開在(はなさきた  らば) 我告与(われにつげこそ)

一二四九
  君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
   君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし  袖 濡れにけるかも

   君為(きみがため) 浮沼池(うきぬのいけ   の) 菱採(ひしつむと) 我染袖(わがそめし  そで) 沾在哉(ぬれにけるかも)

  妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
  妹がため 菅の実摘みに 行きし我れ 山道に惑  ひ この日暮しつ

   妹為(いもがため) 菅實採(すがのみつみ
  に) 行吾(ゆきしわれ) 山路惑(やまぢにま  とひ) 此日暮(このひくらしつ)

 以上、文字の使用を「音仮名」「訓仮名」「訓読」「読み下し」に分けてみましたが、「訓読」と「読み下し」とを、あまり分明に分けることができませんでした。このような分け方がこの歌の文字遣いに叶ったものであるかも、極めておぼつかないところではありますが、しかしこのように「非略体表記」の歌と「略体表記」の歌を並べてみますと、人麻呂が何を目指していたかが、朧気に分かるように思えて参ります。「略体表記」の歌は「非略体表記」の歌に比して、大変すっきりした感を与えます。これら四首の歌は、返り点を必要としないままに読み下すことのできる漢文のような、中国の臭いのしない漢詩のような、現在の文字で助詞や送りがなを付けてみれば、そのまま現代文としても通用するような、そういう構造を持っているように見えます。
 しかし「万葉集」は、「記・紀」と並んでわが国最古の文献です。これ以前には文章と言えるものはありませんでした。その意味からすると、「万葉集」の文章も、わが国の言語を表記するものとして、その文字遣いは極めて原初的であるとして、当然表された文章も原初的であろうという、誠に勝手な先入見に依拠した理解に基づいて読み進めますと、誤った方向へと進んで行きかねないように思われます。むしろここではっきりさせて置かなければいけないことは、「記・紀」にしろ「万葉集」にしろ、文字表記が原初的であることから文章も原初的、言い換えれば未熟なものであろうという理解に陥らないことが肝要だということではないか、恐らく当時のわが国の人々は、中国の文献をわが国の言語で、わが国の文字で表記されたものとして読みこなそうとして、またその成果を、わが国の言語で表す文章に活かそうとしたのが、この「万葉集」であり「記・紀」であるということに帰着するように思われます。その意味で、高度な文章能力が養われて、なお実践と実験が試みられているのが、これらの文献と言えるのではないか、そう思われてなりません。
 「万葉集」で用いられている文字を、つい先頃まで私は、漢字音を一字一音として、わが国の言語の音に当てて使用したものと理解してきました。ところが右の「非略体表記」の歌をご覧いただいてお分かりのように、そのような文字遣いは、極めて限られています。多くは訓読、その次に訓仮名、それで足りないところを埋めるように、音仮名が用いられているように見えます。
 もう一度見てみましょう。

 一〇九五 「三諸就(みもろつく)」、地名であって、「三(み)諸(もろ)」も訓読、「就(つく)」も訓読。「三輪山(みわやま)」、地名、各文字訓読。「見者(みれば)」、訓読と訓仮名。「隠口乃(こもりくの)」、地名、訓読と音仮名。「始瀬之檜原(はつせのひのはら)」、地名、訓仮名・訓読。「所念鴨(おもほゆるかも)」、読み下し訓読と訓仮名。
 「三諸(みもろ)」、「三輪山(みわやま)」、「隠口(こもりく)」、「始瀬之檜原(はつせのひのはら)」は全て地名です。この地名には、「隠口」の「口」が音仮名で、それ以外は訓仮名が当てられています。多少の文字遣いの異動はあっても、このまま地名の固有名詞として使用されることになったはずです。
 「見者(みれば)」と「所念鴨(おもほゆるかも)」は、漢文の読み下しと訓仮名を交えた表記となっているようです。この歌では、一部の例外の他は、訓読と訓仮名によって表されていると言えるようです。

 一〇九六 「昔者之(いにしへの)」、訓読と訓仮名。「事波不知乎(ことはしらぬを)」、「事」は訓読、「波」は音仮名、「不知」は読み下し、「乎」は音仮名。「我見而毛(われみても)」、「我見」は訓読、「而」は読み下し、「毛」は音仮名。「久成奴(ひさしくなりぬ)」、「久成」は訓読、「奴」は音仮名。「天之香具山(あまのかぐやま)」、「天之」は訓読、「香具山」は音仮名と訓読。
 この歌では地名は「天之香具山」一つです。大和三山の一つである天に通じる聖山である香具山を讃えた歌です。ここでも主要な文字遣いは訓読で、音仮名は助詞に限られています。

 一〇九七 「吾勢子乎(わがせこを)」、「吾勢子」は、「勢」が音仮名ではありますが、既に慣用的な表記となっているようで、つづく「乎」は音仮名。「乞許世山登(こちこせやまと)」、「乞」は訓読、来て欲しい、会いたいの意らしい、「許世山」は音仮名と訓読、「香具山」と同様地名を表して、「登」は音仮名。「人者雖云(ひとはいへど)」、「人」は訓読「者」は音仮名、「雖云」は読み下し。「君毛不来益(きみもきまさず)」、「君」は訓読、「毛」は音仮名、「来不益」は読み下しのようですが、「来」と「益」は訓読と言ってよいかもしれません。「山之名尓有之(やまのなにあらし)」、「山之名」は訓読、「尓」は音仮名、「有」は訓読、「之」は音仮名。
 この歌でも、「吾勢子」、「許世山」には音仮名も使用されていますが、慣用句、あるいは地名ではこのようなことが多く行われているようで、その他の音仮名は、助詞・助動詞に限られているようです。

 一〇九八 「木道尓社(きぢにこそ)」、「木道」は「紀伊路」、訓仮名と訓読と見てよいかもしれません。「尓」は音仮名、「社」は訓仮名でしょうか?「妹山在云(いもやまありといへ)」、この句は訓読。「玉櫛上(たまくしげ)」、「玉櫛」は訓読、「上」は訓仮名。「二上山母(ふたがみやまも)」、「二上山」は訓読、「母」は音仮名。「妹許曽有来(いもこそありけれ)」、「妹」は訓読、「許曽」は音仮名、「有」は訓読、「来」は訓仮名。
 この歌も、前三首と同様、助詞以外には音仮名は用いられておりません。大和人が紀伊路の名所「妹山」を望んで、大和にも同じ名の山があると言い、それにかけて大和に残してきた妻、あるいは恋人を思うという歌のようです。

 人麻呂歌の「非略体表記」の歌四首を見て参りましたが、「略体表記」の歌では助詞・助動詞が省略されておりますので、「非略体表記」の歌でさえ音仮名の使用は極めて限定的ですので、「略体表記」の歌では、万葉歌でありながら、万葉仮名が用いられないという、私の抱いていた常識が、そっくり転倒してしまうような、驚くべき結論が見えて参りました。
 勿論人麻呂歌以外では、万葉仮名のみで表された歌も数多くありそうですし、漢詩のような、文字数の少ない歌もあるようです。
 万葉が編まれるまでに当時の人々が経験した文章とは、恐らく漢籍だけだったに違いありません。その漢文、あるいは漢詩を読みこなすこと、あるいはそれらを鑑賞することから、わが国の言葉で表現された文章を紡ぎ出すまでに至る時間的、空間的な距離は、想像を絶するものがあります。恐らく数百年という時日を積み重ねて、その最も最後の、最も尖端に位置したのが、柿本人麻呂という人物で、持統朝とそれに続く天武皇統の宮廷の言語文化の開花が見られたのは、人麻呂の功績によるものに違いありません。
 その人麻呂が仕上げをするまでの、わが国の人々の、文字あるいは文章に向かう膨大な時間は、残念ながら記録としては残っていません。恐らく木簡などにその跡を見ることはできるのでしょうが、私どもには推測、あるいは想像することだけが許されています。そこで少しだけ貧弱な想像を巡らせてみたいと思います。
 現代に繋がる日本語が、どのようにしてわが国に根付いたかは、謎に包まれています。弥生時代(前十世紀〜)は、大陸から多くの人々がこの列島に渡って来たと言われます。にもかかわらず言語は中国語に置き換わることなく現在に繋がっています。中国から渡来した人々は、恐らく当初から、中国で普及し始めていた文献を携えていたと思われます。弥生人たちの間で中国語が普及していたとすれば、文字文化はそのまま定着したはずです。しかしなぜかそうはなりませんでした。これも想像に過ぎませんが、何らかのタイムラグがあって、弥生人たちが日本語を使うようになってかなりの時を経て、中国から文献が渡って来た、そう考えるのではどうでしょうか。
 日本語使用者である私たちのご先祖様は、どのようにこの文献に向き合ったか。まず中国の政府、中央政府とは限らず、地方の政府からかもしれませんが、その通知書に向き合わされたのではないでしょうか。どうしても読まない訳には行かないこのような文書を、どのようにして読んだか、これはさほど想像に難くありません。幕末に欧米と交わされたいわゆる不平等条約、これに似たことが、弥生人と大陸の政府の間にもあったはずです。幕末の事態は、明らかに当方の認識不足、知識も理解力も及ばない中で結ばれた条約、国家の概念さえわが国と欧米との間に共有しないままに、むしろそれだからこそ結ばれた条約が、当時の通商条約だったと言われています。それが不平等であることに気づいたのは、遙かに後のことだと言われます。明治に入った後、政府も民間も、何とかして欧米の国力と文化に近づきたいと、努力を重ねて現在に至りました。
 同様のことが、弥生時代にもあったとしても不思議ではありません。当時の先進地域は中国でしたし、最新の技術と文化が文字でした。文字は、誰かの手解きを受けなければ、身につけることができません。しかもその文字を使用する言語とともに学ぶことになります。弥生時代の中期か後期かにわが国にもたらされた文字文化は、まずは当時の中国語とともに渡って来て、わが国の人々は、渡来した中国人から中国語とともに手解きを受けたはずです。私たちが中学に入って英語を勉強し始めたころ、どのように習ったかを思い返しますと、この英語の単語は、この英語の文章は、日本語に直すとこういう意味になる、こういう文章になると習ったと思います。これは当然のことで、外国語を学ぶに当たっては、まず生得的に身につけている言語があって、学ぶ外国語が、身につけている言葉に直せば何を言っているのかという順序で学ばなけれ ば、外国語を学ぶことができないからに他なりません。弥生の人々も同様にして中国語と中国の文字文化を取り入れたと考えてよいでしょう。ただ私たちが英語を習うのとは違って、文字は中国語を表すものしかなかったということです。そこで当時の人々は、漢字を訓読するという、思いも寄らない方法を編み出しました。これは漢字が表意文字であることに由来して、文字の意味を日本語に直すと何を指すかという方法で叶ったものと思われますし、漢字を訓読するということは、漢文も訓読し得るということに繋がり、それが日本語を漢字で表記する可能性に繋がったと言えるのでしょう。
 そのようにして数百年を経て、人麻呂の時代になります。漢文を日本語に直すこと、数百年をかけて、漢字の訓読(日本語の読み)が完成しました。こうして漢字の読みには漢字音の音読と、日本語の読みの訓読が成立しました。人麻呂は、プライベートにはこれで十分と考えていたのではないでしょうか。「詩体表記(略体表記)」の歌は、このような表記で表されておりますし、日本語の表記法としても、見事な表記法と言えます。
 しかし日本語には、助詞・助動詞・活用語尾というものがあります。これを表すには、漢字の意味はむしろ邪魔になります。しかし当時は文字と言えば漢字しかありません。そこで恐らく音仮名、次いで訓仮名を考案したというのが、一連の時系列ではないか、こう想像してみました。
 このようにして「記・紀」と「万葉集」の編纂が待たれる環境が整いました。『古事記』は稗田阿礼の収集した資料、記憶に収められていた資料を、太安麻呂が編集したと言われますし、『萬葉集』は、大伴家持を中心とする人々が資料を収集して編集したものと言われます。その資料の中に「人麻呂歌集」と呼ばれる三つの原資料があって、万葉集の各巻に収められて私たちが鑑賞できるようになったのでした。
 このようにして成立した『万葉集』が、漢点字を習得することで、視覚障害者にも鑑賞できる環境が、現在整いつつあるという現実を、多くの皆様にご存じいただいて、多くの視覚障害者に、是非鑑賞していただきたいと願って止みません。

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