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漢点字の散歩(54)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(5)

   み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮
   みよしのの よしののみやは やまからし たふとくあらし かはからし さやけくあらし あめつちと ながくひさしく よろづよに かはらずあらむ いでましのみや

 『万葉集』の巻3・315番の長歌です。題詞には、

   暮春(ぼしゅん)の月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿(おほとものまへつきみ)、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首〔并せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌〕

とあって、即位したばかりの若き聖武天皇が吉野に行幸した時に、お召しに応じて大伴旅人が作った歌で、旅人の歌としては唯一の、また公式には初めて作った長歌です。
 この歌の後に反歌として、316番の短歌が続きます。

   昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも
   むかしみし きさのをがはを いまみれば いよよさやけく なりにけるかも

 聖武天皇が即位した直後、祖父である天武天皇が、天智天皇崩御後に、大津の宮を離れて活動の拠点としたのが、この吉野でした。聖武天皇にとってこの吉野の地はその意味で、浅からぬ因縁のある地と言えます。因縁にもう一言加えれば、祖母で天武天皇の妻であった持統天皇は、在位中、この吉野への行幸を繰り返しておられました。夫である天武天皇がこの地で軍を整え、壬申の乱の舞台となった関ヶ原に向けて旗揚げし、進軍の一歩を踏み出したのが、この吉野だったからに他なりません。勿論このことは、聖武天皇もよくご存じであったはずですし、今回のこの行幸も、祖母持統天皇に倣ったものに他なりません。右の大伴旅人の長反歌は、このことを踏まえて歌われたものです。
 このように書き始めましたが、ここでは私が、これらの御歌の解釈をしようというのではありません。読者諸兄姉を裏切ることになることは誠に心痛の極みではございますが、『万葉集』の鑑賞は一先ず置くことにさせていただきます。ここに避けては通れないものを感じますので、切にご容赦のほどお願い申し上げます。
 私ども視覚障害者が読書をするには、毎度申し上げますように、〈点字〉の文書を指先で触読するか、あるいは文書を、音訳者の皆様に音読していただいたものを耳から聴いて理解し鑑賞するかの方法を採ります。実はそこに、これまで1度も取り上げられたことのない問題があります。なぜにこれまで取り上げられたことがないか、実はその〝なぜ〟こそが、最も大きな問題だと私には思われますが、その前に、これまで問われたことのない問題というものを、ここで問うてみたいと思います。
 他でもありません。視覚障害者には指に触れて読む文字として〈点字〉がありますが、この〈点字〉が世に現れたのは今から約200年前、1825年のフランスに於いてでした。それまでの視覚障害者は、〈文字〉に触れることはできませんでした。〈文字〉は、世界何処でも視覚に訴えるものであって、触覚や聴覚に訴えるものではありません。従って視覚障害者には、〈文字〉を読み書きする機会は、それまで訪れませんでした。そこに触覚に訴える〈文字〉である〈点字〉が、ルイ・ブライユによって創案されました。言い換えるならばこの〈点字〉の出現によって、それまで〈文字〉というものを知り得なかった視覚障害者に、初めて〈文字〉というものがどのようなものか、あるいは〈文字〉を読むということがどういうことかを、知らしめたのでした。
 もう1つ、それから百年あまり経た20世紀後半になって、あらゆる意味でそれまでの世界には存在しなかった技術や物が、次々と登場しました。その中でも人々にとって最も身近な変化が、交通と通信の分野でした。この変化は21世紀に入った現在も、ますます加速している感を禁じ得ません。さらにこの傾向がどのように進んで行くのか、あるいは今後何が起きるのか、誠に予断を許さないものがあります。今後が楽しみでもありますし、また不安を掻き立てもします。
 このような新たな技術と物、交通と通信の発達は、この社会に生きている視覚障害者にも及ばずにはおりませんでした。勿論旅行や音楽鑑賞や買い物などレジャーの楽しみも、ガイドヘルパーの制度の充実や交通機関の便宜、また情報の質の向上などによって、大幅に充実して来ましたし、それを享受し充足することで、視覚障害者の生活実感も、一般に近いものと感じられるようになって来たと言ってよいと思われます。そういう中わが国では、1960年代ころから、視覚障害者の読書の環境に、大きな変化が見られるようになって参りました。それが〈音訳〉の登場です。〈音訳〉とはどういうものか、もともとは視覚障害者向けのサービスではなく、一般にも行われていた「朗読」にそのルーツを求めることができるのではないかと思われます。もっと遡れば、芸能者による語りや、興業者による話芸や弁術にもそのルーツを求めることができるかもしれません。何れにせよ〈音訳〉は、活字で表されている書物を人が読み上げて、聴取者にその内容を伝えようとするものを言うと考えてよいと思われます。そうであれば、その方法は「朗読」とほぼ等しいことになりそうですし、その技術は「朗読」から学ぶところが大であることは間違いのないところです。〈音訳〉の直接のルーツは、やはり「朗読」と考えてよいでしょう。伝統的に欧米では、作者自身が行う「朗読」を初めとして、色々な形式の朗読会が行われていた、あるいは現在も行われているようで、この方式ですと、1人の朗読者が多数の聴取者に、その書物の内容を伝えることができるということが、自ずと認知されていたということも、この方法が採用されて行ったことに繋がったに違いありません。
 その「朗読」の特徴である一が多にということ、また書物の文字を1人の人が読み上げるということと、20世紀の通信技術の発展、中でも録音技術の発展と媒体の普及が結びついて、まず欧米で、その後わが国で、〈音訳〉という形を取って、視覚障害者の読書の環境を大きく変化させ、拡大させ、現在に至っています。現在では音訳者によって読み上げられた音声は、デジタル録音されて、デジタルの媒体(CD)に収められるか、あるいはホームページからファイルの形でダウンロードされて、特別のプレイヤーで音声に変えられて、視覚障害者の耳に達しております。
 当初は〈音訳〉という用語はなかったこともあって、このようなサービスを「朗読サービス」と呼んでおりましたし、現在でもそのように呼んでいる所もあります。しかし、普通言うところの「朗読」とはその目的が異なっていること、「朗読」のように本を音読することそのものを鑑賞することを目的とするものではないことから、「朗読」ではない用語の必要性に迫られて来たことや、書物の内容を伝えるのに必要な情報、例えば文字の説明やページ数などを、音読者の判断のもとに付け加えたり、例えば案内文などの「自…(時)、至…(時)、於…(所)」のような表記を、案内文であることを考慮した上で、「トキ…ジカラ…マデ、カイジョウ…」というような具合に読み替えたりすることから、新たに〈音訳〉という用語を用いるようになりました。〈音訳〉という用語には、このように書物の内容を伝えるための工夫を含むという意味合いが込められておりますが、顧みれば基本には、技術的には「朗読」から得ている要素がふんだんにありますし、「朗読」についての豊かな知識が求められていることには違いありません。
 以上が現在行われております視覚障害者向けの読書に関するサービスです。これで視覚障害者の読書への準備は万全と言うことができるなら誠に幸福なのですが、ここに今まで問われたことのない問題が存在することを、残念ながら申し上げなければなりません。いや実際は、決して問われたことがなかった訳ではありません。問われたことがなかったのではなく、問う人があっても、それに耳を貸す人が、とりわけ盲学校(現・障害者支援学校)や点字図書館の中におられなかったというに過ぎません。そういう人の中に、このような基本的な問いに耳を傾け、真剣に考えて下さる方がおられたならば、もう少し増しな情況となっていたであろうと、申し上げるほかありません。と申しますのは、何と申してもわが国の言語の文字の表記は「漢字仮名交じり」であって、2つの系統の「カナ文字」と、また表記の中心となる「漢字」がなければ、まずは十全に文章を表すことはできないであろうことは、一般論としては誰も否を称えることのできないことではないと考えます。
 視覚障害者が使用している文字である従来の〈点字〉は、カナ文字(ひらがな・カタカナの区別のない文字)だけしかない文字です。この〈点字〉は、明治初期にアルファベットを表す文字として輸入された〈点字〉(ルイ・ブライユ創案)を基本に、当時開発されたアルファベットで日本語を表すローマ字の体系を応用して考案されました。現在もこの〈日本語点字〉がほぼそのまま使用されております。このような中、1つの問いが提出されました。
 元大阪府立盲学校の教諭であった故・川上泰一先生が、1969年に、漢字体系の〈点字〉である〈漢点字〉を、世に問われました。日本語の表記に「漢字」がないということはないはずだ、とお考えになって、「漢字」1文字1文字を〈点字〉の体系に置き換えたものでした。そして現在私どもが恩恵を受けている〈漢点字〉の体系が完成したのですが、先にも申し上げましたように、盲学校や点字図書館では、この〈漢点字〉は、全く取り上げられることはありませんでした。盲学校や点字図書館では、〈漢点字〉の使用者は、「漢点字愛好者」という扱いで、「点字で漢字を表す」という考え方は、全く顧みられることはありませんでした。
 川上先生は〈漢点字〉を発表された後、全国の視覚障害者を対象に、通信教育を行い、〈漢点字〉の使用者を増やす活動を進められました。また〈漢点字〉で表された「漢点字書」を製作して、〈漢点字〉の使用でき得る環境の整備に力を注がれました。しかし、1994(平成6)年に、惜しまれる中、ご逝去されました。哀悼に堪えません。
 現状としては〈漢点字〉の普及は遅々として進みませんが、しかし川上先生が日本語の表記法である「漢字仮名交じり」を触読文字である〈点字〉にも実現しなければいけないとおっしゃって、しかもそれを実行してこられたこと、にも関わらず盲学校や点字図書館からは、それに対して正面からの応答は現在もないこと、このような基本的な問題に正面から取り組もうという人は、川上先生以外に、〈漢点字〉が登場した時も現在も、盲学校や点字図書館にはおられないということは、特記してよいと考えます。
 私は1996(平成8)年に本会の活動を始めました。ボランティア活動で漢点字の普及に繋がる活動として、漢点字書の製作、漢点字の勉強会の開催、テキストの作成などを行って参りました。しかしまだ〈漢点字〉がどのように有効か、これも誰も解いてはおりません。よく〈漢点字〉に否定的な立場を取る方から言われることに、「(漢点字は)点々で表しているのだから『限界』があるでしょう」というものがあります。漢字はその基本が象形文字であるから、象形されない点字で表そうというのは無理がある、というものです。如何にも的を射たご指摘のように思われますが、このご指摘は、残念ながら的を外していると言わざるを得ません、と申しても、私にも的中した答えができる訳ではありませんが、現在言えることは、200年前にルイ・ブライユが点字を創案したときに、その反対者、最大の抵抗勢力であったのは、視覚障害者の教育に当たっていた晴眼の先生方てあったということ、当時の視覚障害者を対照とした欧米の教育界の先生方は、文字(アルファベット)は、「その文字の形をしていなければ、それは文字ではない」と言って、〈点字〉を否定し排斥しようとしておられました。しかし視覚障害者であるブライユ等は、先生方が作った、アルファベットの線を浮き出させたものを並べて触知するというものは、文字を判別するのがやっとで「読む」ことはできないと訴えて、独力で〈点字〉を創案したのでした。その〈点字〉を使って文章を表してみると、大変読みやすく、文字をただ並べたものというのではなく、言葉として、文章として読めることが分かったというのです。まるで現在〈漢点字〉を巡る環境に酷似しているとさえ言えます。もし晴眼の先生方の言われるように、〈文字〉は点と線で表されていて、視覚に訴えるものでなければ〈文字〉とは言えないとすると、視覚障害者は、今までも、そして今後も、ずっと文字の世界に触れることができないまま捨て置かれることになりはしないか、と申し上げるしかございません。
 従ってなおさら、〈漢点字〉の持つポテンシャルがどういうものか、このことも残念ながら誰もテストすることはありませんでした。そこで私は、私自身の読みの能力のスキルアップを兼ねて、放送大学を受講して、〈漢点字〉がどこまで有効かを見極めてみようと考えました。結論を申せば、私の予想を遙かに越えて、いわゆる(漢点字の)「限界」は、遙か彼方遠いところにあるようで、私には到底行き着けそうにないところだということが分かったのでした。
 私は当初、放送大学のテキストを会員の皆様にお願いして、漢点字で読めるものを作っていただいて勉強を始めました。履修科目は選択科目で、全てわが国の古典に関するものを選びました。数年後には大学のご厚意で、テキストのテキストファイルをいただくことができるようになって、講義の始めからテキストを読むことができて、大変助かりました。またこのことは、会員の皆様の負担を大いに軽減するもので、その余力を他の資料の製作に当てて下さるなど、誠に大きなご支援をいただくことができました。
 〈漢点字〉の「限界」、それは必ずあるでしょう。それがどういうものか、どのようにして出現して来るか、全く余談を許しません。しかしその時は、同時に一般の〈文字〉についても考えなければならない問題が、一緒に現れるでしょう。これもどんなものか、全く余談を許しません。ある意味でそれを待ち受ける気持ちでもあります。しかしそれは、まだまだずっと後のことに違いありません。
 放送大学の受講は、その目的とは別に、もう1つ私にとって誠に新鮮な経験をもたらしました。この経験は、今後の音訳の技術として、誠に僭越ながら、音訳者の皆様や図書館の皆様にお伝えするのに貴重な経験でもありました。またこのことは、本来的には音訳者の常識として、充分心得られていなければならないものであったはずのことなのですが、しかし、専門的には極めて常識的であっていながら、なお一般的にはほとんど知られることがなかったことだったのかもしれません。それゆえに音訳の関係者の皆様にとっては、注意の外にあったことだったと言えるのでしょう。
 放送大学は、専用の電波を使用して、全国に同じ内容の講義を放送の形で発信している大学です。私はFMラジオの講座から講義を選択しましたが、他にCS放送を使ったテレビの講座もあります。私は古典を中心に履修しました。その講義の中で、テキストの一部を読み上げて下さるところがありました。私の履修した講座では、その朗読を、元NHKのアナウンサーであられた加賀美幸子さんが担当して下さっておられました。加賀美さんは、知らない人のいない著名なアナウンサーです。その意味で、古典の朗読には、申し分のないスペシャリストと言える方です。その朗読を拝聴していて、正直申して、驚きを禁じ得ませんでした。
 その講座は『万葉集』について解説するものでした。これまでにも私は、音訳書でこのような古典の解説書を聴読して参りましたが、本当のことを申せば、古典本文に関しては、大変理解し難いものと感じておりました。分かり難いのは、古典が難しいので、その難しいものを理解するだけの能力が当方に乏しいからだ、そんな風に考えて、自らの能力の不足は如何し難いものと、不本意ながら半ば諦めていたのでした。
 ところがこの講義の加賀美さんの朗読は、何とほぼ完璧にと申しましょうか、水の流れが染みこむように、抵抗なく私の耳に滑り込んで来たのでした。勿論テキストはありました。しかしテキストを見ずとも、耳にスーッと染みこむように、心地よく収まって来たのでした。
 私は講義をカセットテープに録音しておりましたので、何回か聴き返しました。そこで分かったことは、リズムです。長歌の読みのリズムです。ここに冒頭に掲げた大伴旅人の長歌を再録してみます。読者諸兄姉におかれましては、是非声に出して読み上げて見ていただきたいと存じます。

   み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮

 『万葉集』の長歌のリズムは、ほぼ一定しているようです。講義中の朗読のリズムは、一定のリズムで進められました。そしてこのリズムに従って、歌に詠み込まれている内容も整えられているように読まれます。どのようなリズムで読まれるか、ご覧下さい。

 〝み吉野の・吉野の宮は〟〝山からし・貴くあらし〟〝水からし・さやけくあらし〟〝天地と・長く久しく〟〝万代に・改らずあらむ〟〝幸しの宮〟

と歌われます。
 これをもう少し詳しく見ますと、

 〝み吉野の・吉野の宮は〟…五拍で入り七拍で受けます。
 〝山からし・貴くあらし〟…同じく五拍で入り、七拍で受けます。
 〝水からし・さやけくあらし〟…同じリズムです。
 〝天地と・長く久しく〟…同じリズムです。
 〝万代に・改らずあらむ〟〝幸しの宮〟…同じリズム、さらに七拍が付きます。

となります。
 さらにこれを3つのグループに括りますと、

 〝み吉野の・吉野の宮は〟…と入り、〝山からし・貴くあらし〟…と受けます。
 〝水からし・さやけくあらし〟…と入り、〝天地と・長く久しく〟…と受けます。
 〝万代に・改らずあらむ〟〝幸しの宮〟…と締めます。

 白川静先生は、『初期万葉論』の中で、「問答形式」ということをおっしゃっておられます。〝文字表現が成立するまでは、言語表現は、音声言語による表現に限られていた訳だが、音声言語だけでどのように表現したかと言えば、歌謡の形で言語を留めようとしたのであろう。また人々が歌謡を唱えようとするとき、他の活動と同様に集団で、またそれが二手に分かれて掛け合いで進めたのであろう。その歌謡の掛け合いの形式を「問答形式」と呼ぶ(解釈岡田)〟、とおっしゃっておられ、さらに『万葉集』の初期の歌には、その「問答形式」の表現を色濃く残した作品が多くあるともおっしゃっておられます。
 この旅人の歌は初期の『万葉集』の歌に入らないかもしれませんが、その意味では、二重の対句から成る構造の歌であると見てよいと思われます。右のようなリズムで読む限り、極めて馴染み易い歌ということができるのではないでしょうか。
 この放送大学の講座を受講するまでは、私にはこのことが全く分かりませんでした。そこでこれまで聴読してきた音訳書を再度聴き直してみますと、これも驚くべきことに、この五・七、五・七のリズムで読んで下さっている音訳者の方は、極めて少数であることが分かりました。なぜその歌が、聴読では理解し難かったかということが分かった思いがしたのでした。音訳書では、本来の長歌のリズムに従った読みができていなかったために、聴読者にとって理解が困難となってしまったということらしい……。これが放送大学受講の成果の1つであって、また長歌の音訳についての、1つの結論でもあります。
 先ほどお願い致しましたように、音声で読み上げていただきますと、リズムについての右のような予備知識がない限り、五・七、五・七のリズムではなかなか読むことができないことがお分かりいただけたことと存じます。そして多くの音訳者の方には、その予備知識がなかったご様子で、左のような読みになっておられました。

 〝み吉野の〟〝吉野の宮は・山からし〟〝貴くあらし・水からし〟〝さやけくあらし・天地と〟〝長く久しく・万代に〟〝改らずあらむ・幸しの宮〟

 音声として口から発声するだけであれば、こちらの方が誠にスムーズなのですが、この歌をどう読むかと歌の意味を問われれば、聴読者には、このような読みではどうにもなりません。歌の意味とリズムが乖離してしまって、一体これはどういうことかと、頭を抱えて悩まずにはおられなくなります。このような音訳書は、かなりの率で見出すことができます。学術書を音訳すると言っている施設の製作になる音訳書でも、長歌のリズムは、このように頭の五だけ別にして、次から七・五、七・五のリズムで読まれている例が大半だったのでした。
 この歌だけでははっきりしないとおっしゃる向きもあろうかと存じます。そこでもう一つ、『万葉集』から少し長めの長歌をご紹介しましょう。山部赤人の有名な歌です。先と同様に声に出して読み上げていただければ幸いです。

   みもろの 神なび山に 五百枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば
   みもろの かむなびやまに いほえさし しじにおひたる つがのきの いやつぎつぎに たまかづら たゆることなく ありつつも やまずかよはむ あすかの ふるきみやこは やまだかみ かはとほしろし はるのひは やましみがほし あきのよは かはしさやけし あさくもに たづはみだれ ゆふぎりに かはづはさわく みるごとに ねのみしなかゆ いにしへおもへば
      反歌
   明日香川 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに
   あすかがは かはよどさらず たつきりの おもひすぐべき こひにあらなくに

 巻3、324・325の長短歌です。
 この歌も、

 〝みもろの・神なび山に〟〝五百枝さし・繁に生ひたる〟〝栂の木の・いや継ぎ継ぎに〟〝玉葛・絶ゆることなく〟〝ありつつも・やまず通はむ〟〝明日香の・古き都は〟〝山高み・川とほしろし〟〝春の日は・山し見が欲し〟〝秋の夜は・川しさやけし〟〝朝雲に・鶴は乱れ〟〝夕霧に・かはづは騒く〟〝見るごとに・音のみし泣かゆ〟〝いにしへ思へば〟

というリズムで読まなければいけません。このような『万葉集』やその後の勅撰集の長歌は、このように五・七、五・七のリズムで読むように作られているからに他なりません。なぜにこのようなリズムで読まなければならない歌として作られたか、意識せずに、何も念頭に置かずに読めば、自動的に五、七・五、七・五のリズムになってしまう訳ですから、最初から七・五のリズムで読めるような歌として作られていれば何の問題もないはずですが、なぜかそうはなっておりません。
 私どもが現在耳にし得る最も古い歌謡は、謡曲や平家語りです。これらは室町期に入ってから成立した芸能ですが、既にそのリズムは七・五となっております。恐らく平安時代のいつ頃からか、このようなリズムが五・七のリズムに代わって出て来ていたのでしょうが、残念ながら私の手元は資料不足でよくは分かりません。しかし短歌を見ますと、既に『万葉集』の作品も、五、七・五、七・七のリズムとなっている作品が多いように思われます。これも詳密に検討される必要のあることがらですが、短歌は長歌の最後のところを繰り返す形で「反歌」として、長歌の呈示に応答するものとして置かれております。そしてこの短歌では、既に七・五のリズムが底流しているように思われるところを見れば、当時の人々は、言語のリズムに対して、現代の私どもよりはずっと優れた感受性を発揮しているように思われます。やがて和歌と言う場、長歌ではなく、五・七・五・七・七のリズムの短歌のことを言うようになって行きます。
 ただしこれはあくまで現在の現代語の発音、現代語のリズムに照らしてのことで、日本語の発音やリズムの変遷を辿って千数百年を遡るということは、事実上は不可能なことに違いありません。しかし、現代のリズムで七・五のリズムのバイアスを強く感じたからと言って、集団の掛け合いで唱われる歌謡の伝統の強く残る、文字表記の方式の、黎明期の文字表記として表された『万葉集』の長歌のリズムは、やはりそのままの形で受け入れることができなければいけないのではないでしょうか。
 以上、視覚障害者向けの書物としての音訳書の製作に当たられる音訳者の皆様、並びに図書館の担当職員の皆様、本来常識であるはずのこのようなことが、実際にはほとんど顧みられて来なかったことを鑑みて、虚心に返って製作に当たっていただけないものか、心よりお願い申し上げる次第です。
 もう一言戯れ言を加えるのをお許しいただけますなら、現在私どもが使っている言語である現代日本語には、右にも述べましたような、七・五、七・五、恐らくこれは〇拍の部分も含まれると考えるならば、八・六というリズムがバイアスとして強く働いていることを是としてみますと、これまで私が参考にして来た書物の中に、このことに触れているものはほとんどなかったということを申し上げます。そして書物を読むというときに、音訳書を聴読するのは、視覚障害者以外にはおりませんこと、つまり現状としては、文字を目で読むことを日常としている視覚障害者はいないことと同様に、また音訳書を聴読することを日常としている晴眼者の方もおられません。そんな中に於いても私は、先に申し上げた長歌の五・七のリズムと、日本語に潜む七・五のリズムのバイアスを、十全に意識して本来のリズムに従った音訳が当然とされる時が訪れますことを切に望んでおります。
 しかし思えばそのような時が訪れますと、皮肉にも、この七・五のリズムのバイアスに、気付く人がいなくなるであろうことを思わずにはおられません。専門的文学者の皆様には『万葉集』の長歌のリズムは五・七であることは常識です。しかしこの常識は下々にまでは行き渡りません。そのために視覚障害者を対象とした音訳書の製作の現場では、そのことには触れられぬまま音訳書が作られています。そこで『万葉集』の長歌の音訳のリズムには気を付けようという申し合わせができて、七・五というリズムのバイアスに抵抗しながら音訳書が製作されるようになった、そのように仮想します。
 ところがこのことが常識となりますと、その緊張の持続に陰りが出て来て、チェック機能が形骸化して参ります。何のために五・七のリズムをひたすら守るのか、段々分からなくなって参ります。
 我ながらつまらないことを考えるものだと思いはします。しかし世の中がまともに動いた試しはありません。何れにせよ視覚障害者の読書の環境は、まだまだ改善の余地があります。余地ではなく、広大な原野が眼前に広がっていると言わざるを得ません。是非関係者の皆様に置かれましては、このような基本的な知識や技術に、ご関心をお向け下さいますようお願い申し上げます。
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