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漢点字の散歩(55)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(6)

 み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮
 みよしのの よしののみやは やまからし たふとくあらし かはからし さやけくあらし あめつちと ながくひさしく よろづよに かはらずあらむ いでましのみや

 前回の冒頭に掲げた『万葉集』の巻三・三一五番、大伴旅人の作になる長歌です。旅人の歌の中では、唯一の長歌です。
 前回この歌を取り上げましたのは、残念ながら歌の理解や鑑賞のためではなく、視覚障害者がこのような歌をどう理解するか、あるいはどのように鑑賞するかについて考えるためでした。つまり理解や鑑賞の前の、まずはその作品にどのように接するかということを考えてみたかったためでした。
 いずれにせよ文芸作品の理解や鑑賞は、それを理解しようとする、あるいは鑑賞しようとする人にとって、まずは極めて個人的な経験として始まります。(勿論社会とか時代とかの要素も大きな力で制限してきますが、またそれは別のお話です。)
 私たち視覚障害者は、書物に向かうとき、視覚を介さずに行わなければならないという、極めて根源的な制限を受けます。書物は文字が並べられて言語の表現を紙の上に定着したものを言いますが、文字というものは、世界どこでも視覚という感覚器官によって享受されるものです。
 しかし言語は、文字表記の方法を獲得するまでは、人の発声器官から発声し、それを聴覚で享受して理解し認識し、思考し通信するという方法で使用されてきました。そこに文字が登場して、恐らくまずは音声言語を記録・定着・保存する方法として使用されたものと考えられます。文字によって記録され保存されたものを一つにまとめたものが、最初の書物ということになるのでしょう。そこまでなら音声言語も文字もさほどの優劣はなかったに違いありません。
 しかしその文字が、音声言語を記録し保存するという機能に留まることなく、その先に一歩を踏み出したのでした。音声言語が人の発声器官から発声されて表現されるように、文字も、人の手に握られた筆記用具から直接書き出されることになったのでした。すなわち音声言語は発声器官から発せられて聴覚で享受されるものであるのに対して、文字も、文字言語として人の手から発せられて、視覚によって享受されるものとなったのでした。書物は、この文字言語の表現を、まとめ・整理し・さらに次の文字表現へと橋渡しする機能を獲得して行ったのでした。
 以上は私が、言語と文字について、最も単純化してみたモデルとして提出してみたもので、文化的・歴史的な観点から言語並びに文字について考えることになれば、表現とか記録とか保存などという表層的な捉え方だけでは、ことを取り違える危険を冒すことになるのは自明です。しかし視覚障害者が文字を読むということを考えるに当たって、その情況を把握するために、言語と文字を、発現機関と感覚器官との関係で位置づけておくことも必要と考えてこのように捉えてみたものです。しかもこの音声言語と文字言語は、相互に交信して、それぞれに新たな表現を生み出しつつ現在に至っております。その証左は、私たちが会話に使用している音声言語の中にも、沢山の文字言語由来の表現や熟語を取り入れていることから分かることで、わが国が漢字を取り入れて、日本語を文字で表記できるようになってから約二千年の中で、音声言語と文字言語の間に、数えきないほどのフィードバックが繰り返されたに違いないことを物語っているものに違いありません。
 このようにして成立してきた文字言語の表現を、視覚障害者はどのように享受すればよいか、そこに一つの答えを提出したのが、〈点字〉の創案者である、フランス人の視覚障害者であるルイ・ブライユでした。ブライユの創案した〈点字〉は、視覚でしか読むことのできなかった文字を、「触覚」で読む、「触読」することのできるものとして世に問われて現在に至っております。この〈点字〉は、視覚障害者が、文字に触れる機会を初めて手に入れた、記念すべき文字であることは、忘れてはならないことと思います。
 もう一つ、前世紀の中頃に開発されて、現在ではデジタル技術によって使い勝手が格段に向上している録音技術によって、文字を音声化して、書物を耳で聴く方法が定着しております。言わばこの方法は、言語の最初期に行われていた、音声言語を、文字で記録し保存するというプロセスを、逆に辿っているものと理解してもよいのかもしれません。それは言うまでもなく、視覚によらない読書をどうにかして実現すべく試行してきた結果の一つということができると思います。
 そこで前回と、今拙稿の冒頭に掲げた、『万葉集』の長歌の読み方です。
 長歌の読み方について前回取り上げましたのは、本誌では二回目だと思います。
 一回目は、十年余り前になろうかと思います。前回にも申しましたが、それは放送大学を受講して、漢点字の力を確認する積もりで勉強し始めたのですが、そこで知ったのが、漢点字の力の果ての知れなさだったのですが、そればかりでなく付録までありました。その付録というのが、この長歌の読み方でした。
 冒頭の旅人の長歌を、声を出して読み上げていただけますとお分かりいただけると思いますが、その際かなりの違和感が伴うのではないかと思います。
 放送大学を受講して、『万葉集』の朗読を聴いておりますと、それまで感じたことのないほどに、身体に浸み入るように、抵抗なく聴くことができたのでした。なぜ抵抗なく聴くことができたのか、逆に言えば、それまでは非常に強い抵抗を感じていたということになりますが、それを解明しなければ何も分からないままになりますので、少しづつ解いて行くことにしました。
 そこで講義を録音して、何度か聞き返してみましたところ、それまで音訳書で聴いていた長歌のリズムと、リズムが異なっているのに気づかされたのでした。長歌は、ご覧のように、五・七、五・七、…五・七、七という形に音が並んだ形式に作られております。従って、本来なら、五・七、五・七のリズムで読み上げなければなりません。意味的にも、五で問うて七で返すという往復の構造が通されておりますし、五・七の音が一つの句をなして、次の五・七の句と組み合わせて対句をなすという構造をも形成しております。このような形式とその意味からも言って、長歌は、五・七、五・七のリズムで読み上げられなければなりません。そのことを私は、放送大学を受講して、初めて知ったのでした。
 そこで次に、この長歌を音読した時に感じる違和感は、どこから来るのだろうかと考えました。それと共に、これまでの音訳書はどのように読み上げていたのかと思い、図書館の所蔵書である音訳書を借り出して、聴き直してみました。
 その結果、かなりの数、私の感触では六・七割の割合で、五・七のリズムでは読み上げられておりませんでした。どのように読み上げておられるかと言えば、それは五、七・五、七・五というリズムだったのでした。長歌を声に出して読み上げた時の違和感とは、恐らくこのことだったのだと考えるようになりました。すなわち現代日本語では、文章や詩句の意味も含めて、七・五、七・五のリズムによって包括されていて、そのリズムを逸脱することは、大変困難なことだということ、同様に文章を作る時も、七・五、七・五のリズムに乗るようなものであれば、非常に抵抗の少ない文章を作ることができる、ということだと理解することになったのでした。
 その後も図書館から借り出した音訳書を観察しておりますが、新たに製作される音訳書も含めて、長歌のリズムに関しては、そのリズムの取り方には変化はないように見えます。私は、どうやら音訳書の製作者、図書館の関係者と直接音訳書を製作している音訳者の皆さんの大半は、このことに気付いていないらしいと考えるようになって参りました。
 私は以上のことを、機会ある度にお話ししておりますが、図書館と音訳の関係者には、このことに耳を傾けて下さる方が極めて少ないことを、大変残念に思わざるを得ません。
 視覚障害者の読書は、点訳、取り分け漢点字書の製作と、音訳書の製作によって支えられております。その漢点字訳と音訳も、今後は質が問われるようになるはずです。質が問われるとは、製作者の考え方や取り組みの姿勢が、製作された漢点字訳書や音訳書に反映されることを意味します。図書館の関係者や音訳者の皆様には、このことを肝に銘じていただきたいと願っております。よい出来映えの漢点字訳書と音訳書が、世に送り出されることを期待して止みません。
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