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漢点字の散歩(65) 岡田 健嗣 |
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カナ文字は仮名文字(16) 前回・前々回と、人麻呂歌の文字の使い方を、ざっと見て参りました。特に漢字の音読・訓読が、どのように用いられているか、また、後の平安時代の仮名文字の表記に、どのように繋がっているのか、その基点になるのがこれらの人麻呂歌であることは言を俟ちません。前回まで見て来た所から言えることは、漢字の音読・訓読や文字遣いは、既に現在のそれと同様の原則が、この人麻呂歌に見られること、言い換えれば、わが国最古の歌集である『萬葉集』において、漢字の音読・訓読と文字遣いは、現代とそれと同様になされているということが、知らされたのでした。 そこで繰り返しになりますが、もう1度この12首の歌を、見て確認して見たいと思います。 一二四七 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉 大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見 らくしよしも (おほなむち すくなみかみの つくらしし いもせのやまを みらくしよしも) 「大穴道」、「おほなむち」は、その地を統べる者の意で、出雲神話の長である、「大国主命」を指します。原文では、現代の訓読で「おお・あな・みち」の文字が当てられています。読み下し文では、「大汝」と表記されています。同じ「おほなむち」も、記・紀では「大己貴」と表記されます。 次の「少御神」、「すくなみかみ」は現代の訓読と同じ「すくない・み・かみ」と読む文字が当てられています。この神は記・紀で「少彦名神」(すくなびこなのかみ)と呼ばれて、「高皇産霊神」(たかみむすひのかみ)の子と言われる神で、高天原から出雲の国へ派遣されました。記・紀では、海原を小さな船に乗って渡って来て、大国主を補佐して、出雲の国の経営に当たったとされています。身体が小さく、忍耐強い神様であったとあります。 次の「作」、「つくらしし」、訓読の「つくる」で、送り仮名と助詞が省略されています。原文も読み下し文も文字は「作」、現代の訓読と同じ「つくる」と読ませています。 「妹勢能山」、「いもせのやま」、女夫のように、あるいは恋人のように2つ並んだ小さな山の風景。「見吉」、「見らくしよしも」、大変よい姿だ。 「いもせ」、「いも」は男性から見た愛しい女性、肉親の姉妹、また妻あるいは恋人を呼ぶ語です。そして「せ」は、女性から見た愛しい男性、兄弟、また夫あるいは恋人を呼ぶ語です。「いもせ」には、普通「妹背」の文字が当てられます。「妹」は現代の訓読でも「いもうと」、「いも」と読んでもよい文字ですが、「背」は、現代の訓読で「せ」とは読みますが、意味としては身体の後ろ側の面、背中、背丈という意味を表す文字です。愛しい男性としての「せ」の音に「背」の文字が使用されることはありません。現在私達が使用する日本語では、「いも」の音は「いもうと」、あるいは愛しい女性を指して使用されることはあっても、「せ」の音は、愛しい男性を指して使用されることはないのではないでしょうか。つまり「背」の文字ばかりでなく「せ」の音も、女性から見ての愛しい男性という意味で使用されることは、すでに久しくなくなっていると考えてよいように思われます。 『萬葉集』では、その原文では「いもせ」と読む語の表記として、「妹勢」の文字が当てられています。また読み下し文では、「妹背」の文字が当てられています。このことから言えることは、「いもせ」の「せ」の音に、「背」の文字が当てられるようになったのは古点以後か、早い時期を想定しても8世紀の末辺りかと、私は素人ながら考えております。 原文で、「せ」の音に「勢」が当てられていること、これは如何にも音仮名のように見えますが、果たしてそうなのか、むしろ「背」の文字を使いたくなかったからと考えられはしまいか、当時の口語で既に「せ」の音で愛しい男性を指す語が成立していて、それをどう表記するかが問われていたとして、「背」の文字は、使用し難かったのではなかったか、もう既に漢字の訓読は完成していて、漢字の意味から、日本語の読みを導き出すという方法は、訓読が成立していることから見ても明らかですので、「背」の文字の意味に、「背を向ける」という意味があることは十分理解されていたに違いありません。「北」という文字が、2人の人が背を向け合った形を象った文字であることも、「背」も、その意味を承けて「そむく」と訓読されることも、既に衆知されていたに違いありません。 そうしてみると、「いもせ」の「せ」にどの文字を当てるかということは、案外難しい課題だったのかもしれません。後に「背」の文字を当てることになるわけですが、恐らく人麻呂がこの歌を作った当時には、まだ「背」の文字を当てることは、共通の認識にはなっていなかったということで、止むなく「勢」の音読の音を借りて表すことになったというのではないか、私はそんな風に受け止めました。後に「背」の文字を、愛しい男性の意味の「せ」の音に当てて、この使用法が「背」の訓読に「背中・背丈」と並んで加えられたものと考えてよいのではないでしょうか。 因みに「せ」の音で読む訓読の文字は、他にどんなものがあるか挙げてみますと、「脊」(セキ)、これは「背」と同じ人の背中・背骨を意味します。「畝」(ホ)、畑の「うね」、また田畑の面積の単位、1ア一ルにやや足りないほどの面積です。「瀬」(ライ)、水の流れの狭く浅く早いところを指します。海でも、狭い海峡、潮の流れの速い海峡を言います。そして現在では用いられないものに、「諾」(ダク)があります。承諾する時の「はい」という意味とされています。これらの文字は、「いもせ」の「せ」には当てられませんでした。 一二四八 吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与 我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きた らば 我れに告げこそ (わぎもこと みつつしのはむ おきつもの はなさきたらば われにつげこそ) 「吾妹子」、「わぎもこ」は、愛しい女性を呼ぶ語です。都に残して来た妻を指した語と読んでよいと思われます。「わぎもこ」は、「わが・いも・こ」を縮めて撥音されたもので、文字も「吾・妹・子」と、訓読がそのまま当てられています。訓読がそのまま当てられているということは、訓読の成立に間を置かずに使用された語と理解してよい語、漢字の訓読と同程度に古い語であると考えてよいと、あるいは訓読が成立してから文字を並べて、それをそのまま訓読して使われるようになった語とも考えてよい語とも言えるのかもしれません。何れにせよわが国でも最も古い歌である人麻呂の略体表記のこの歌以来、愛しい女性を指す語として、数多の歌に登場するのがこの「わぎもこ」です。また、原文の最初の文字「吾」は、読み下し文では「我」に代わっています。「吾」と「我」は、使われ方が少々異なると言われますが、現代に至って、1人称の代名詞の「われ」には専ら、「我」が用いられるようになっています。勢い「吾」の使用範囲は狭くなっているようです。 「見偲」、「みつつしのはむ」、原文では「見」と「偲」の漢字2文字だけで表しています。読み下し文では「つつ」と「はむ」のかな文字を補って、「(わぎもこ)と見なして偲ぼう」と読みます。何を見なすのか、「奥藻」、「おきつもの」、読み下し文では「沖つ藻の」、原文は「奥」、読み下し文では「沖」、海のオキを意味する文字が使われています。そうでなければ「藻」を出すことはできません。 「花開在」、「花咲きたらば」、花が咲いたら、「我告与」、「我れに告げこそ」、私に教えて欲しい。原文で「花開在」、「はな・ひらく・あり」と訓読する文字が使用されていて、それを読み下し文では、「開」を「咲」、「在」を「てあらば」=「たらば」と読ませています。「花」が開花することを「咲く」と言います。「在」は「ある」、「さいたならば」と読んでいます。「我れに告げこそ」、私に教えて欲しい、藻の綺麗な花を見ながら、都の妻を思い起こそう。「与」を「こそ」、助動詞でしょうか、と読ませます。 一二四九 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし 袖 濡れにけるかも (きみがため うきぬのいけの ひしつむと わがそめしそで ぬれにけるかも) 「君為」、「君がため」、ここで言う「きみ」とは、女性から見ての愛しい男性、夫のことと解されます。「あなたのために」の意、現代語と同じ訓読と言ってよい読みです。「浮沼池」、「うきぬのいけの」、「浮沼」は現在でも使用される語で、泥の深い沼の意です。ここでは、泥の深い沼のような池で、「菱採」、「菱摘むと」、菱の実を摘もうとして、菱は、水辺に生える草の名です。根は泥の中、葉は水面に浮いていて、秋に堅い実を付けます。古くから食用として珍重されていました。菱の実の採集は、食料の確保に直結したものでした。ここでは、その実を摘んで家に持ち帰ろうとして、となります。原文では「採」が使われていますが、読み下し文では「摘」が当てられていて、「つむ」という行為を強調しているように見えます。 「我染袖沾在哉」、「我が染めし袖濡れにけるかも」、私が染めた着物の袖が濡れてしまった。菱の生えているような池沼の泥は深く、その水に濡れた袖は、その泥で大いに汚れてしまったのでしょう。原文では「沾」が用いられていますが、読み下し文では「濡」が当てられていて、単に「ぬれてしまった」とさほどの拘りを感じさせませんが、原文では、「沾」が使用されていて、この文字には濡れて汚れるという意味があると言います。また原文の最後が「在哉」と結ばれていて、これを、「けるかも」と読み下しています。 先の歌は、旅先の夫が都の妻を思い、この歌では、出先の妻が、家で待つ夫を思うという形を採っています。 一二五〇 妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮 妹がため 菅の実摘みに 行きし我れ 山道に 惑ひ この日暮しつ (いもがため すがのみつみに ゆきしわれ やまぢにまとひ このひくらしつ) 「妹為」、「妹がため」、愛する女性(妻)のために、先の歌では「君がため」と歌い始めて、女性が男性に向けて歌った歌でしたが、ここでは男性が女性に向けて歌っている形です。 「菅實採」、「菅の実摘みに」、菅(すげ)の実を摘もうと。「菅」は、野山に自生するカヤツリグサ科の植物です。カヤによく似た、極めてありふれた植物です。その実を妻のために摘んで、ここでも原文では「採」を、読み下し文では「摘」を使用しています。「行吾」、「行きし我れ」、菅の実を求めて山中に入った私だが、ここでも「われ」に、原文では「吾」、読み下し文では「我」の文字が当てられています。 「山路惑」、「山道に惑ひ」、山の道に迷ってしまって、原文では「山路」、読み下し文では「山道」が使用されています。現在では「やまぢ」と読む場合は、「山路」と原文と同じ表記をしますが、歴史的には「道」を「ぢ」と読ませた時期もあったようです。「此日暮」、「この日暮しつ」、日が暮れて、山中で一夜を明かすこととなってしまった。 『萬葉集釋注』に、この歌の類歌、 妹がため 玉を拾ふと 紀伊の国の 由良の岬に この日暮らしつ(一二二〇) (いもがため たまをひりふと きのくにの ゆらのみさきに このひくらしつ) があるとあります。 これらの歌は「羈旅」としてまとめられていて、旅先で家で待つ妻、あるいは夫のために、家づとにする物を求めて苦労する姿を歌っています。食料であったり、美しい玉石であったり、妻、あるいは夫の喜ぶ顔を目に浮かべながらの歌ということが言えます。 以上の4首は、「人麻呂歌集」から取られた歌で、柿本人麻呂の作である可能性が高いもので、あるいは人麻呂が集めた歌を、人麻呂が書き写して保管していた歌ともされて、その歌に人麻呂が補筆して、新たな形とした歌であるとも考えられています。何れにせよ、柿本人麻呂の最初期の作品と考えてよいと考えられます。 以上は、『うか』127号に掲載した拙文(「漢点字の散歩」63)を、角度を変えて書き換えて見ました。この結びは127号と同じ見解となりますので、左にそのまま引用します。ご容赦下さい。 「私の拙い試みとして、歌の漢字に音読・訓読の読みを当ててみました。このような試みはさほど珍しくないものかと思っておりましたし、多分その通りなのでしょうが、私にとってその結果は、極めて意外なものでした。 私の予想では、これまで読んで来た万葉集の歌々には、現在の訓読とはかなり相違した読みが与えられていたように感じていましたので、ここに取り上げた4首の歌も、同様にかなり異なった訓読がなされているものと思っておりました。もっとも、そのように思っておりましたのも、それらの歌の読みに、読み下しも含めて、非常に苦労させられたという経験が関与しているのかもしれませんし、またここに取り上げた4首の歌に用いられている漢字が、偶々現在の訓読と同様に読まれているということなのかもしれません。とは申しても、わが国の文字の表記の最初期の「万葉集」に用いられている漢字の読みが、千数百年を経た後の現代の文字と、同じように読むことができるということは、驚きを持って見られるべきと思われてなりません。 しかしここに、面白いことに気づかされました。固有名である「大穴道」は「おほあなむち」→「おほなむち」、「少御神」は「すくなみかみ」、「妹勢能山」は「いもせのやま」、「浮沼池」は「うきぬのいけ」、そして固有名ではありませんが、「吾妹子」は「わぎもこ」と、訓仮名(勢と能は音仮名ですが)が当てられていて、1つの韻律をなしているように思われることです。この韻律は、これよりもずっと以前の日本語と、現代の日本語とを結ぶ架け橋になるもののように思われます。そしてこの固有名に訓仮名が当てられていることで、訓仮名が訓読の成立なしには叶わないものとしてみれば、訓読と訓仮名がフィードバックすることで、万葉の世が明けることになったのではないか、何かそういう筋道が描けるように思われて来るのでした。 何れにせよはっきりとしていることは、わが国の文字表記の最初期に位置するこの「万葉集」は、既に音読・訓読ばかりでなく、係り結びや枕詞など、極めて高度な言語表現によって形作られております。言い換えれば、わが国の先人は、まだ文字表記を実現する以前に、このような高度なポテンシャルを手にしていたのだと言うことができます。 何も文献のないころに、いきなり「万葉集」のような高度な文学作品群が生まれるなどということが、実際に起こりました。実際それ以前には、文献と言える文献は残っておりません。「万葉集」の記事から言えることは、「人麻呂歌集」のようなものは、作られていたらしいことは知られます。人麻呂の作った歌、人麻呂が集めた歌が収められていた集があったと考えられています。これらは「万葉集」の大きな柱として、その要所要所に収められていると言われます。また、『書紀』には、それ以前の文書の所在が記されているようですが、残念ながら残っておりません。 以上、『萬葉集』の世界を視覚障害者にも知っていただいて、言語生活の厚みを養っていただきたいと願って止みません。」 |
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