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漢点字の散歩(64)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(15)

 前回は、万葉集でも最も古い表記法を採っていると考えられている、柿本人麻呂の略体歌4首の文字表記を、見てみました。人麻呂の略体歌と言われる歌は他にもありますので、今回は、その内の4首を見てみたいと思います。
 「羈旅歌」に分けられる歌で、「人麻呂歌集」にあったものを万葉集に収録したと左注にあります。「人麻呂歌集」は、人麻呂の作歌になるものばかりでなく、人麻呂が集めた歌が収められていると考えられて、それらの多くは、人麻呂の筆が入っていると考えられています。
 勿論その読みは、古点・次点・新点を経て、またその後何百年の間の数多の歌人・研究者が行った、様々な角度からの試みを経て、私達の手元にあるものです。その読みに足場を置きながら、文字遣いを見てみたいと思います。

三一二七
 度會 大川邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨

(前回同様、1字1字音と訓を記してみましょう。)
 「度」ド・たび 「會」カイ・エ・あう 「大」ダイ・おおきい 「川」セン・かわ 「邊」ヘン・ほとり・あたり・べ 「若」ジャク・わかい 「歴」レキ 「木」ボク・モク・き 「吾」ゴ・われ 「久」キュウ・ひさしい 「在」ザイ・ある 「者」シャ・もの 「妹」マイ・いもうと 「戀」レン・こう 「鴨」オウ・かも

 度会の 大川の辺の 若久木 我が久ならば 妹恋ひむかも

 「度會、「わたらい」は大和の地名か、「大川邊」、大きな川のほとり、助詞「の」が省略されています。「若歴木」、読み下し文では「歴」ではなく、「久」が用いられています。若い「ひさぎ」の木、「ひさしい」の音から、「吾久在者」、「我が久ならば」、さらに私が久しく家を離れて旅をしておれば、送りがなが省略されています。「在者」であらば、「者」を助詞の「バ」と読ませています。音仮名とみます。また、ここにはありませんが、「者」は助詞の「は」にも当てられて用いられます。「妹戀鴨」、「妹恋ひむかも」、家に残してきた妻は、さぞかし私を恋しく思うであろうに。送りがなが省略されています。「鴨」が、助詞「かも」に当てられています。訓仮名です。

三一二八
 吾妹子 夢見来 倭路 度瀬別 手向吾為

 「吾」ゴ・われ 「妹」マイ・いもうと 「子」シ・こ 「夢」ム・ゆめ(いめ) 「見」ケン・みる 「来」ライ・くる・き・こ 「倭」ワ・やまと 「路」ロ・みち・じ 「度」ド・たび 「瀬」ライ・せ 「別」ベツ・わかれる 「手」シュ・て 「向」コウ・むかう 「吾」ゴ・われ 「為」イ・なす

 我妹子を 夢に見え来と 大和道の 渡り瀬ごとに 手向けぞ我がする

 「吾妹子」、「我妹子を」、ここでは家に残して来た愛する妻、原文では「吾」、読み下し分では「我」が用いられています。助詞「を」が省略されています。「夢見来」、「夢に見え来(こ)と」、「夢」、「ゆめ」でなく「いめ」と読みます。「に」と「と」の助詞、「え」の送りがなが省略されています。「倭路」、「大和道の」、原文では「倭」、読み下し文では「大和」が用いられています。また、原文では「路」のところ、読み下し文では「道」が用いられています。助詞「の」が省略されています。「度瀬別」、「渡り瀬(ぜ)ごとに」、「度」を「わたる」と読んで、読み下し文では「渡」が用いられています。「別」を「ごと」と訓読しています。送りがなと助詞が省略されています。「手向吾為」、「手向けぞ我がする」、幣帛を手向けています。読み下し文では「ぞ…る」の係り結びになっていますが、原文ではそう読ませようとしているのか、分かりません。原文では「吾」、読み下し文では「我」が用いられています。「為」を「する」と読んで、助詞・送り仮名が省略されています。

三一二九
 櫻花 開哉散 及見 誰此 所見散行

 「櫻」オウ・さくら 「花」カ・はな 「開」カイ・ひらく 「哉」サイ・かな・や 「散」サン・ちる 「及」キュウ・およぶ 「見」ケン・みる 「誰」スイ・たれ 「此」シ・これ・この 「所」ショ・ところ 「見」けん・みる 「散」サン・ちる 「行」コウ・ギョウ・ゆく・おこなう

 桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰れかもここに 見えて散り行く

 「櫻花」、さくらばな、「開哉散」、「咲きかも散ると」、咲いたかと思えば直ぐに散ってしまう、助詞・送り仮名が省略されています。「及見」、「見るまでに」、「及」を「まで」と訓読して、漢文訓読の形を採っています。送り仮名と助詞が省略されています。「誰此」、「誰れかもここに」、送り仮名と助詞が省略されています。「所見散行」、「見えて散り行く」、「所見」を「みえて」と訓読しています。また、送り仮名が省略されています。桜花が咲いて散るのと同じように、人が現れては去って行く。

三一三〇
 豊洲 聞濱松 心哀 何妹 相云始

 「豊」ホウ・ゆたか・とよ 「洲」シュウ・す 「聞」ブン・きく 「濱」ヒン・はま 「松」ショウ・まつ 「心」シン・こころ 「哀」アイ・あわれむ 「何」カ・なに・いずれ 「妹」マイ・いもうと 「相」ソウ・あい 「云」ウン・いう 「始」シ・はじめる

 豊国の 企救の浜松 ねもころに 何しか妹に 相言ひそめけむ

 「豊洲」、「豊国の」、大和を離れて遠く、九州の豊前に到達した。 「洲」を「くに」と訓読して、読みくだし文では、「国」が用いられています。助詞「の」が省略されています。「聞濱松」、「企救の浜松」、「きく」は北九州の地名、読み下し文では「企救」と書かれていますが、原文では「聞」と、訓仮名が用いられています。「企救」は古くから交通の要所として知られた地名です。歌枕です。その企救の浜の松のように深く根差して。「心哀」、「ねもころに」、深くする妻への思い、「ねもころ」とは「懇ろ」、「心哀」と表記して「ねもころ」と読む、「哀」はかなしい・あわれむの意の文字ですが、「愛」にも、「かなしい」の訓読がありますので、「あいする」のと「あわれむ・かなしむ」のとは、根のところで通じるのかもしれません。助詞「に」が省略されています。「何妹」、「何しか妹に」、遠く離れて都で待つ妻に、どのように。送り仮名と助詞が省略されています。「相云始」、「相言ひそめけむ」、言い合って堅く結ばれたのだったのだろうか。送り仮名・助動詞が省略されています。

 以上は萬葉集に「羈旅」として収められている人麻呂歌集の歌です。都を発って間もないころの2首と、旅路にあって目まぐるしく変化する周辺の風景、そのために地名の判明しない1首、そして九州の豊前・企救に到って、やっと落ち着いて都の妻を偲んだ歌、全4首です。
 人麻呂歌集に収められていた歌とは、人麻呂の作歌になる歌ではないという意味が込められておりますが、恐らく人麻呂が手を加えた可能性、現在では「添削」と呼ばれる作業をした可能性は大いに有るものと考えられる歌々です。
 前回見たものも今回見たものも「略体表記」と呼ばれる表記法で書かれた歌で、現代文ではかな文字で書かれる部分が欠けています。かな文字で書かれる部分、それは「送り仮名」「助詞」と「助動詞」です。しかし、ここには何も書かれておりませんが、現代文でかな文字で書かれるものに対しての意識がなかったとは、到底考えられません。なぜならば、後の訓点から見ても、係り結びや枕詞や詠嘆が、既に使用されていることを見ても、徒にそれらを後から付け加えたものとは考えられないからです。

 もう1つ、略体表記でない人麻呂の歌をご紹介しましょう。

四六
 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓

 「阿」ア・おもねる 「騎」キ・(馬に)のる 「乃」ダイ・の 「野」ヤ・の 「尓」ジ・ニ・なんじ 「宿」シュク・やどる 「旅」リョ・たび 「人」ジン・ニン・ひと 「打」ダ・うつ 「靡」ビ・なびく 「寐」ビ・いぬ・ねる 「毛」モウ・け 「宿」シュク・やどる 「良」リョウ・よい 「目」もく・め 「八」ハチ・やつ 「方」ホウ・かた 「古」コ・ふるい 「部」ブ・わける 「念」ネン・おもう 「尓」ジ・ニ・なんじ

 安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

 「阿騎乃野尓」、「安騎の野に」、「阿騎」は地名、軽皇子(後の文武天皇)が今は亡き父・草壁皇子を偲んで、かつて父に連れられてやって来たこの地で狩りをしたことを思い、追悼の意を込めて再び狩りをするためにやって来たこの野に、原文では「阿」が、読み下し文では「安」が用いられています。「乃」は訓仮名、「尓」は音仮名。「宿旅人」、「宿る旅人(たびひと)」、この野に宿泊する共人ら、送り仮名「る」が省略されています。「打靡」、「うち靡き」、すっかり亡き皇子のころを思い起こして、送り仮名が省略されています。「寐毛宿良目八方」、「寐(い)も寝(ぬ)らめやも」、安らかに寝てなどいられようか、「毛」は音仮名、「目八方」は訓仮名。「古部念尓」、「いにしへ思ふに」、「古部」で「いにしへ」と読ませています。「おもふ」は、原文では「念」、読み下し文では「思」が用いられています。「尓」は音仮名、送り仮名が省略されています。

四七
 真草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曽来師

 「真」シン・まこと・ま 「草」ソウ・くさ 「苅」ガイ・(草を)かる 「荒」コウ・あらい・あれる 「野」ヤ・の 「者」シャ・もの 「雖」スイ・いえども 「有」ユウ・ある 「黄」コウ・オウ・き 「葉」ヨウ・は 「過」カ・すぎる 「去」キョ・さる 「君」クン・きみ 「之」シ・ゆく・これ・の 「形」ケイ・かたち 「見」けん・みる 「跡」セキ・あと 「曽」ソ・かつて 「来」ライ・くる 「師」シ

 ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

 「真草苅」、「ま草苅る」、野宿をするための仮の廬を設営するために草を苅る。送り仮名が省略されています。「荒野者雖有」、「荒野にはあれど」、「雖有」を「にはあれど」と、漢文の読み下しを模した表記がなされています。「黄葉」、「黄葉の」、「もみぢばの」、黄葉をもみじばと読ませます、助詞「の」が省略されています。「過去君之」、「過ぎにし君が」、亡き草壁皇子の、「過去」と書いて、「すぎにし」と読ませています。「之」を「が」と読ませていますが、助詞「が」と「の」は、入れ替えが可能な語とされています。「形見跡曽来師」、「形見とぞ来(こ)し」、「形見」、その皇子にちなんだこの阿騎の野、その地にやって来たのだ。「ぞ…し」、係り結びです。「跡」は訓仮名、「師」は音仮名、草壁皇子を偲ぶ狩りを決行しようとしていて、亡き皇子の颯爽とした姿を思い起こしている1行である。

四八
 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 「東」トウ・ひがし 「野」ヤ・の 「炎」エン・ほのお 「立」リツ・たつ 「所」ショ・ところ 「見」ケン・みる 「而」ジ・しこうして 「反」ハン・タン・そる 「見」ケン・みる 「為」イ・なす 「者」シャ・もの 「月」ゲツ・ガツ・つき 「西」セイ・サイ・にし 「渡」ト・わたる

 東の 野にはかぎろひ 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

 「東」、「東の」、「ひむがしの」、助詞「の」が省略されています。「野炎」、「野にはかぎろひ」、野に暁光が差し始めて、光が揺らめいて見える。「炎」を「かぎろひ」と読ませています。助詞が省略されています。「立所見而」、「立つ見えて」、かげろうが立って、「所見而」を「みえて」と読ませて、「而」は助詞「て」と読みます。訓仮名です。送り仮名が省略されています。「反見為者」、「かへり見すれば」、反対側の空を振り返って見れば、また、草壁皇子の狩りの時と同様に。「為」は「する」、已然形「すれ」と読ませています。「者」は時を示す助詞「ば」、音仮名です。送り仮名が省略されています。「月西渡」、「月西渡る」、残った月が西の空を沈もうとしている。これも前回の狩りと同じだ。往時が思い起こされる、狩りは朝が早い。

四九
 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御狩立師斯 時者来向

 「日」ジツ・ニチ・ひ 「雙」ソウ・ふたつ 「斯」シ・かく・これ 「皇」コウ・オウ 「子」シ・こ 「命」メイ・いのち・みこと 「乃」ダイ・の 「馬」バ・うま 「副」フク・そえる 「而」ジ・しこうして 「御」ゴ・ギョ・おん・み 「狩」シュ・かり 「立」リツ・たつ 「師」シ 「斯」シ・かく・これ 「時」ジ・とき 「者」シャ・もの 「来」ライ・くる 「向」コウ・むく

 日並 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

 「日雙斯」、「日並(ひなみし)」、日と並び称される、「皇子命乃」、「皇子の命(みこと)の」、「日並皇子の命」は「ひなみのみこのみこと」、日と並ぶ帝王、ここでは亡き草壁皇子、そしてこの狩りを成功させれば草壁と同じ地位に立つことになる軽皇子を指します。原文では「雙斯」、読み下し文では「並」が用いられています。「乃」は助詞の「の」、訓仮名です。「馬副而」、「馬並(な)めて」、馬上豊かに勢揃いさせて、原文では「副」、読み下し文では「並」が用いられています。「而」は助詞の「て」、これも訓仮名です。「御狩立師斯」、「み狩立たしし」、狩りを始めた、「斯師」は送り仮名と助詞、音仮名です。「時者来向」、「時は来(き)向ふ」、往時と同様に狩りが始まり、心の中では二重写しになる。「者」は助詞「は」、音仮名です。「来向ふ」、往時と向き合う思いがする。
 * 「かり」を表す文字、原文では「けもの偏+葛」(カツ、かり)が用いられています。また、読み下し文では、「狩」が用いられています。前者はJISコードにない文字ですので、ここでは表せません。そこで、原文にも、「狩」を用いました。

 以上の4首は、柿本人麻呂の宮廷歌デビュー作とも考えられている長歌の後に続く反歌として掲げられた歌です。
 この狩りの主人公は軽皇子、後の文武天皇です。軽皇子は草壁皇子の皇子で、持統天皇の孫に当たります。そして、草壁皇子はその前の年に急逝してしまいました。持統天皇は、天武天皇崩御の後暫く帝位に即かず、その草壁皇子を帝位に即けようとしていた矢前のことでした。後に即位した持統天皇の悲しみは、計り知れない物がありました。
 そんな中、亡き草壁皇子を偲んで行われたのがこの狩りです。先年草壁皇子が主催して行われた狩りを、今度はその皇子の軽皇子が主催して、亡き父皇子を偲ぶというものでした。
 この宮廷儀礼の意味合いの強いこの狩りに、人麻呂は供奉しました。そしてこの歌々を献上したのでした。
 前回と今回の前半に掲げた人麻呂の略体歌と、後半に掲げた四首の歌、前者は人麻呂歌集からの歌とされて、人麻呂の作歌ではないとされてはいますが、しかし人麻呂の歌としても充分な厚みのある歌です。そしてその表記に於いて略体か非略体かの差があると言われています。
 どのような差があるのか、比較して見るのも一興と思われます。
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