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顧 み て (3)
                    
岡田 健嗣

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 再度私の個人的な事情からお話を始めさせていただきます。
 1980年代の後半になって、音声で表示するパソコンが本格的に出始めました。それまではパソコンは、視覚障害者も、一般と同様に、極マニアックな人だけが使っていました。私などは、とても手を出せるものではありませんでした。マニアックな人達は、パソコンをいじることそのものに楽しみを感じているようで、そのような楽しみ方が、私には、敷居の高さを感じさせたのでしたし、まして、パソコンで何ができるのか、というところが私には判然としなかったので、手を拱いた形のまま時を過ごしていました。
 そこに、NEC製の9800シリーズというMS‐DOS対応の機械が現れて、音声の表示の幅が広がって、一気に視覚障害者の間に広がって行きました。そしてこの機械を使って、漢点字の符号を利用して一字一字入力する方法のソフトウェアが開発されて、パソコンを使えば「文字を書く」ことができるということが、分かってきたのでした。早速私も、それを購入することにしました。パソコンの力を借りてではありますが、初めて普通の文字を「自力」で書くことができたのは、この時のことでした。
 ちょうどそのころ、私の身辺にも変化が訪れて、身を固めようと思うようになりました。出会いがありました。
 それまでの私は、横浜市で生活をしておりましたが、この結婚によって、その後は、東京の墨田区にも地歩を得ることになりました。仕事の都合もあって、当分は行ったり来たりという生活となりましたが、そのことは、私と漢点字との結び付きにとっては、むしろプラスに働いたように思われます。
 墨田区での生活が始まると同時に私は、墨田区立の図書館に連絡を取りました。そこでお会いしたのが、本誌に創刊号からご執筆下さっておられます、山内薫様でした。
 山内様は、当時は墨田区の図書館にお勤めで、身体障害者へのサービスをご担当でした。私は全くの新参者ですので、直接お会いしてお話ができるかお尋ねしましたところ、快く諾して下さり、後日、図書館をお訪ねすることになりました。お訪ねしたのは寺島図書館だったかと思います。
 お会いして私は、私が横浜で受けて来た点字図書館からのサービスについて、また、受けたいが受けられなかったサービスについて、さらに漢点字を勉強したことなどをお話させていただいたように覚えております。そして山内様から、墨田区の図書館の取り組んでおられることをお聞きして、一驚したのでした。
 何に驚いたかと申しますと、墨田区には漢点字を使用しておられる視覚障害者の方がおられて、そのころ開発された、パソコンを使用して、漢点字の文書を打ち出す装置を、緑図書館という図書館に揃えておられるというお話を伺ったからに他なりません。横浜にいては、そういうことはとても及びません。是非私も、その装置の利用者の一人になりたいと、お願いしました。
 墨田区内にお住まいで、漢点字の使用者であるという視覚障害者の方というのは、本会の会員であって、本誌にもご執筆下さっていた木村多恵子様でした。
 漢点字を打ち出す装置というのは、漢点字協会の川上先生の活動にご協力下さっていた、徳島教育大学の末田統教授の開発されたもので、パソコンで一般の文書を作成して、プログラムにかけると、点字プリンタから、漢点字仮名交りの点字文が打ち出されるというものでした。当時際だって普及していたNEC製の9800シリーズで、マイクロソフト社のMS‐DOS上で作動するものでした。一つ残念だったのは、点字のレイアウトに沿った編集ができないことと、文書ファイルは、点字用のファイルは残らず、一般のテキストファイルだけで管理するというものだったことでした。
 しかしながらそういうことを知ったのはずっと後のことで、その装置を動かして下さるのは、図書館で活動しておられたボランティアの皆様でしたので、その皆様にご紹介いただけるよう、山内様にお願いしました。
 このようにして点訳ひかり会の皆様にご紹介いただいて、私のニーズをお伝えして、漢点字で表された書物を手にすべく、私も活動を始めました。
 図書館の機能、点訳ボランティアの皆様の活動から見れば、私はニーズを出して、出来上がった結果を受け取ることでそのサービスを享受するのが普通ですが、私のニーズはそのようには行かず、ボランティアの皆様とのやり取りが必要でした。皆様からしてみるとご迷惑なことだったかとは思いますが、川上先生が漢点字ボランティアを養成して、漢点字書をお作りになっておられながら、私はそこに読者として参加できなかったという過去がありましたので、今回はそうなってはいけないと考えてのことでした。ニーズを出しながら、その製作の中にも参加させていただくということを、お願いしたのでした。そして、点字にして10ページ・20ページ程度の文書を打ち出していただいて、私がそれを読む、そして注文をつける、こういうことを繰り返して、漢点字書を仕上げて行きました。注文というのはどういうものだったかと申しますと、ボランティアの皆さんの活動の初めはパソコンに入力していただくのですが、その入力をチェックするということがあります。しかしそれは、私の前に校正をして下さる方がおられますし、私には原本の記載は分かりませんので、基本的には校正をするのではありません。むしろ、触読し易いレイアウトにするにはどうするのがよいか、原本にある記号を、点字としても読み易いものにするにはどうするのがよいかという、如何に触読し易い文書にするかというところに集約されて行くものでした。それまでの読書の経験から、触読に易しい点字書は、カナ点字だけの文書でさえ、案外少ないと感じておりました。漢点字書となれば、なおさら触読に易しいものを目指さなければ、優れた原本も、漢点字書になった時、その真価を発揮することができないと考えたのでした。
 この時の作業は、その後の私の漢点字とのお付き合いに、そして漢点字訳の活動にとって、極めて大きなトレーニングであったようです。
 そこで初めて取り組んだ漢点字訳の書物は、『百人一首』(大岡信著、講談社文庫)でした。文庫本ではありますが、このような和歌の専門書は初めて読むものでしたので、全てが初めてという、無手勝流そのもので挑みました。
 この詳細は、稿を改めて申し上げなければ、とても語り切れません。そこで少々冗長かとは思いますが、「小倉百人一首」から、お歌を選んでみます。お歌を見ておりますと、ここから数首に絞るのは極めて困難なことです。それでも無理をして、私の好みから、以下の20首を選んで見ました。ご味読下さい。


  あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む  柿本人麻呂

  花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町

  これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関  蝉丸

  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟  小野篁

  ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは  在原業平

  このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに  菅家(菅原道真)

  名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな  三条右大臣(藤原定方)

  滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ  大納言公任(藤原公任)

  あらざらむこの世のほかの思ひ出でにいまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部

  めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影  紫式部

  有馬山猪名の篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする  大弐三位

  やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門

  大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立  小式部内侍

  夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ  崇徳院

  嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな  西行

  玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王

  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む  後京極摂政前太政大臣(藤原良  経)

  世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも  鎌倉右大臣(源実朝)

  来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ  藤原定家


 これらのお歌の中から、任意に1首だけ選ぶように求められたとしますと、私は、崇徳院のお歌を選ぶのではないかと思います。崇徳院に関わらず、この『小倉百人一首』には、悲劇に見舞われた方が多数おられます。その悲しみを、読者である私どもが、しっかり感受しなければいけないのではないでしょうか。
 『小倉百人一首』は、藤原定家が選んだ百首と言われます。「万葉集」(8世紀)から定家の時代(12世紀)までの約400年に歌われたお歌の中から、百首を選んだものです。大岡先生は、その一首一首に作者と作歌の情況、そしてその解釈について、解説して下さっておられます。日本の文学を総括したご本と言ってもよいのではないかと、私には思われます。そして日本文学は、崇徳院を初めとする多くの悲劇と、もう一つの柱として、恋愛があります。男性のお歌には恋愛ばかりでなく、政治の影を濃く落としていることはありますが、女性のお歌は、例外なく恋愛歌です。このことを、私どもは味わわなければいけません。

 このご本の漢点字訳と平行して、ひかり会の皆様には、朝日新聞に掲載されております「朝日歌壇・俳壇」の漢点字訳もお願いしました。「歌壇・俳壇」は、既に以前から音訳版が製作されていて、私も聴かせていただいておりました。音訳者の皆様ともお話をさせていただいておりまして、製作のご苦労の一つ、読みの難しさについてお聞かせいただいておりました。しかし当時の私には、読みの「難しさ」は、全く分かりませんでした。既に音声化されたものを受け取って、難しさを克服された後の作品をお聴かせいただいておりましたので、ご苦労の一端も分からないままにお聴かせいただいていたのでした。
 ところが漢点字訳を始めますと、どう読んでよいのか見当の付かない短歌や俳句が次から次へと並んでいます。「百人一首」とともに「朝日歌壇・俳壇」の漢点字版の製作は、そのまま私の、漢点字の触読の特訓ともなったのでした。音訳者の皆様のご苦労も、私のトレーニングとして、私の中にひしひしと刻まれました。

 この間の私の活動は組織的なものではありませんでしたので、「活動」と申してよいものかどうか、分かりません。しかしほとんど五里霧中、怒濤のような毎日だったと記憶しております。従って私のお手伝いをして下さっていた点訳ボランティアの点訳ひかり会の皆様にとっては、それこそ台風の渦中に置かれていた思いでおられたものと、現在では拝察しております。とはいえ当時の私は、私のしようとしていることで精一杯で、ひかり会の皆様を顧みる余裕はありませんでした。伏してお詫び申し上げます。
 しかしお陰様で、現在では私なりの漢点字書の読みの方法と言ってよいようなものを、掴み得た感があります。当時の経験が、それを可能にして下さったものと思います。
 そして1996年、私の住み慣れた横浜で、横浜漢点字羽化の会を立ち上げることになりました。

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 墨田区の図書館を会場に、点訳ひかり会の皆様のお力をお借りして、漢点字書の製作を始めました。その活動を持って横浜でも点訳のボランティアの皆様のお力をお借りできないか模索してみましたが、なかなかよい反応を得られないということが続きました。しかしながらその中でも、現在の本会の中心的なメンバーとして活動して下さっておられます吉田信子様に出会えたことは、私にとって、何よりの力となりました。
 吉田様は、まず漢点字訳のためのプログラムから作りましょうとご提案して下さいました。ご主人様のご協力をいただいて、自前のプログラムを作るという、私にはとても叶わないところに踏み込んで下さいました。                   続く
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