Uka135    トップページへ

顧 み て (4)
                    
岡田 健嗣

    7  (承前)
 横浜で、漢点字の書籍を製作して下さる点訳ボランティアの方を募る活動をする中で、従来の点訳ボランティアの皆様からは中々手を挙げていただけませんでしたが、お1人だけ、現在も本会の中心的なメンバーとして活動して下さっておられます吉田信子様にお会いすることができました。このことは、この募集の活動の、最大の成果でした。
 この活動の中で私は、多くの点訳ボランティアの皆様にお会いしました。しかしながらその皆様からは残念ながら、ご協力をいただくことはできませんでした。その皆様とお話しをしてみますと、その皆様は、その活動を始めるに当たり、「点字には漢字がない」という事実をお知りになって、一つ口に驚かれたとおっしゃっておられました。漢字がなくて、日本語の表記ができるのだろうか、という当然の疑問を抱かれました。しかしながらその活動を進める内に、そのような疑問が薄らいで行き、それは普通のことだ、あるいは当然のことだと理解し、あるいはそのように納得して行かれたのだということを、私は知りました。そこでお会いした多くの点訳ボランティアの皆様は、既に深くそのような理解に入っておられまして、漢点字の存在とその必要性についてお話をしても、「むずかしい!」とおっしゃって、近づかれませんでした。その皆様は、残念ながら当初の疑問が氷解し答えを得たのではなく、活動に埋もれて疑問をお忘れになってしまったように、私には思われました。
 そういう中のお1人である吉田様は、その最初の疑問を持ち続けておられました。漢字を読み取らずに、日本語の文章を読み取ることができるのか、という、日本語の表記の最も基本的な足場に対する疑問でした。
 吉田様は、ご主人様のご協力をも得て、普通の文書のファイルから、漢点字文書のファイルを作成し、さらにそのデータを点字プリンタに送って、漢点字文書を紙に打ち出すためのソフトウェアを完成させて下さりました。現在使用しているEIBRKWの前身の、EIBRの完成です。これによって、私どもはオリジナルのソフトウェアを手にすることになりました。このソフトウェアを手にしたことによって、吉田様と念入りにご相談して、私ども独自の、パソコンを使用した、漢点字訳のボランティア・グループを作ろうという運びになりました。1995年のことでした。
 1996年の1月末日、漢点字訳ボランティアの講習の呼びかけに応じて下さった皆様にお集まりいただいて、漢点字訳の手順・方法について、お話しすることになりました。この日、本会は産声を上げたのでした。
 その時お集まりいただきました方々のなかに、現在も活動の中心を担って下さっておられる皆様がおられますし、取り分け、木下和久様がご参加下さったことは、私どもには天からの恵みとも言うべき吉兆でした。木下様は、吉田様のご主人の製作して下さったEIBRを、さらに進化し深化させて下さり、現在私どもが使用しております漢点字変換プログラムEIBRKWを完成させて下さいました。これによって、一般文書から漢点字文書への変換ばかりでなく、漢点字文書の中での編集が可能になり、さらに、その漢点字データをピンディスプレイにも送信して、漢点字文書をピンディスプレイに表示させて、それを触読しながら文書を作成し、編集するという、エディタの機能を導入することになりました。これによって、視覚障害者の読みばかりでなく、書くことにも大きな力を発揮してくれるようになりました。
 横浜漢点字羽化の会の発足と時を同じくして、横浜国立大学の村田忠禧教授が、在学の視覚障害学生のために、漢和辞典である『漢字源』(藤堂明保編、学習研究社)の漢点字版を点字プリンタで打ち出しておられるというニュースを入手しました。早速先生にお電話をかけてお伺いしましたところ、学習研究社様から電子データをご提供いただいて、墨田区の図書館で動いている末田先生の開発されたプログラムと同じ装置を使って打ち出しておられるということを知りました。
 そこで村田先生にお願いして、私どもにも同じ電子データのご提供をお聞き入れいただけないものか、学習研究社様に伺っていただきましたところ、即刻ご快諾いただき、『漢字源』の電子版を、大学ばかりでなく私ども一般の視覚障害者も、漢点字で読める道が開けました。
 従って本会の活動は、活動開始と共に、大きなプロジェクトを抱えるとこととなって、今思えば、1996年は、正にてんやわんやの年となったのでしたが、木下様の指揮の元、翌年の3月には、製本を終えた90分冊の漢点字書を完成させ、受け入れを決めて下さっていた横浜市立中央図書館に、納入することができました。
 漢点字訳という本会の活動の中心である入力・校正というプロセスが、電子データのご提供をいただくことで割愛できたとは申しても、点字書90分冊を打ち出し・製本するという作業は、並大抵ではなかったことは言うまでもございませんが、この完成がもたらしたものの計り知れなさは、現在にまで及んでいるものと存じます。

    8
 〈語彙が多いとか少ないとかいうけれど、人間はどのくらいの言葉を使うものなのか。
 例えば新聞や雑誌に使われている単語は、年間およそ3万語といわれています。しかし、その50~60パーセントは、年間の使用度数1です。つまり、半分の単語は新聞・雑誌で1年に2度とお目にかかることがない。
 ちょっと古いけれど、昭和30年代の調査では、高校の上級生が3万語の語彙をもっていたという調査結果があります。今は大学生でも語彙は平均1万5000か2万くらいに落ちているのではないかと思います。読書量がものすごく減っていますから。
 生活していく上で間にあうという数でいえば、3000語あれば間にあう。だいたいは生きていられる。これが、いわゆる基本語です。では、3000語知っていればいいか。言語生活がよく営めるには、3000では間にあわない。3万から5万の単語の約半分は、実のところは新聞でも1年に1度しか使われない。一生に1度しかお目にかからないかもしれない。しかし、その1年に1度、一生に1度しか出あわないような単語が、ここというときに適切に使えるかどうか。使えて初めて、よい言語生活が営めるのです。そこが大事です。語彙を7万も10万ももっていたって使用度数1、あるいは一生で1度も使わないかもしれない。だからいらないのではなくて、その1回のための単語を蓄えていること。
 例えば「味」についていえば、「味得(みとく)する」という単語があります。これは確かに使用度数は少ない。今やもう、ほとんど使わなくなっているけれど、なにかの時に「それが味得できた」と使うことでピタッと決まることがある。「深い、かすかな味わいが分かった」では、文章の調子、文体としてだめなときがある。文章を書くには、1度使った単語や言い回しを2度繰り返さないという文章上の美意識がある。それに触れる。何か別の言い回しが必要になる。そのとき、その書き手がどれだけ語彙をもっているかが問題になる。類語辞典が役立つのはそういうときです。
 なんでもかんでもむずかしい言葉をたくさん覚える必要があるといっているのではありません。そのときどきに、ピタッと合う、あるいは美しい表現ができるかどうか。それが問題です。それが言語の能力があるということです。歌人や小説家が辞書を読んで単語を覚えようとしたのは、そういうときに備えたいからです。だから、読み手もその細かい心づかいにつきあうだけの感度をそなえていなくてはいい読者といえません。〉(大野晋著『日本語練習帳』、岩波新書596)

 少々長くなりましたが、これは、本会が活動を開始したころに、会員の皆様にお願いして作っていただいた漢点字書の1冊です。
 『漢字源』の漢点字版に着手する前に、私は、今後どういう本を漢点字訳するのがよいかということを、考えました。これまでの点訳・音訳の活動を見ておりますと、まず世の中でよく読まれているものから作られているようでした。確かに話題性のある本から作るというのも、1つの方法と言えます。たまたまそのような本がない場合もあります。そういう時は、書店に行って、平積みになっているものから選ぶ、ということが行われていました。現在もそうかもしれません。
 しかしながらそういう本は、何年かすれば忘れられてしまうという憂き目に合いがちなもので、私と致しましては、折角お集まりいただいた会員の皆様にお願いするのですから、何時読んでも古くならない、しかも分かり易いという、矛盾に満ちた希望の元に選書しようとしていました。そういう悩みを墨田区の図書館にお勤めの山内さんにご相談した時にご紹介いただいたのが、この『日本語練習帳』(大野晋著)という本でした。
 この本の体裁は、書名の通り「練習問題集」というもので、大野先生が課題を出されて、読者が考えて答えを出すというものでした。そして先生が提示された模範解答を見、解説を読み、読者が検討して先生のお考えを理解し、自らの理解を再検討するというものでした。
 しかし読み進めている内に分かって来ることは、いわゆる練習問題集とは違うなあということで、ここで扱われている問題は、学校の試験問題には出て来ないものだということです。むしろ、学校では教えないことばかりで、しかも日本語を聞き、読み、発言するに当たって大変重要なポイントを占める事柄ばかりだということでした。
 例を挙げれば、私たちは「…と思います。」とか、「…と考えます。」という言葉をしばしば使います。「思う」と「考える」という語を、同じように使うわけですが、この2つの語が、別の異なる語だということは、よく知っている積もりでもあります。とは申しても、「思います」「考えます」と使用する時は、どこまでそれを意識しているでしょうか、ということでした。
 先生は、こういう語の意味する範囲をよく見極めることが大事だとおっしゃいます。そして「思う」という言葉と「考える」という言葉が、どういう場合に交換可能か、また、どういう場合に交換ができないかを知っておくこと、考えておくことが大事なのだとおっしゃって、幾つかの例を挙げて説明しておられます。「思う」と「考える」という単語の意味は、それぞれに1つの範囲を占めていますが、その範囲も、ぴったり重なる訳ではありません。ぴったり重なっているのであれば、この2つの言葉の1つは必要なくなります。この2つの語は、本来は別の単語ですので、本来はぴったり重なりません。ところが、どちらを使っても意味としては通用するのですから、その意味の範囲が、どこかで重なっているようなのです。その意味の重なりによって、「…と思います」と「…と考えます」とが、交換可能ということになって、私たちは、軽い気持ちで、適当にその時の気分で、「思う」と「考える」を使い分けている積もりになっているようなのです。
 先生は、そういうところにもう少し慎重な対応ができれば、あなたの書く文章も、もっとスマートなものになりますよ、とおっしゃっておられました。
 右の引用文は、「語彙」について述べられたものです。「語彙」を豊かにすることが、言語生活を豊かにすることに繋がるのだ、とおっしゃっておられます。
 私はこの文章を読んで、私たちの脳が、その大半を使用されずに一生を終えるのだということを思い起こしました。脳は、その使われない部分を余力としてキープしていることで、私たちの頭脳として機能できるので、その余力の支えがなければ、その必要な余力の分だけ小さなものになるのであろう、ということなのです。
 「語彙」も、できるだけ多くの語を身につけることが肝要だということです。
 先生はこの引用文に先だって、1つのエピソードを紹介されておられます。ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、『広辞苑』を3冊反故にされたということです。それだけ『広辞苑』を開いておられたということです。作家として、どれだけ「語彙」を持つことができるかが、生命線だと考えておられたと言うことでした。誠に想像を絶することです。
 また1つ、思い出しました。
 何方が言われたかすっかり忘れてしまいましたが、「量が質を決定する」という言葉があります。この意味はよく分からなかったのですが、この「語彙」のお話しからしますと、同様のことを言っているのか、と腑に落ちた思いがしました。

 さてここで私は、はたと気付くことになります。
 大野先生が「語彙」について述べられました。確かに貴重なお話しですし、私にとって大変参考になるお話しでした。
 しかし、ここで言われる「語彙」とは、文字で書かれた言葉のことのようで、音声言語しか知らない者は、このお話しを参考にすることはできないのではないか、と気付かされたのでした。
 私も29歳まで文字の世界を、日本語では文字と言えば漢字を指しますが、知りませんでしたので、この「語彙」と言われても、現在の視覚障害者の大半が、漢字を学ぶ機会を与えられていないままになっている現状を思いますと、この「語彙」は、視覚障害者には縁の薄い言葉に違いありません。場合によっては暴力とも受け止められかねないことかもしれません。「語彙」を豊かにせよ、うんそうだ「語彙」を豊かにしよう、と思っても、現在の視覚障害者にはそれは叶わないのです。
 現在の視覚障害者の言語の情況を、この「語彙」の角度から見てみましょう。
 漢字を学ぶ機会を与えられずにいる視覚障害者は、日本語を母語とする限り、無文字のままに置かれていると言えます。
 日本語では、漢字の読みには音読と訓読があります。逆に言えば、音読と訓読があるのが日本語で使用される時の漢字です。音声言語しか使えない者である視覚障害者にとって、その音読や訓読は、無いに等しい概念であると言えます。その中心となる漢字の知識を学ばなければ、単に音声としての言語としてしか、知り得ません。
 例を挙げますと、「後」という漢字があります。音読は「コウ・ゴ」、訓読は「うしろ・あと・のち…」です。
 これを漢字の知識のない人が耳にした場合、どのように受け止められるでしょうか。訓読の「うしろ・あと・のち」は、ばらばらの「うしろ」、「あと」、「のち」と、3つの単語として受け止められることになるはずです。それに音読の「コウ」と「ゴ」、語の数としては5つの単語として受け止められて、別々の語と捉えられるのではないでしょうか。
 そこに漢字の知識を持ち込みますと、音読の「コウ・ゴ」と、訓読の「うしろ・あと・のち」が、「後」という漢字によって結びつけられて1つの文字とその読みとなります。
 「語彙」として見ますと、「コウ」「ゴ」「うしろ」「あと」「のち」の5つの読みは、そのまま5個の「語彙」となりますし、それを取りまとめた「後」という文字も、「語彙」の1つとなります。「後」という漢字がそこに存在するかどうかで、ばらばらになったり1つにまとまったりするということで、漢字の知識がどれだけ重要なものかということが知られます。
 それでも「後」の訓読は「うしろ・あと・のち」と、意味的には共通するところがありますので、音声言語しか持たない視覚障害者にも、「後」という漢字があるのだ、と言えば、それなりの理解を得られるかもしれません。しかし漢字は1つ2つではありません。数多く、複雑です。一筋縄では参りません。
 「究」と「窮」という文字があります。どちらも音読は「キュウ」、訓読が「きわまる・きわめる」です。それなら同じ意味の文字かと言えば、そうではありません。
 「究」の訓読の「きわまる・きわめる」は、学問や技芸を研ききわめること、追究し探究することです。「研究」とか「究極」という音読の熟語を作ります。
 「窮」の訓読の「きわまる・きわめる」は、追い詰められて抜き差しならない状態になることを意味します。「困窮」、「窮鼠猫を噛む」、「進退窮まる」と使われます。
 どちらもその訓読は、行くところまで行くということを表すものですが、意味としては、正反対を示す文字とも言えます。この2つの文字では、「きわまる・きわめる」という同じ訓読が当てられていますが、もともとこの訓読の幅が広く、その幅の端と端とでは正反対の意味ともなっていたのではないかと考えてよいようです。2つの漢字がその意味を分担して現在のように使用されるようになったのでしょう。どちらも音読が「キュウ」ですので、音声言語しか持たない、漢字の知識の希薄な視覚障害者には、判断するのは、極めて困難な文字だということができます。(ここで、訓読の幅と申しました。便宜上そのように説明してみましたし、間違いではありませんが、むしろ「きわまる・きわめる」という訓読に、「とことんまで押し進める」という意味と、「行き詰まってくるしむ」という意味があると理解するのが一般だと思われます。)
 「究」と「窮」のように、訓読の指示する意味の範囲が広く、幾つかの漢字がそれを分担する例は沢山ありますが、この2つの文字のように、音読も同じという文字は、多くはありません。もう1組挙げれば、「所」と「処」です。
 この2つの文字の音読は「ショ」、訓読は「ところ」です。しかもその意味もほぼ同じと言ってよい文字です。
 ところが使用される熟語を見ますと、「場所」「住所」「所在地」、「処理」「処分」「処置」と、厳然と分けられています。見事なほどに、使い分けされています。しかしこれは、それほど古いころからではないようで、明治から昭和の初期にかけての文章には、「処」を訓読の「ところ」として使用されたり、現在では「所」が使われるところに「処」が使われたりする例が少なくありません。現在のように、文字の意味とは別に、その熟語上の使用がしっかりと分けられているということにも、興味を惹かれます。
 以上のように、音声だけの言語生活をしている現在の視覚障害者にとっては、漢字という文字の存在は知っていても、そのままでは漢字を学ぶ機会を得られません。従って、「語彙」を豊かにしたいと希望しても、その方法はありません。

 ここまで考えて参りまして、私どもの活動は、何をやって来たのかと、しばし立ち止まって見る気持ちになります。
 音声言語しかない現在の視覚障害者の大半を対象に、「語彙」を豊かにしよう、と声を上げるということを私は行っています。右に述べて来ましたことから、こういう呼びかけは、極めて矛盾だということを、残念ながら認めざるを得ません。どう矛盾しているかと申せば、漢字の知識のない人々に対して、日本語は漢字に支えられているのだから、漢字で書かれる言葉を数多く習得しようではないか、こういうことを申し上げているのだということです。漢字を使用できない人々に、漢字を使った言葉を沢山覚えようと言っているのです。
 もしこのことを矛盾無く進めるのであれば、「語彙」を増やす前に、「漢字」を学ぶことから勧めるはずです。「漢字」を習得しますと、その過程で、「語彙」も次第に増えて行きます。「漢字」の学習こそが、視覚障害者の精神活動を、そのまま豊かにしてくれるのだということなのですから、そこから始める必要があるのです。その道筋を辿れば、漢字の知識のない人に、「語彙」を増やそうなどと、矛盾に満ちた言葉を発する必要がなくなります。
 ところが、ここで私は次の矛盾に行き当たってしまいます。
 漢点字を学んで、漢点字を使って生活していると称する視覚障害者の人たちも、私の知る限り、本を読もうという動きがほとんど見られません。点字の漢字である「漢点字」を学んでも、読書には、なぜか結びつかないのです。
 ずっと以前のことですが、私は漢点字使用者の人に、「本を読みましょう」と言ったことがありました。そうしますと、「本を読むのは個人の自由ではないでしょうか。あなたにそのようなことを言われたくありません。」と言う声が返って来ました。本を読むのは自由意思によるのだから、あなたに強制されたくありません、というのでしょうか。私は意表を突かれた思いで、慌てて「強制なんかしません。」と言いましたが、聞く耳を持たれなかったようです。(一般社会で「読書をしましょう」と言っても、取り立てた反応はないのが普通ですが、視覚障害者にこのように申しますと、強烈な反応が返って来ます。)
 思えば、大野先生もこの本を著すに当たり、現代人の「語彙」の減少を嘆いてのことだと言うことが、引用の文章から読み取れます。日本の一般の社会で行われている言語活動である「漢字仮名交じり文」で読み書きしている人たちも、その言葉を失い続けているのが現状だとおっしゃっておられるのです。そこから勘案すれば、現在の視覚障害者が努力して漢字を習得し、読書に励むという姿を思い浮かべるのは、非常に困難だという結論に達するのは、誠に容易です。
 これもずっと以前に、「識字」ということを考えたことがあります。「識字」とは、文字通り「文字を知る」ことです。そしてこの「識字」は、一般には「識字率」という語としてだけ通用されています。本来は「識字」で1つの語なのですが、使われる時は、「率」を伴ってだけ使われるのが一般です。
 私は「漢点字」の普及活動を、「識字運動」と位置づけて行おうと思いました。そこでそのことを漢点字使用者の人たちに申し上げようとしましたが、耳を傾けて下さる方はおられませんでした。その後、私は、もし「漢点字」の普及が「識字」であるなら、現在の視覚障害者を、「非識字者(文盲)」と位置づけることになって、その意味ではそのようにレッテルを貼る(当事者からすれば張られる)ことに気付いて、このような表現はなおさら反発を買うであろうと思い、控えることにしました。私自身は、漢点字習得以前の私を、その当時(盲学校在学中から漢点字に出会うまで)、既に「非識字者(文盲)」と位置づけるのに躊躇はありませんでした。従って私は、「漢点字」を学ぶことによって、「非識字(文盲)」の状態を、何とか克服できたものと理解しております。
 触読文字では、「漢点字」以外に「漢字」を表す文字はありませんし、これまでの本会の活動を通して、「漢点字」が、少なくとも現在わが国で使用されている漢字に対応して、漢字として充分使用に耐え得る触読文字であることは、証明されたと考えます。その意味で、視覚障害者が「漢字」を習得するためには、この「漢点字」を習得するしかないというのが、私が到達した結論です。それを押し進める活動は、やはり「識字運動」と位置づけるのがふさわしいと、私には思われます。
 ところで、この「識字」については、一般的にはあまりに普通のことであるためか、ほとんど資料がありません。私の調べが不十分なのかもしれませんが、どこから調べればよいか分からないほどに、「識字運動」の実際についてはそのドキュメントのようなものはありますが、「識字」の概念や「非識字」の克服方法についての資料はほとんど見あたりません。
 そこに、短編小説の形で、「非識字」を巡る悲劇を描いた作品を見つけました。正面から「識字」を扱ったものではありませんが、この作品から「識字」を除くことのできないほどに、重要な位置を占めています。「今日の日はさようなら」(二瓶哲也『文學界」2013年9月号)、非識字者の苦しみと、未熟な少年の心情のすれ違い、主人公である、少年の異父弟の心の動きが描かれ、そこから来す悲劇で団円となります。
 残念ながらここには「識字」についての考察はありませんが、私が知っている作品や解説書に、「識字」を取り上げたものは、今までにありませんでしたので、目を見張るものを感じました。
 考えて見れば「識字」は、文字を読み書きする人のもので、文字を読み書きできない人「非識字者(文盲)」は、文字で表されるものに手を染めるということはあり得ないわけで、「非識字」に関しても、「識字」の立場から、「識字」を進めようという主張を述べる以上のものはないのは当然だということに、私も遅蒔きながら気付かされました。
 以上が漢点字訳書の製作、漢点字の普及活動という本会の活動を通して、私が学び得た事柄です。
 横浜漢点字羽化の会は30年の活動を終えます。後世の皆様に何かが残せればと念じて、活動を行って参りました。将来的には、私どもの活動を批判的に評価し、後の視覚障害者の非識字の状態を払拭すべくご尽力下さる方の出現を、お待ち致します。点字毎日様が、このことを記事にして下さいました。ご精読いただければ幸いです。
前号へ トップページへ