「うか」072  トップページへ


  一 言
                    
岡田健嗣


 「いつもより1、2両前すぎますわ」
 2両目に乗っていた伯鶴さんは、一緒にいた落語作家の男性(59)にそう話した。いつもは4両目付近に乗っている。自宅最寄りの三国駅では、改札に通じるエスカレーターに一番近いからだ。
 「後ろに行きますか」と男性が尋ねると、伯鶴さんは「慣れてるから大丈夫」と答えたという。
 上方落語の定席「天満天神繁昌(はんじょう)亭」での寄席が8日に控えていた。この日は打ち合わせを兼ね、男性らと計3人で大阪・梅田で会食した帰りだったという。
 淀川署によると、伯鶴さんは下車した後、白いつえを持ってエスカレーターのある南の方に歩いたが、突然向きを変え、北側のホーム先端に向けて点字ブロックの上を歩き出した。電車が動き出した直後、線路側へずれて車両へ近づいていき、電車に接触。ホームと車両の間に体の一部を挟まれたような状態のまま、約15メートル引きずられていったという。
 駅によっては、点字ブロックの横に、どちらがホームの内側かを示す凸型の線「内方(ないほう)線」を敷設しているが、三国駅にはなかった。ホームに駅員はおらず、車掌も運転士も事故には気付かなかったといい、電車はそのまま走り去ったという。
 落語作家の男性は「とても慎重な人なのに。方向を見失ってしまったのかもしれません」と話す。(以下略)
     (朝日新聞2008/12/01号)


 昨年十一月末の事故である。
 笑福亭伯鶴さんは、上方落語の落語家で、大阪府立盲学校出身の視覚障害者である。私が伯鶴さんの声を聞いたのは、日本ライトハウス発刊のテープ雑誌「声のジャーナル」にお出になっていたときである。その後同誌は、全国貸し出しをしないことになり、耳にしなくなった。点字新聞の「点字毎日」には、毎月「ごきげんさん」というエセイを寄せられていた。
 点字毎日の報道では、伯鶴さんの怪我は、脳挫傷と両足骨折とある。幸いにして意識は回復し、足の怪我が治り次第、高座への復帰を目指したいと意欲を燃やしておられるという。
 右の記事にはその後に、安全対策として点字ブロックの敷設の仕方や、開閉柵の早期の設備などが、提言として取り上げられていた。
 一人歩きする視覚障害者(全盲)は、恐らく乗り物の事故に遭った経験のない者はいないと思う。筆者もその一人で、何度かホームから転落している。若い頃は点字ブロックはなかったが、敷設されても、やはり落ちた。
 その時駅員から言われたことが、今も心に残る。
 「点字ブロックがあるのに、なぜ落ちるんですか?」
 私が関わっている会社のガイドヘルパーには、視覚障害者がどんな気持ちで一人歩きしているか知ってもらいたいので、時折こんなことを言う。「目を開いていてもいいですから、点字ブロックをレールに見立てて、その上を逸れないように歩いてみて下さい」。どんなことが起こるか試してもらいたいからである。読者諸兄姉にもお試しいただければ幸甚である。
 電車の車両の連結部分にホームからの転落防止のカバーが付いた。
 視覚障害者は、車両の連結部を開いたドアと間違えることがちょくちょくある。乗ろうと思う途端に車両と車両の間に落ち込むのである。落ちないにしてもそのような危険に遭遇した経験のない者はいないはずである。従ってこのような処置は、極めて有効だと言ってよいだろう。というのは、一人歩きの視覚障害者が電車に乗るとき、開いたドアに直進することはまずない。停止した車両を確認して、それに沿ってドアを探す。止まっている車両は、動かずにいる限りホームとの間の幅や人の動きを確認するなどの、安全なガイドになるからである。そうして従来の電車では、連結部を、ドアと間違えて、転落の危険に曝されることになる。
 ホームに開閉式の柵を設けるというのは、転落や電車との接触事故防止には、極めて有効に違いない。しかし私の知る限り現在設備されているのは、新幹線のホームと、横浜では市営地下鉄の全駅、東京では地下鉄南北線と都営三田線だけである。JRでは、山手線と山手線の内側の駅に設置すると発表しているが、実現はまだ先のようである。
 開閉式の柵の設置を困難にしている理由は何だろう。先ず思い浮かぶのがコストである。相当の金額がかかりそうである。
 次に気付くのが、車両の多様さである。私が常時乗降する京浜急行線では、同社の車両だけでもドアの位置の違う車両が何種類かある。さらに都営地下鉄、京成線、北総線と乗り入れしているために、他社の車両も走っている。それらのドアの位置はどうなっているのだろうか?
 その次は、駅がカーブの場所にあることである。開閉柵の設置を困難にしているかどうかは分からないが、安全性を確保するためには、別の工夫が必要に思われる。
 最後に思いつくのが、柵の強度である。横浜市営地下鉄ではさほどの混雑はないように見える。が京急線やJR各線のラッシュ時の混雑は言語に絶するものがある。先達てJR京浜東北線が止まって、京急線に振り替えの乗客が殺到した。その電車に私も乗り合わせてしまったが、電車が弾けるのではないかと心配になったほどの混雑だった。こんな時には柵にも大きな負荷がかかるに違いない。
 市営地下鉄に開閉柵が設置されて、思わぬ利点があった。転落と車両との接触の危険がなくなったことから、ホームの幅を、そのまま利用できるようになったのである。柵がなければ黄色い線の内側を歩かなければならなかった(これが視覚障害者にとって一苦労なのだ)が、柵によって、その内側はどこでも安全になって、結果的にホームの幅が広がったのである。
 障害者自立支援法という法律ができた。ガイドヘルプというサービスが、公的なサービスとして運用されるようになった。事業として実施されることから、ガイドヘルパーに課せられる責任は、これまでの付き添いとか介添えとか呼ばれるものより格段に重くなった。
 そしてこのサービスは、全国的には地域の格差が大きいこと、利用できる時間が少ないことに加えて、利用内容が余暇や通院に限られていて、職業上の外出や通学には利用できないなどの制限がある。(このサービスについては、稿を改めて考えてみたい。)
 今回の伯鶴さんの事故も、制度に暖かみがあれば、なかったものかもしれない、と私は密かに思った。

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