「うか」077 連載初回へ  トップページへ

  わたくしごと

                      木村多恵子

 地歌箏曲に「残月」という曲がある。作曲者の峯崎勾当(みねざきこうとう)の門人に、宗右衛門町の松屋某の娘がいた。その娘は才媛であったが若くして世を去った。その追善供養につくられたのがこの曲だと伝えられている。
 峯崎勾当は、初代豊賀検校(とよがけんぎょう)の弟子で、大阪で活躍した。三弦の名手であり、優れた作曲家で、今なお沢山の曲が、各流派で演奏されている。しかしながら確実な生没年は分かっていない。ただ、恩師の豊賀検校のための追善曲「袖香炉(そでこうろ)」が天明5(1785)年につくられ、文政4(1821)年には、上方の歌舞伎役者嵐璃寛(あらしりかん)のための追善曲「袖の香(そでのか)」がつくられていることは分かっている。
 中塩幸祐(なかしおこうゆう)氏は、勾当は生涯独身で通したのではないかと推察している。なぜなら、彼の作品以外、私的なことはなにも分からないのだと言う。

  「残月」の歌詞
 磯辺の松に葉隠れて、
 沖の方へと入(い)る月の、
 光や夢の世を早(はよ)う、
 覚めて真如の明らけき、
 月の都に住むやらん、
(手ごと)
 今は伝(つ)てだに朧夜の、
 月日ばかりは廻(めぐ)り来て。
 (通釈−磯辺の松の葉に隠れて、沖の方へ沈んで行く月はあの方であろうか。夢のようなこの世の迷いから、早く目覚めて、悟りの世界の澄み切った月の都【極楽浄土】に住んでいるのであろうか。
 今は伝【つて、伝言】する行方さへおぼろになり、月日ばかりがめぐってくる。)


 気高く気品に満ちたこの曲は、詩を見ても分かるように、深い情を感じる。
 曲全体を聴くと、ゆっくりした前弦(まえび)きからはじまり、前唄(まえうた)は渋く重々しい。そして手事(てごと)は、技巧の限りを尽くした五段のちらしは、華やかながら、けっしてきらきらしすぎない。むしろ、いぶし銀のような深みがある。この華やかさのある調べには、死者に手向ける献花の意味があるという。後唄(あとうた)はかなり短いが、哀切きわまりない悲しみが伝わってくる。そしてたっぷりと余韻を残し、初めて聴いた曲なのに、いつまでも忘れることができない。鎮魂と追憶とが凝縮されている。
 「残月」はこのように格調の高い、均衡の取れた出来栄えから見ても、勾当が、夭折した弟子の死を、どれほど惜しんでいたかが容易に推測される。磯辺の松の葉に隠れて入ってしまった月は、この娘なのである。松の葉に隠れても、彼の心には澄み切った月が映じているのではないだろうか。
 後唄の、いとおしい人は去ってしまい、別れて、もう語りあえる相手はなくなり、月日ばかりがむなしく過ぎてゆく。こんな悲しい思いを経験している人は多いのではないか。わたしたちの心を打つのは、こんな共通性をもっているからであろう。
 松屋某の娘が何歳で亡くなったのか、そのとき峯崎勾当が何歳であったのか、確かなことは分からない。幾つかの解説を見ると、「残月」という曲名は、娘の法名「残月信女」からとったのだと言う。また、中国の「杜子美(としび)」の詩によるものだということも分かった。
 わたしがこの曲を初めて聴いたのは、もう三、四十年も前の、知人のお琴のおさらい会へ行ったときである。なんとも言えない荘厳さ!しかも手事の部分では華麗である。曲名も作曲者も、どなたが演奏しているのかさえわからなかったが、ただ心が引き締まるような想いがした。
 お琴のおさらい会というのは、1人(あるいは2人)の師匠の門人たちの、日頃のお稽古の成果を発表する会で、1日に30曲近く、お琴や三味線が演奏される。わたしが初めて行ったおさらい会は、プログラムの一切を読んでいただかなかった。その日、聴いていると、この忘れがたい曲が出てきたのである。あとでプログラムを見ていただいて、峯崎勾当の「残月」と分かった。それから何度かこの曲を聴いているうちに、ラジオの邦楽の時間で、勾当の門人の中のひとりの娘が夭折し、その追善に作曲されたのだと知り、その気高さの訳が理解できた。そして最初に思ったのは、若くして逝った娘の無念さ、肉親たちの悲しみ、恐らくこの道に秀でた才能を持ち、心根の優しい人柄をも想像され、師匠の勾当から大切にされたであろうことなど思い合わせて、この高貴な曲が生まれたのだろうということである。
 わたしは友人からいただいた、2種類の違ったタイプの「残月」のカセットテープを持っている。京、大阪系の「残月」を代表するような、米川文子さんと米川敏子さんのお琴と三弦のものと、九州系を代表する矢木敬二さんの三弦と山口五郎さんの尺八の演奏である。今のところコウオツ付けがたい魅力をもっている。ときどきではあるけれど、気分に併せて楽しんでいる。
 * 参考:「山戸朋明のホームページ」、「邦楽入門」(杉昌郎、文献出版)、「邦楽百科辞典」(音楽之友社)、「先師の足跡」(中塩幸祐、日本盲人会連合音楽部会)
 「生田、山田両流琴歌全解」(今井通郎、武蔵野書院)、その他
                             2009年12月3日

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