「うか」081 連載初回へ  トップページへ

               わたくしごと
                                   木村多恵子
 言葉とはおもしろいもので、たった一つの単語が、どんな言葉と結びつくかによって、当然ながらその語のもつ意味合いが多様に変化する。
 たとえば「好」というプラス思考の単語でも、繋がる言葉によってはマイナスの意味にもなってしまう。
 「好」という単語に関わる言葉を、「故事ことわざ辞典」〔創拓社、鈴木棠三(とうぞう)、1992年版〕で見ると、
「好かば心得よ」
「好きな道なら学べ」
 この警句には、そうだそうだ、と大いに発奮させられる。
 次に、「好き添いは離れやすい」、「好き連れは泣き連れ」というのがあった。え?と驚いて説明を見ると、「恋愛結婚の場合、好いた者同士、添い遂げたものは少ない」とある。
 わたしにはこの意味がよく分からない。本当だろうか?と疑っている。けれども先人の経験の積み重ねから作られた言葉なのだから、それなりの根拠はあるのだろう。誰でも異性を好きになり、結婚しようと思うとき、相手をまるごとぜーんぶ好いているのではなく、先ず、相手の美点に惹かれ、やがて弱点も見つけ、自分の欠点を顧みつつ相手の弱さを冷静に判断し、受け入れられる程度か考え、折り合いをつけながら愛が優先すれば、結婚を決めるのだと思う。相手の欠点を見ずに、ただ好きだというだけで結婚すれば、いろいろな場面で少しずつ「あれ?こんなことが違う。こんな考えかたをするのか」などと、自分と相手との相違に気づくことであろう。この「相手との相違」を感じるのは、一方的ではなく、お互いに感じ合うのであるから、ずれは更に大きくなる。こうして生活のほころびが結婚の破綻を招くことになるのであろう。多分「好きだけでは、やっていけないから、よく考えなさい」との注意を込めてのこの言葉なのだと思う。
 「好きなことには騙されやすい」
「過ちは好むところにあり、好む道より破る」というのもある。興味を持つ事柄には、つい深入りして、人の企みに陥りやすいということのようだ。これは、かなり多くの人が経験していると思う。「人の企み」というより、わたしは「誘惑に負ける」と考える。
 「好きには身をやつす」は、好きなことのためには、身が痩せるほど苦心してもいとわない、ということだ。「好きなものに祟りなし」は、そんな辛苦の結果が実りをもたらし、大きな成果を上げること、つまり、努力は報いられるということではないだろうか?
 その他、よく知られた言葉に、「蓼(たで)食う虫も好き好き」や、「本業を忘れて好きなことだけやっていると、子を飢えさせる」という意味合いのものもあった。
 また、「好きこそものの上手なれ」の反対に、「下手な横好き」という言葉もよく知られている。この二つの短文に共通する語は、「好き」という一点にある。この「好き」ということが、どちらにもよい作用をし、粘り強く、目的に達しようとする力をもたらす。そして実際「上手な方(かた)」は、それを生業(なりわい)とする粋にまで達する人も沢山いる。つまり「上手」タイプの人は職業になる。
 一方「下手な横好き」タイプは自分のレベルに合わせたやり方、「趣味」として充分楽しめばよい。
 それにしても、「好き」という感情を理解しはじめたのはいつ頃、どうしてであろう。わたしを大切に、ごく自然に見守り乳を与え、オムツを変え、暑さ、寒さ、あらゆる危険から守ってくれた母の絶対的な愛が、わたしに「安心」を与え、「安らぎ」をもたらしてくれたことからではないだろうか。これは、おそらくそれと気づかずに受け入れてきたことだ。けれども、少し大きくなって真夏の日照りの中を4キロの道のりを一所懸命歩いたあとに、冷たい井戸水を汲んで飲ませてくれた母、高熱を出して苦しんでいるとき、真夜中に遠くの魚屋へ氷を分けてもらいに行ってくれたこと、(これは、わたしが元気になったとき、姉からその話を聞き、真夜中に一人で歩いて行ったとき、お母さんはどんなに怖かっただろうと想像して、母のありがたさを感じたのである)。似たような経験は誰にもあるであろう。こういうことの積み重ねが母を愛し、人を愛し、それが「安心」に、そして「好き」へと変化してゆくのではないかと思う。もしかしたら、このような感情はほとんど誰にも共通しているのかもしれない。この「安心」と「安らぎ」の感情が「好き」のエッセンスではないかとわたしは思っている。
 わたしが小学3、4年のころ、母が病気になったとき、わたしは母を失うかもしれない不安を抱えた。わたしにできることは祈ることであった。そして小さな言葉とメロディーが自然にこぼれ出た。もちろん人に聞いて頂けるようなものではないが、わたしなりに、わたし自身はなんとなく安心したのである。音楽への憧憬はこんな小さなことからのようにおもう。
 今回「好き」という言葉にこだわったのは、わたしが好きなこと、たとえばお花や音楽、読書といったものを好きとはいえ、上手にできるものはなにひとつないということから、「わたしは全て下手な横好きだな」と残念に思っているからである。けれどもこのごろではわたしなりの喜びでいいではないかとも思う。確かに「上手」タイプの方が沢山いらっしゃるし、そういう方を羨ましいとも思う。わたしはそのように長(た)けた方から、いいものを少しずつ分けていただけば、それはそれで充分楽しめるのではないか。「上手さん」を羨ましがったり、できない自分を残念がらずに、積極的に「わたしの好きなこと」を、わたしなりのやり方で深めてゆくこと、好きなことの小さなかけらを沢山持っていて、「好きこそものの上手なれ」タイプの方から少しずつ分けていただいて、そのかけらをだんだん大きくしてゆけば充分幸福なのだと思う。
                                  2010年7月20日 火曜
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