「うか」085 連載初回へ  トップページへ

               わたくしごと
                                   木村多恵子
 2011(平成23)年3月11日、金曜日午後2時46分、突然足下(あしもと)からゆらゆらと揺れてきた。「地震だわ」とつぶやくと、たちまちその揺れは大きくなり、横揺れが激しくなったので、流しもとに立っていたわたしは、荷物の少ない部屋へと姉と移動した。都営アパート14階建ての9階がわたしの住まいである。耐震構造建築のために、横揺れが大きい。地震を感じると、何時もわたしは、自分が居る場所が最高の震度であればいいなと思う。それなら被害はそう大きくないと思えるからだ。今日の揺れはこんなに大きい。どうぞこの辺りが一番大きい震度でありますように、と今日も願っていた。
 片手は柱に捕まり、もう片方は姉に捕まっていたが、姉が、「ボックスが倒れそうだから押さえるからね」と言った。わたし1人だったら、ボックスが揺れていることに目と心が行き届かずに、もしかしたらボックスは倒れたかもしれない。
 なんという幸運だろう。1人暮らしのわたしなのに、この日、この時間のほんの少し前に、偶然姉がわたしの所へ来ていたのだ。たいていは外で待ち合わせるわたしたちなのに、この日に限って少し用事があって、先に我が家へ寄ってから一緒に出かけることにしていた。しかもこの時間、用事が済んで、お茶を飲んでから出かけようと、お茶の支度のために流しもとに立ったところだった。
 もしこの時間にエレベーターに乗っていたら閉じ込められただろう。あるいは電車に乗っていたら、これも苦労したことだろう。
 お茶道具もなにも出ていず、熱いお湯での火傷もせず、サッシその他のガラスも異常なく、たったひとつ、トイレのタンクの水がこぼれただけで済んだ。
 まだ揺れているうちにラジオをつけると、東北が震源地だという。わたしが居る東京がこんなに大揺れしていても、ここなど本当はたいしたことではないのだ。震源地は遠く離れた宮城、福島、岩手、山形、青森、秋田だというのだから、現地はどんなに大きく揺れ、被害も相当なものになるだろう、と戦慄が走り、全身は恐怖に凍り付いた。
 ラジオからは地震警報が鳴り続け何回も余震が起きた。その度に、東北地方が、更に揺さぶられているのだと思うと気が気ではない。速報を聞いていると、茨城、千葉の被害も大きいと報じている。
 本震と第1の余震が終わると直ぐわたしは、停電することを考えて、お米を研ぎ御飯を炊き始めた。もしかしたら炊き終わらないうちに停電になるかもしれないが、姉が帰るにしても食べていってもらいたいし、もし歩いてでも帰らなければならないとすればおにぎりを持って行った方がいいと思ったからである。
 姉は自宅に電話をしたが、通じない。子供たちや孫たちへのケイタイメール送信は完了した。返信もポチポチ帰ってきた。15:10に兄(姉の夫)から電話が入り、兄も家も無事と分かった。電話が終わると、姉が、「お父さんがね、泊まってやれって言ったの」と言う。わたしは兄のこのご好意に甘えることにした。電車はだんだん、どこもここも不通になっていったようだ。
 わたしには、この大災害地に1家族、大切な知人がいる。姉がケイタイで連絡を取っている間、わたしはその家に、難しいとは思いながらもかけずにはいられなかった。コール音はしても何方もお出にならない。お留守なのだろうか?大地震に耐えるために電話など出ていられないのか、それとも家が無惨な状態になって怪我をして動けないのか、あるいは他の電話に出ていて、キャッチが入っても切り替えるどころではないのか、不安が募るばかりである。
 …。災害地全体へのご迷惑を考えて通話を諦めた。そして、少し間をおいて再度かけたが、もう話し中の音である。更に時間を開けて3度の通話はコールどころか話し中でもなく無音になっていた。不安は増すばかりだがどうしようもない。皆さんが外出しているなら、それも大変だ。居ても立ってもいられない焦燥。けれども全く無力だ。
 ただラジオからの情報を聞いているしかないのだが、不安と恐怖と心配が先立って、沢山流れる情報の中から、今、必要なこと、わたしが知りたいことを冷静に聴き取って判断することができない。第一、地図が分からないわたしはA地域は震度7、B地域は死者百人などと言われても、わたしが案じている家族の住まいと、これらの地名との位置関係が全く分からない。
 ラジオでは、公衆電話の方が繋がりやすい、と伝えているので、近くの公衆電話にも行って試したが、結果は同じだった。
 どれほど沢山の人々がわたしと同じ不安を抱えて、この焦燥の中にいたことだろう。東北や関東の被災地は当然のことではあるが、姉が家族の安否を確認しているように、その他の地域でも、仕事に、学校に、その他いろいろな理由で、家族はバラバラ、知人のこと、親類、恋人のことなど、互いの安否を確認できるまでの不安を抱えて苦悩していたことだろう。
 いや、今これを書いている3月21日現在でも、被災地に関わる人々についてはますますその思いが深まっているに違いない。
 わたしの場合は、二晩一睡もできずに、ただ心配するだけの無力な時間を過ごしたが、13日日曜の朝、やっと、やっと、連絡が出来て、一応家族全員怪我もなく、御無事であること、家の中は散々になっているけれど、家全体はまあまあであること、ただ、ライフラインは全て絶たれていることが分かった。
 しかし、それ以後、現地は余震が続いていて、更に悪化してはいないだろうか、健康状態はどうだろうか、本震では無事だったのに、幾たびもの強い余震で、怪我をしたり、家の状態が悪くなってはいないだろうか?などと心配は尽きない。
 被災されたこの家族が必要だろうと思われる物資一つ運んでさし上げられないわたしは、これ以上こちらから連絡してご迷惑をかけることはできないのだ。けれども、本心はその特定の家族の状態を知りたい、が、あちらからの連絡を待つしかない。恐らく家の中の片付けや沢山の知人との安否確認を取り合っているだけでも、大変な思いをし、労苦していられるのだろう。

 この大揺れの直後、岡田健嗣さんが、早々に、日頃独りでいるわたしに「大丈夫ですか?」とお電話をくださったのをはじめ、何人もの友人知人、兄弟たちが連絡くださったことは感謝で一杯である。
 「偶然姉が一緒にいましたので」というと皆さん等しく「それはよかった」と言ってくださった。
 東京とその近辺の視覚障害者の仲間のことも気がかりで、メールや電話で問い合わせると、Aさんは知人と一緒にいたけれど、外出中で、やっとの思いで日付が変わろうとしている頃に家まで送り届けていただいたところで、怖くて眠れない、と12日の朝4時近くにメールへの返信があった。「暖かいものをお腹に入れて眠るのが一番では?」と書くと、「眠ったらもっとあの恐怖が倍増されそう」と返ってきた。
 Bさんは、「1人で自宅近くを歩いていたの、歩道を歩いていて、あんまり怖いのでしゃがんだら、誰かが側に立っていてくれたの、男の人か女の人か分からなかったけれど、治まったら近くのお店の人が、名前を呼んで、大丈夫?って声をかけてくれて、家まで送ってくれたの」とこれもなまなましい電話!
 Cさんはマンションの2階の自宅にいた。家の中は物もお落ちず無事であったが、マンション全体のタンクかポンプが故障して2日間断水したという。
 その他の仲間は自宅におり、怖かったとはいえ無事で、それぞれの肉親との連絡も取れたという。
 「羽化」の学習者の皆さんは、職場から同じ方向の人たち同士ティームを組んでタクシーで4時間かけて帰宅した人、職場と自宅が近いので同僚が家まで送ってくださったという人、ガイドヘルパーの方と自宅近辺を歩いていたので無事家まで送ってもらった、自宅で仕事をしていたが、こちらも問題はなかった、などというのを確認できて、ひとまずホッと安心した。この大きな地震に遭遇したひとりびとりの体験は、人数分の物語を作っている。
 この程度の揺れの中でもこんなに恐ろしい思いをした視覚障害者である。視覚障害者の仲間として名前だけは知っている災害地域の人もいる。本震のときの全体の様子をキャッチできない心細さを遙かに超した恐怖を想い、また、その後の不安と困難と緊張の中にいる、避難生活の毎日を考えると、わたしには耐えられないのではないかと思うほどである。
 障害は視覚だけではない。車椅子を使っている人、聴覚障害者、もっともっと重篤な障害者、当然体の弱い高齢者も、大災害地に沢山いるだろう。
 10日後の今もわたしはまだ本を読むことも、まとまったこともできず、ラジオを聞きながら、ただウロウロと部屋の中の掃除をしている。

 個人から個人への物資の配達はできないと聞く。今、わたしができることは、多くの人がしているように、洋服を重ね着し、暖房を切り、節水節電である。
 地震、津波による犠牲者は2万人以上と聞く。さらに原発の壊滅に近い脅威、放射能汚染が、これまでの大災害とは異なる永続的な恐怖が覆い被さっている。
 この問題は日本だけではなく、周辺諸国にまでいろいろな形で影響するだろう。少なくとも放射能問題はこれ以上状況が悪くなりませんように!そして沢山の犠牲者(死者も生者も)が味わった悲しみと苦悩の意義が、復興計画に充分生かされますようにと祈り願うばかりである。
                                 2011年3月21日(月)
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