「うか」078 連載初回へ  トップページへ

  わたくしごと

                      木村多恵子

 お花を嫌いな人は少ないと思う。たとえば、この花の花粉はアレルギーを起こす、かぶれる。ある種のお花はむしろ悲しみや辛さを思い出させるため、素直に愛でることができない、というようなことはあるかもしれない。けれども花を見て「いやだ」と拒否する人は少ないと思う。
 お花を好きな人は多いので、どこでもお花を見ることができる。家庭内では玄関、居間、食卓、寝室、トイレなど、それぞれ相応しい花器を使っての生け花、窓辺に置いた小さな鉢。庭に植えた花や、いつの間にか咲き始めた花木。どこにでもある公園の花壇。また、いつ誰が落とした種か、風が運んだのか、鳥や虫が運んだものか、石畳や土塀の割れ目から芽吹いた小さな花。山野に咲いているもの。そしてフラワーデザイナーが形を整え、彩りも見事に選りすぐった花籠。豪華絢爛たる祝宴の花、花嫁さんが持つブーケ。
 一方、亡き人を偲んで手向ける特別な花。
 花の種類も様々。日本古来の梅、桜、山野に咲いていた露草、ひとりしずかやほととぎす、つりがね草、シャガ、ホタルブクロ。洋花のラナンキュラス、アストロメリア。薫り高い百合や蘭の数々、大輪のシャクヤクやボタン、アマリリス。専門家が手入れを怠らぬ庭園の見事なバラたち。
 どれもこれも人々は、それぞれ時に合わせ、日常の心持ちに合わせて楽しんでいるとおもう。
 わたしの花の楽しみ方は、少しばかりの鉢物を置き、多くは切り花を買い求めて、その花のつぼみ、開花と、その盛りから衰え、枯れてゆくまでを見守っていたが、これはある意味でははかないものであった。とくに、枯れ果てたと思った花を捨てようとするとき、枝を折った瞬間、ふっと、その花の香りが匂い立つ。これはたまらなく切ない。まだ生きている花を死なせてしまったような傷みが胸を刺す。切り花とのお別れの一番いやなときである。
 ところが最近、小さな花たちをこよなく愛する友人ができ、彼女に手伝っていただきながら、種を蒔き、苗や球根を鉢に植えて育てる楽しみを教えていただけるようになった。
 まず土づくり、新聞紙を一杯に広げて、そこへ腐葉土と赤玉土の小粒とを混ぜる。これをそれぞれの鉢に入れるのだが、水はけをよくするために、鉢の底にネットを敷き、鉢底石を敷き詰める。その上に混ぜ合わせた土を、鉢の三分の一程度入れて、苗を置く。そしてまた土をかぶせる。更にここでわたしは、後で何を入れた鉢か分からなくならないように、鉢の外側に点字ラベルを貼る。
 簡単に言えばそんなことで、誰でも知っていることであるが、実際にやってみるとわたしはワクワクしてしまう。
 今、我が家のベランダに並べられた鉢は、花盛りのビオラ、ジュリアン、沈丁花、2種類の水仙。スノードロップとハナニラと真弓は出番待ち。花の盛りを終えたサフランとヒヤシンス。金の成る木は、今花芽が一杯着いている。(この金の成る木という名前は好きではないが、「クラッスラL」と学名ではピンとこないし気恥ずかしい)。
 新しく育て始めた花々は、香りがよいという理由で黄色を選んでいる。
 部屋の中には、これまでに集めたものやいただいたものなどのイングリッシュパイン、クミラ、マユハケ。葉っぱだけになってしまった胡蝶蘭。プレクトランサスというハーブ。この夏目覚めてくれるか心配な深山沙三(みやまさじん)。そして大きな鉢のトラノオなどである。
 どれもこれも水やり加減が難しい。花殻を丁寧に採って、新しい花を咲かせる余地を作ってやるのも結構難しい。
 ときには、我が家へ来てくださる友人たちが、一通りわたしの「楽しみ」を見回ってから、「お水やらないとかわいそうよ」と言ってくださったり、土や鉢や肥料を一緒に買いに行ってくださったり、土は重いから、と言って1度わたしを家まで送ってくださってから、自転車で荷物を運んでくださったりする。
 わたしのところにある花たちは、こんなふうに、わたしひとりで育てているのではない。
 毎日お花たちと話しをする。まず朝起きると、おはよう、と言う。今日はどの花がどれだけ咲いてくれたか、「お水欲しい?」、「いつ頃咲いてくれる?」、「お日様が一杯で気持ちいいね」、「昨日はこんなことがあったの」、「今日はどこそこへ行ってくるからね」などと、彼女らと話をしながら香りを楽しみ、葉っぱが元気か、一通り触ってみる。このような話しかけは切り花ともしていたが、花好きの人なら当たり前のことだ。
 新しく、それも第1輪が開いたのを見つけるのは、発芽を見つけるのと同じようにたまらなくうれしい。
 ところがある日、匂い水仙の第1輪が開いたのを見つけたとき、「あ!さいた」と思わず声に出したものの、自分でも不思議なくらい、いつものような飛び上がるような喜びがわき上がらなかった。うれしかったのは確かなのに!なぜ?なぜいつものように喜べないの?自分でも驚いた。それほどそのとき、わたしの心はふさぎこんでいたのだ。それでも香りを胸一杯に吸い込んでいるうちに、徐々に喜びが増してきた。お花たちに、喪失の悲しみを慰められていたあの日々のように!
 今は、春、夏に向けての「お花一杯」計画を立てることと、羊の耳のような柔らかい葉っぱが出るというラムズイヤーの苗を植えるのを楽しみにしている。それに、球根たちはお花の種類によって、少しずつ、お花が終わった後の手入れの仕方が違うというので、このお世話も忙しくなりそうである。
 そしてもうひとつ、去年はスターチスとミスティーブルーをドライフラワーにして玄関に置いていたが、古くなったので、今年は新しくドライフラワーになる花材を教えていただいて、すっきりしたものと取り替えたいと思っている。
                             2010年1月30日 土曜

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