わたくしごと
木村多恵子
我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし
(万葉集 2・105 大伯皇女 おおくのひめみこ)
二人行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (万葉集 2・106 大伯皇女)
この2首は『万葉集』の中で、かなり有名な歌である。高校の教科書で読まれた方は多いと思う。中にはいつの間にか、この歌を口ずさんでいる方もいるかもしれない。わたしもそのひとりである。
西暦686年、天武天皇崩御後、時代が持統天皇に移ろうとしていた頃、大津皇子(おおつのみこ)の謀反が発覚し、皇子(みこ)は、伊勢の斎宮を勤めている大伯皇女に密かに、最期の別れをするために伊勢へ下って来た。そのとき、弟の身を案じながら、皇子を見送る大伯皇女が悲しんで詠んだ歌がこの2首である。
歌の背景はともかく、歌そのものの意味はとても分かりやすい。
凍えそうな白々明けの中に、独り、女性が、道の遠くを伺うように見ながら佇んでいる。現実の寒さと、もうこれきり会えなくなる弟との別れの辛さと、皇子が謀反など起こしているとは信じがたく、不安と恐怖とで、寒さは一層身に染みて震えている。〈秋山〉とあるので、真冬の寒さではないまでも、「暁露にわが立ち濡れし」とあるから、冷たく濃い朝霧がたちこめていたのだと思う。どれほどの長い時間、ひとり佇んでいたのだろう。馬の蹄の音はとっくに聞こえなくなっている。いや、もしかしたら白々明けから、周りの風景がはっきり見分けられるほどの明るさになるまで呆(ほお)けたように立ちつくしていたかもしれない。
皇子の謀(はかりごと)が本当なら完全に殺されてしまうのだ。わざわざ皇子が伊勢まで来たのだから、覚悟をしなければならない。もしかしたら斎宮としての立場も変わるかもしれない。想いは千々に乱れたであろう。
この体も心も強ばって呆然としている彼女が、ふと皇子が今現実に山越えをしていることに想いが移り、この2首目が生まれたのであろう。この歌には何の説明もいらない。すんなり心に伝わってくる。
わたしは、とくにこの2首目がいろいろな場面に胸に浮かんでくる。
大切な人を遠くへ旅立たせるとき、母が子を独立させるときでさえも、相通するものがありはしないだろうか。
最近、白川静氏の『初期万葉論』(中央公論新社)を読む機会を得た。「横浜漢点字羽化」の方々が入力してくださったものである。
白川氏は、『万葉集』について語るとき、『万葉』と、中国の『詩経』の成立年代において、『詩経』は前9世紀を中心年代とし、『万葉』は8世紀前半を中心とするので、成立年代は、千数百年を隔てているが、いずれも古代詞華集として、成立する歴史的条件、および、文学的性格においても、両者が共通しているので、比較する価値があると考えている。
『詩経』はほとんど特定の作者がいない歌謡であり、『万葉』は多くの作者があり、その家集さえあるという相違があるものの、両者は、同じ古代詞華集であるとして、比較論証している。詳しいことは省くが、著者は、前期『万葉集』の作歌者とされるもののうち、物語的事件に関する歌は、ほとんど巫祝(ふしゅく)的集団によって伝承されたものであるという。従って、冒頭の2首も、後に上げる大伯皇女の歌とされているものも、全てが皇女(ひめみこ)の作とは限らないと言う。また、相聞歌が呪的な魂振歌(たまふりうた)に変わってゆくのだとも言っている。
実は、『初期万葉論』を読んでいて、そうだった、と昔を思い出した。高校のとき、最初に上げた2首をはじめ、何首かをひとりで読んでいて、大津皇子が、伊勢に居る姉に会いに来たとき、密かにとはいえ、皇子の行動が、誰かに見つけられ、密告されはしないだろうか。姉弟の間柄というより、これは恋するものの歌ではないか。それにしてもどうしてこの歌が他人(ひと)に伝えられ、知れ渡り、『万葉集』に載せられたのだろう。大伯皇女が詠んだものを、彼女の家のものが、後になって書き残したのだろうかと、ドキドキしながら考えた。
結局教師が、これは伝承歌だと説明するのを聞いて、ほっとしたような、がっかりしたようなことまで思い出した。
単純なわたしは、それ以来、『万葉集』を是非読んで見たいと思い、題詞と歌のみで、しかも仮名点字ではあるが、全巻、対面朗読という手段で、書き写させていただいたのである。
点字では短歌1首だけでも2行を使う。語釈も、注釈も、その場で読んでいただくだけという無茶なことをした。長歌もある。長い題詞もある。4516首の中には、題詞の他に漢文のところもあり、それも読み下し文で読んでいただいた。書くことに専念しながらも、時々しんみりして休みがちな手を賢明に動かし、後でじっくり読もうと励んだ。紙数をかなり節約したわたしなので、点字用紙2千ページ強で納まった。
その後、20年余りのあいだに、折に触れて、適宜、袋に分けてしまってあるものを、どの辺りと決めずに引き出して、パラパラ読んできた。そして、今回白川静氏の著書『初期万葉論』を読んで、改めて、挽歌、相聞歌、東歌、防人の歌の辺りを読んでみた。まだまだ今のわたしは、挽歌に惹かれるが、相聞の中にも、胸を打たれるものが多い。そして、防人の歌と同等に、新羅(しらぎ)へ使人として遣わされて行った人々と、その家族の歌や、流罪の憂き目にあった人たちの悲哀にも涙ぐんだ。
4516首書き終えたところに、「1989(平成元)年2月5日、日曜、歌のみ全巻終了。1981(昭和56)年冬よりはじめ、およそ8年を要せり。」と記し、さらに簡単にわたしの、その日の興奮ぶりがメモに残っているのを見て、改めて8年にも及ぶ長い間、平均毎週1回2時間の対面朗読をしてくださった、斉藤宮子さんに熱い感謝を述べずにはいられない。この間に、斉藤さんは結婚(旧姓柴崎)なさり、わたしは、夫の父の死、わたしの母と兄の死、わたし自身の入院といろいろあった。
最後に『万葉集』のごく一部に過ぎないが、今回読んだ中から何首かを写させていただく。
なお、仮名点字で写させていただいた原本は、桜井満訳注、『現代語訳対照万葉集』(旺文社、1975年4月25日初版、1979年12版)の文庫本、全3巻である。
吾妹児(わぎもこ)に戀ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを 2・120
小竹(ささ)の葉はみ山もさやに亂(さや)げどもわれは妹思(いもも)ふ別れ來ぬれば 2・133
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む 大伯皇女 2・165
磯のうへに生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君がありと言はなくに 大伯皇女 2・166
埼玉(さきたま)の津に居(お)る船の風を疾(いた)み綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね 東歌 14・3380
ま遠ほくの雲居に見ゆる妹が家(へ)にいつか到らむ歩め吾が駒 東歌 14・3441
君が行く道のながてを繰り疊ね焼きほろぼさむ天(あめ)の火もがも 東歌 15・3724
歸りける人來たれりといひしかばほとほと死にき君かと思ひて 乙女 15・3772
わが背子が歸り來まさむ時の爲命殘さむ忘れたまふな 乙女 15・3774
わが妻はいたく戀ひらし飲む水に影(かご)さへ見えて世に忘られず 防人の歌 20・4322
父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ 防人歌 20・4325
2010年4月4日 日曜
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