「うか」090 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子
 3月1日は、韓国独立記念日である。
北朝鮮でも、同じ日に独立記念の祝いが行なわれている。
 1910年、日本は、韓国を、いわゆる「併合」した。
 韓国の民衆は当然日本に対して抵抗し、1919年3月1日、ソウルにある、「パゴタ公園」で独立宣言を読み上げ、人々は、「マンセ!マンセ!(万歳!万歳!)」と云いながら、街頭に繰り出して行進した。
 この日が韓国の「独立運動記念日」として現在に続いている。
 日本の官憲は、韓国の民衆を弾圧したことで、さらに、韓国各地に、街頭行進が野火のように広がっていった。
 日本の「朝鮮総督府」が、徹底的に、これを弾圧せよと命令を下したことにより、日本の軍隊と警察は、さらに壮絶な弾圧を、韓国民に加えた。
 死者7509名、負傷者15961名、逮捕者2万9千名というすさまじさである。
〔被害者の数値は、『高戸要(たかどかなめ)追悼文集』、日本基督教団三鷹教会有志、2002年2月発行を参照した。〕

 2000年3月1日は、韓国独立運動80周年記念日であった。
 韓国の劇作家、李盤(リバン)が、この激しい弾圧の事実を『ああ、チェアムリよ』という芝居に集約して、歴史の史実を書いた。これを高戸要が日本語に訳して、俳優、裏方など、およそ22名の劇団員をまとめて、日本と韓国で、日本語で上演する企画を立てたのである。劇団関係者はノーギャラ、手弁当で参加し、渡航費はおよそ130人からのカンパによった。
 2000年3月1〜5日にかけて、都合3回、日本の東京神田にある、『在日韓国YMCA、スペースワイ』で、韓国の3・1独立運動80周年記念公演として、『銃剣と処容(チョヨン)の舞い=3・1独立運動・堤岩里(テイガンリ)事件=』を、わたしたち4人は3月1日に観に行った。
 その後2000年11月か12月に入って、「韓国ソウルの国立劇場で、2001年3月1日の独立記念日に、〈チェアムリ〉の芝居をやるので、観に行きましょう」とさそわれた。
 韓国への旅は、わたしたち4人のほかに、十数名であったが、全員この芝居を観るための参加者で、この目的以外の行動は、自由だというので、わたしはこの4人グループの中で気楽に過ごすことができた。

 わたしたちが東京で観たものを、そのまま韓国でも日本語で見られるというので、わたしはかなり安心した。つまり、この芝居の内容はそのままで、韓国で、日本人が日本語で上演するが、『ああ、チェアムリよ』とタイトルは、李盤作の原題にしてあった。韓国では「チェアムリ」と云えば、事件のあらましは分かっているのだという。
 高戸要は、この芝居によってどれだけ過去の日本人の過ちを謝罪できるか、当然許されるにはそう簡単なものでないことは充分承知のうえで、少しでも、韓国との和解の糸口をつくりたいと願い、祈りを込めて、この企画を立て、日本語訳を書いたのだと思う。
 わたしたちの韓国への旅は、この『ああ、チェアムリよ』を、ソウル国立劇場で、韓国の人たち5、6百人と観ること、そして、実際に事件が起きたチェアムリ教会へ行くこと、犠牲者の墓石を訪れて、お花を手向けること、「独立運動記念館」を見ること、など、心重く辛い旅であった。

 肝心な、堤岩里(チェアムリ)基督教会で起きた事件とは、おおよそ以下のようなことである。
 日本の軍隊と警察が、「15歳以上の男子全員、教会に集まれ」と指令を出した。そして、入り口と窓を釘で打ち付けて、絶対に逃げられないようにして、銃を乱射し、そのうえこの堂内に火を放ったのである。こうして村には女、子供だけにされてしまった。独立運動を絶つためである。
『ああ、チェアムリよ』はこの事件を元にした芝居である。

 わたしは日本語で演じられる内容を、韓国の皆さんがどうやって理解できるのだろうと気にしていたら、友人たちが、「ハングル語でスーパーが出るから大丈夫よ」と教えてくれた。
 芝居が終わって、暫く、30秒か、1分くらいだろうか?静寂が続き、それから徐々に小さい拍手がおこり、だんだん劇場の隅々にまで広がっていった。あの緊迫感は苦しかった。
 友人の一人は、「途中の休憩のとき、トイレに行くのも怖かった。韓国の人の顔を見ることもできなかった」と云っていた。
 韓国の劇場が、この芝居を受け入れるには、相当な決断を要したと思う。正に奇跡かもしれない。観に来てくださった韓国の皆様の勇気にも頭が下がる。
 この芝居は、「3・1独立運動81周年記念公園」として、、韓国内で11公演も行なったという。

 わたしたちは、ソウルで芝居を観た翌日、この事件の現場である、チェアムリ教会へ行った。
 堤岩里(チェアムリ)は、ソウルから列車で1時間くらい南へ下がった水源(スオン)という街から、さらに車で20分くらい行ったところの、小さな村である。実際には、わたしたちは、この行程を全てバス移動をさせていただいたので、わたしには具体的な距離感はわからなかった。

 チェアムリ教会は、戦後になって、当時の教会の姿をかなり忠実に復元したのだという。この教会を建て直すための寄付金が、韓国各地から寄せられたという。礼拝堂の壁、廊下、あらゆるところに、当時の様子を絵に描いて展示してあるという。「写真は一枚もありませんから、女性たちがみて、話したことをまとめて絵に描いたのです。」と説明された。
 この教会の皆さんと礼拝を捧げた、その後、犠牲者の名前を刻んだ墓石に詣った。この日、わたしたちと行動を共にしてくださった高戸さんが、わたしの手を取って、「これは金さん、これも金さん、これは朴さん、これは朴さん、これは金さん、これも金さん、兄弟、親子が多いんです。ですから同じような名前が一杯です。全部焼かれてしまって、骨はありませんから、石に名前を刻んでお墓の代わりに記念としたのです。」
 およそ120人くらいだっただろうか。
 この後、チェアムリ教会に隣接した場所に建設中の「独立運動記念館」にも寄せていただいた。この年、2001年3月1日が開館初日になるよう、準備を進めており、わたしたちはたまたま開館初日の前日の2月28日にチェアムリ教会に来たので、「少しだけでも、記念館もご覧ください」、との韓国側のご厚意に甘えさせていただいた。
 恐縮しながら行ってみると、各階のフロワーを丁寧に磨いていられた。チェアムリ教会に展示されている絵の数々を、この会館に移すので、長い距離ではないけれど、今、コンポーもきちんと、行なっている最中だとも説明された。
 この日、高戸さんは、大学時代の韓国の友人についても話してくださった。「文学をはじめ、いろいろなことを話せる、とても親しい友人だった。彼は指が何本か無かったのです。彼はガンにかかって早死にしてしまい、とても残念で寂しい思いをしていました」。が、あるとき高戸さんと、亡くなった友人の共通の友人から、死んだ彼の秘密を聞かされたという。「この手のことは高戸には絶対に云わないでくれ、高戸は傷つきやすいやつだから」と言っていたという。つまりこれも、独立運動のとき、日本の警察に指を折り取られたのだという。
 高戸さんは、この厳しい現実を、こんなに身近に突きつけられて、あらためて愕然としたと話してくださった。そして、この問題に立ち向かう原点にもなった、とも云われた。
 日本人二十人弱が、チェアムリ教会に来るというので、韓国の新聞記者もチェアムリに来た。わたしは、取材を受けて、なにを話しただろう?「過っても、謝罪しても、わびても許していただけないことがあるのですね。わたしたち日本人はそんな取り返しのつかないことをしてしまったのですね。許していただけないことと分かっていても、ただお詫びするしかありません」と、おずおずと小さな声で言ったと思う。
 かつて日本が、中国に対して行なったといわれる「三光政策(さんこうせいさく、殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす侵略の方策、光をすっかり無くす意味)を、韓国に対しても間違いなく行なっていたのである。
 このチェアムリは、静かでのんびりした農村、という趣であり、80数年前にそんな恐ろしい惨劇が行なわれたとは思いたくないようなところであった。ただ、曇り空ということが、背筋を凍らす刃を感じさせられたのも事実である。

 2001年3月1日、韓国の独立記念81周年記念日に、わたしたち4人は、ソウルの一般の市内バスに乗った。休日だからだろうか、車内はすいており、すぐ座席に座れ、走り出して間もなく、男性のスピーチが運転席から聞こえてきた。なんだろう?と思っていたら、たまたま乗り合わせた人が、「韓国の大統領、金大中(キムデジュン)の独立記念日のメッセージです」と日本語で教えてくださった、と後で友人が話してくれた。
 パゴタ公園に行き、独立記念塔を触ってみようとしたら、友人たちが「だめだよ、年配の人たちが、わたしたちを怖い目つきでにらんでいるから」と云われた。「それに仮装行列が通っていくけれど、その中で、韓国人が血だらけになって馬に縛り着けられ、それを日本兵に扮した人が、縄で引っ張っているの。よく読めないけれど、どこかのキリスト教の団体のようよ」となまなましい説明もしてくれた。これらの行進が行き過ぎて、公園に人が少なくなったところで、わたしはやはり記念塔を触らせていただいた。
 全体として、この旅行は重くぐったりと疲れる旅であったが、2度と遭遇できない体験で、忘れることのできない、有意義な学びの旅であった。
 なお、2001年11月にソウルで開かれた「第8回、東北アジア、キリスト者文学会議」は高戸さんたちの、この仕事に対して、「アジアキリスト教文学賞」を授与したと伝えられた。高戸さんの死の丁度1か月前で、授与式には、三枝禮三(さえぐされいぞう)牧師が「文芸評論家」、つまり同志として、代わりに行かれたという。
 高戸さんは、わたしたちと行動を共になさったときも、かなり病勢は進んでいたようで、この年の、2001年12月21日に亡くなられたと聴いた。

 今後の課題は、2度と再び、このような愚をおかさないことである。よく云われることであるが、「足を踏みつけた方はすぐ忘れるが、踏まれた側は何時までも痛みを残し、なかなか許せるものではない」ということを!少なくとも踏みつけてしまった側のわたしたちは、この事実を忘れてはならないと思っている。
                                2012年2月3日(金)
前号へ 連載初回へ  トップページへ 次号へ