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             わたくしごと
                                   木村多恵子

   積み重ねられたわたしへの形見分け(上

 もう十数年以上前のことである。
 わたしの側に漢点字点訳をしてくださる方がいらした。直接漢点字を打てるタイプライターも用意し、早い段階で、恐らく漢点字表も見ずに点訳していらしたと思う。
 わたしはその方が書いてくださったものを読ませていただいていた。
 校正などとはおこがましく、わたしの方が、どんな漢字を使うのか、はるかに多くを教えていただいていた。
 もし校正というのであれば、単純なミスタッチを見つけて、「あれ?ここでこの文字を使うのかな?」と確認する程度であった。
 それはとても楽しい日々、充実した日々であった。
 ある時、わたしは思い切って、ある方の追悼文集の漢点字訳をお願いした。
 全くの個人的なものなので、その方に相談すると、「長いものですか?」と聞かれた。
「いいえ、薄い小冊子です。が、わたしは是非これを全部漢点字で読みたいのです」
「ではそれを今度会うとき持って来てください。それから決めましょう」
と言われた。
 どきどきしながら次にお会いするとき持って行き、見ていただくと、ありがたいことに、
「いつまでと約束はできないけれど、やりましょう」
と言ってくださったので、ホッと安心した。
 ところが、これまでの経験では、そろそろ「少し書きましたのでここまで見てください」と、校正もどきをお持ちになる頃合いなのに、なぜかお声がかからない。「ああ、厄介なのかなあ。それともお気に召さない内容なのかなあ」などと心配になった。むろんこういうことはこちらからお聞きするわけにはいかない。何と言ってもお忙しい方なのでひたすら待つことにした。
 この追悼文集をお願いしたのはクリスマス直前であったと思う。じっと待つしかない。

 そうして、3月の末か、4月のはじめであったか、「できたわよ。校正もしてもらわないで、一気に夢中で仕上げました。とにかく読んでみてください。直すところがあったら遠慮無く言ってください」
と言って、両面120ページの、丁度一冊の点字本、墨字の表紙もついて、製本された完成品を手渡された。
 「内容は知っているのですか?」と聞かれたので、
「ごく一部しか聞いていません」
「そう、読みでがありますよ。漢点訳させていただいてありがとうございました」と丁重におっしゃった。そして小声で、つぶやくように〈罪の連鎖〉とおっしゃったが、わたしにはまだその意味が分からなかった。けれどもこの方からこんな言葉が発せられたので、「罪の連鎖、ですか?」とわたしは口走ったことを覚えている。
 漢点訳をお願いしたのは、劇作家、高戸要(たかど かなめ)さんの追悼文集である。
 家へ持ち帰ったわたしは緊張しながら扉から読み始めた。
 濃い内容なので、少し読んでは戻り、進めては立ち止まって考えた。既に亡くなられたこの方と私との関わり方、実際にお会いしたのは、一日のうちのたった三時間!でもこの方の周囲への広がりの大きさ、その他を追って行くのは大変であった。

 この文集の編集者は、高戸さんが、ある集会で話された『ソウルで考えさせられたこと』と題する内容を、この文集の冒頭に記載している。
 その中で高戸さんは、
 「今年(2001年)3月1日、わたしはソウルにいました。」とある。
 実は、わたしも3人の友と一緒に、高戸さんと別行動ではあるけれど、この方の目的に合わせて同じ地を踏んでいた。
 高戸さんは、日本の劇団と一緒に、ソウルで「韓国独立運動記念日」に合わせて、日本が韓国の皆様に犯した大きな罪を謝罪する意味を込めた芝居を、韓国国立劇場で上演するために、劇団員20人と共にソウルへいらしたのである。

 1910年、日本は、韓国(北朝鮮も含む)を併合した年である。
 韓国の皆様に、母国語を使ってはならない。名前も、日本名に変えねばならない。などなど人間としての尊厳を奪う政策を取った。
 当然、韓国の人たちの怒りは激しく、1919年3月1日、ソウルにあるパゴダ公園で「独立宣言文」を読み上げ、大勢の人たちが「マンセ!マンセ!(万歳!万歳!)」と言いながら街頭に繰り出した。
 日本の官憲、軍隊、警察はただちにこれを弾圧したが、これを皮切りに、この運動は韓国各地に広がった。
 日本の「朝鮮総督府」は徹底的に民衆を弾圧した。
 ソウルから南に列車で1時間以上離れた堤岩里(チェアムリ)という村では、日本の軍隊と警察から、「15歳以上の男子は全員村の教会に集まれ」と命令された。そして教会の入り口と窓を釘付けされ、中に向けて銃を乱射し、火を放って、全員虐殺された。
 これが「チェアムリ事件」である。

 この事件を素材にして李盤(イバン)という高戸さんの友人劇作家が、芝居を書き、それを日本語に訳して、まず、2000年の秋、日本の神田にある韓国YMCAで、上演し、その日本語のままで、日本の劇団が、韓国へ行き、韓国国立劇場、その他の場所で、計11回上演したのである。

 わたしたち4人は、神田の韓国YMCAで2000年11月27日、この『銃剣とチョヨンの舞』を見、さらに韓国まで後を追うことになったのである。

 わたしたちは緊張しながら600人の韓国の方々とこの惨劇の芝居を見た。わたしはこの劇の複雑な動きを理解できなかったが、2度目の日本語を聞かせていただいたのでかなり分かった。
 幕が下りてからの長い長い全くの沈黙は息が詰まるようであった。
 そうして1分か2分無音の後、最初は遠慮がちにパラパラと、そのパラパラさ加減が少しずつ増し、やがて拍手となり、その拍手は劇場全体に鳴り響いた。
 わたしはこの芝居を観ているときより、この拍手の広がり方に、韓国の皆様の複雑な思いを、ほんの少しだけだとは思うけれど、少なくとも今ここにいらっしゃる皆様の思いを察することができたのかもしれない。

 そして劇を観させていただいた翌日、この事件の舞台であるチェアムリの教会へ4人で行った。
 高戸さんは、わたしたちがチェアムリへ行くことを知り、わざわざ時間を作って、直接このチェアムリまで来てくださって、事件の詳細を聞かせてくださった。さらにチェアムリ事件で亡くなられた皆様のお墓も先生が案内してくださった。
 「お墓と言ってもみんな焼けてしまったのですから骨はありません。せめて名前だけでも残しましょう、ということで墓碑銘のように大理石に、犠牲者の名前を全部書いたのです」 そして先生はわたしの手をとって、墓碑に刻まれた一人一人の名、文字を辿って触らせて、「これは金・・・さん、これは朴・・・さん、これは金・・・さん、これも金・・・さん、これは朴・・・さん、これもこれも朴・・・さん。韓国は金さん、朴さんが多いので、名字はたいてい同じです。まして同じ村の人たちですから同じ家の兄弟、親子もいますからね」
 確かな数字は覚えていないが、百人近くの犠牲者だったと思う。
 わたしが、朴・・・さん、と書いたのは、・・・のところも、高戸先生はきちんと読んでくださったのに、わたしが覚えきれなかったからである。けれども先生の大きくて暖かい手は、この寒空の中でわたしを感動させ、今でも忘れることはできない。
 「韓国独立運動記念第81年目」にこのチェアムリへの旅の企画を纏めてくださった方のお話では、先生は癌をかかえている、と教えてくださっていたので心配していたが、思いの外お元気そうなのでほっとしていた。まさか先生がこの年のクリスマスを迎えることができなかったなんて、この記念碑の前ではつゆだに想像できなかった。
 〔関連内容を「羽化90号(2012年2月発行)わたくしごと」に書かせていただいている〕

 高戸先生は、この追悼文集の中でもう一つ重大なことを述べ、さらにある戯曲を紹介してこの公演を終わっている。(次号へ続く)
                   2018年6月30日(土曜)
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