「うか」118 連載初回へ トップページへ | ||
わたくしごと 木村多恵子 |
||
「英連邦戦没捕虜追悼礼拝」 前号の羽化117号(2019年7月15日発行)のわたくしごと『知らぬ間の慰問』の最後に、戦争にたいする拒否感を持った理由の一端を述べさせていただいた。 戦争にともなう悲惨さを読んで喜ぶ人はいないけれど、それと知らずに読んだ本の中から戦争の悲劇にひっかかると読み捨てることはできなくなっている。この数年、以下の2冊に触れてからその思いは一層強くなった。その2冊とは、 『癒しと赦しへの旅 =日本軍捕虜となった人々の戦後50年=』(スティーブ・T・ヤング、ジョン・M・L・ヤング著、菅野和憲 訳、村瀬俊夫、井上圭典 監修、1995年11月11日 初版発行、発行者 スティーブ・T・ヤング 栄都出版 〒208-0013 武蔵村山市大南4-46-6 城西コーポ201 菅野 着付 『死の谷を過ぎて =クワイ河収容所=』(アーネスト・ゴードン 著、斎藤和明訳、1976年 音羽書房、1981年新地書房、1995年ちくま学芸文庫 『癒しと赦しへの旅 =日本軍捕虜となった人々の戦後50年=』の著者スティーブ・T・ヤングは、1950年東京生まれ。その父ジョン・M・Lヤングは、1912年、朝鮮半島のハフムンで生まれた。どちらも朝鮮、中国、日本でキリスト教の宣教活動をしている。父ジョン・M・Lヤングは、日本の武士道や儒教についてこの本で解説をしている。 スティーブ・T・ヤングのこの本は、1945年8月15日、日本の敗戦から50周年を迎えた1995年に、連合軍の戦争捕虜の犠牲者たちが、個人的な経験を、勇気を持って語ったものを集め、真の癒しと赦しの必要性を感じ取って書いたものである。 第二次大戦下、日本軍の捕虜とされた連合軍の捕虜たちは、日本兵から受けた残虐行為の全てを語り、彼らの心の傷を癒す道を開いて、怒りを吐き出すことによって自分たちの苦しみを多くの人に理解してもらう必要があったからである。 日本兵が、連合軍の捕虜たちを、いかに非人道的に扱ったか、その実例を記すのはわたしにとって耐え難い。 1942年4月9日と、5月5日に、連合軍が無条件降伏をしたその直後30分もたたないうちに、日本兵は怒りに震えながら、捕虜たちの私物の検査を始めた。日本製のものを見つけると、捕虜が日本兵から盗んだものと決めつけ、有無を言わせず、その場で銃剣で刺し殺したり、棍棒で打ち殺した。日本兵には信じられなかったが、アメリカで買ってフィリピンに持って来た日本製の櫛やペン、財布、その他のものが沢山あったのである。 捕虜に対する日本兵の残虐行為の主要な原因は、人命に対する低い価値観と、日本人は優秀な民族であるという傲慢な思いであった。その結果、日本兵は敵を憎悪するよう徹底的に洗脳され、衣類からはじまって、寝具も、食料も、水も、医薬品も、連合軍には与えず、過酷な強制労働を強いたのである。 日本軍はジュネーヴ条約を認めず、捕虜に関する条約を無視した。日本軍の指揮官たちは、戦争捕虜の待遇について良心のとがめを感じなかったのだろうか? 連合軍の将校がジュネーヴ条約に照らしてダバオ捕虜収容所の、日本軍司令官・前田少佐を訪ねたとき、少佐の答えは「我々の思い通りに扱っている」というものだった。 満州捕虜になった日本人の苦労が伝えられているが、そのうち犠牲者はおよそ1割であるのに対して、連合軍の犠牲者は、全体の3割にも及んだという。 ジョン・マッカーティーは、カバナタン収容所の捕虜であったが、次のように述べている。 「数百人の若者が、一歳の幼児より無力になり、日本人への最後の恨みを口にしながら、自らの汚物の中に身を横たえ、死んでいくのを、私たちは見た。若者たちは、最後に一度だけでも故郷に戻り、愛するものたちとの再会を〝切望〟していた。本当に生きていたかったのである。最後の祈りの言葉を口にして、彼らは死んだことであろう。 〈神様、私をお取りください。私は今この悲惨な世界から去ろうとしています。どうか、〝誰かが生き延びて〟、ここでの出来事を〝語り告げ〟、世界がここでの様子を知ることが出来るようにしてください〉 これは日本の女性や子供たちには全く関わりのないことです。彼らがここで起きたことをなにも知らないことを、私たちは知っています。全ては天皇とその軍隊の指導者たちの権力欲と、世界制覇への野望に依っているのです。」 ジョン・マッカーティーの人生で、バターン半島のこと、オドンネル収容所と、カバナタン収容所という地上の地獄のことを思い出さない日は一日もない。40年以上も前の光景が、なお彼の眠りを妨げている。これは今も生存している大多数の犠牲者も同じであろうし、その家族にも大きな影響を与えている。 この「凍結した激怒(frozen rage)」から解放され、憎んでいた人々を許すことができるようになって、ついに「内的平安(inner peace)」へと導かれるには容易なことではない。 この本の中でわたしが一番胸を抉(えぐ)られた言葉は、「捕虜に対する日本兵の残酷行為の主要な原因は、人命に対する〝低い価値観〟」だといっていることだ。この言葉は「人間性として未成熟」だと言われているのではないかと思う。 太平洋戦争が終わり、戦争捕虜たちも自由を得て、それぞれの本国へ帰り、愛する家族と会えた。しかし、彼らは栄養失調や精神的不安定を抱えて、病気であったにもかかわらず、自由になれた喜びで、自分たちが病気であることを暫くの間は気付かなかった。 一方、アメリカが勝ったことによって、元捕虜たちは、日本兵が、自分たちに報復措置を加えるのではないかと懼(おそ)れていた人たちもいた。 ガイ・フォファーとその仲間たちは、日本の監視兵に全く抵抗しないこと、怒りや不満の表情を覆い隠して、日本兵の怒りを逸(そ)らす術を学び、やがてガイは日本兵たちを恨んでいないかのように思えるようになった。しかし、1974年になって、ガイは気持ちの良い日本の商社マンと昼食をとっていたとき、彼は神経過敏になり、身体が震えて部屋を出なければならなくなった。自分と同世代の日本人との出会いが戦時中の記憶を蘇らせたのだ。 このように精神的負担の他、住環境全て欠乏状態の中で過酷な労働、しかも、何時自分が日本兵の標的にされるか分からない恐怖、そして絶えず仲間を失う悲しみなどを抱えている彼らの4年近くの日々を読んでいるとわたしは息が詰まるようになり、永い時間この本を読み続けていることができなくなった。かと言って止めてしまうことはもっとできなかった。 そんなある日、一冊の雑誌から懐かしい方の呼びかけを直接受けたように思えた。それは7、8年前までわたしが入って居たあるグループの先生の文章で、「横浜市保土ヶ谷の英連邦戦死者墓地をごぞんじですか?」の書き出しにわたしははっと思い出した。この方と最後にお会いしたとき、そのお話をしていらして、「ああ、行きたい、行かなければ」と思ったのだった。わたしはそのとき確かに「いつか伺いたいです…」とは申し上げたものの、彼(夫)が逝ったばかりでわたしはまだ呻吟していた。けれども月日は流れていたのだ。「ああ、今度こそ連絡を取って必ず保土ヶ谷へ行こう」と決めた。たった一度きりになってもいい。わたしが礼拝に伺ってもこの方々になんの、どれほどの価値がある?そんな理屈はいらない。ひたすら礼拝を捧げて来よう。いくら毎年行われているといってもわたしには限りがある。 先生に連絡をすると直ぐに納骨堂のある公園への行き方、その追悼礼拝で歌う歌の歌詞など、必要な資料を送ってくださり、 「毎年8月のこの日(第1土曜日)はとても暑いので、帽子や傘、水など暑さ対策をして来てください。その日のために健康にもご注意ください。雨天でも決行するのは、捕虜の痛みを知り、犠牲者たちの声を聴くためです。」と自筆の添え書きもあった。 この追悼礼拝は敗戦後50周年を機に始められたもので、今年(2019年8月3日)は、第25回目になる。 まず最初にガイドヘルパーの方にこういう所へ、これこれの理由で行きたいので御願いできますか?とお聞きし、付き添いの方については安心した。後はわたし自身がその日行けるように体調を整えておくことだ。とにかく一度だけでも行かずにはいられない。 会場へ行くと、先生が早速「献花をなさいませんか?」と誘ってくださった。「え?わたしお作法がぜんぜん分からないのです」というと、「一緒に行きましょう、教えてあげます」と請け合ってくださった。 受付には冷たいお水、甘いジュース、炭酸入りのジュースなど好きなものを選べるように沢山用意してあった。 礼拝はイギリス納骨堂(総合納骨堂だろうか?)の前で行われた。マイクを使っていても戸外であるから、ますます悪くなっているわたしの耳では聞き取れないところはあっても、心は静かに謝罪のみであった。司会者が、「今日は戦没者追悼日和になりました」と言っている。 最初にパラフレーズされた詩編23編を歌い、聖書朗読と、祈り、説教、各大使館員を代表して、今年はカナダ大使の挨拶が、それぞれ日本語には英語で、英語には日本語で通訳がなされ、アメージンググレイスを歌って献花となった。 献花のお誘いをしてくださった先生は、わたしが気楽にできるように、献花の係の女性に声をかけてくださった。 納骨堂に入るには5、6段の石段があり、その先、平らなところが5、6メートルあり、木造のお堂の入り口で「一礼してください。」と言われた。 そして直径60センチほどのリースを渡され、係の方とわたしの右手でリースを持って納骨堂に入り、納骨の御箱(正式な名前は分からない)の前にそっと置いて「一拍(拍手)をしてから一礼してください。」「はい、そのまま入り口まで後戻りをするように出口まで戻ってください。…、もう一度そのままの位置でお辞儀をしてください。…今度はそのままの位置で会集の方に向きを変えて一礼してください。…これで終わりました。さっきの階段を降りましょう。」 正しくできたかどうか分からないが、緊張で堅くなっていた。なにしろわたしは神社仏閣へ行ってもこういうことをしたことがないのだ。最初お堂に入る前の階段を上がる時から、履き物を脱ぐのですか?とひそひそ聞いてしまったくらいである。けれどもこの献花はすがすがしいものであった。 後でガイドの方に聞くとわたしのほかに5、6人の方が献花をなさっていたという。 ここに献花の手順を書いてはみたもののわたしの覚え違いは多々あると思う。 献花の後みんなで各国の納骨堂へ行き、そのお国に相応しい歌を歌い、改めてその国の関係者が献花をしていた。 イギリス納骨堂前では、埴生の宿(はにゅうのやど) オーストラリア納骨堂では、ウォルツィングマチルダ ニュージーランド、カナダの納骨堂では、緑も深き若葉の里 インド、パキスタン納骨堂では、エーデルワイス これらの歌は、毎年同じ曲を日本語と英語の歌詞が用意されており、日本の方が英語で歌ってもいらした。 このあたりからぱらぱらと各自墓碑や墓碑銘を見ていらっしゃる方がいらした。 18歳で亡くなっていらっしゃる方も多かった。 この永田台公園英連邦納骨堂にはおよそ1800余名の戦没者が眠っていらっしゃるという。ここに眠っている多くの方は本来なら今現在わたしたちと共に生きていられたのだ。また同じように犠牲になってしまった人の中に、もしかしてなにかの理由でこの納骨堂に納められなかった不運な人もいるかもしれない。 各国の大使館員のご家族もいらしているようだ。 わたしはただただ謝罪の祈りを続けて歩いた。 松や杉、楓など大きな木が沢山あるので思いのほか涼しかった。 やがてバグパイプの音が聞こえてきた。心地よい音量で聞けるところまで近づいて行き静かに聞いていた。バグパイプの演奏が何曲か終わり、周りの人たちが三々五々散らばったところで、わたしは演奏者が女性だと教えていただいたので、側へ行って「触らせていただけますか?」と御願いするととても気さくに触らせてくださった。 空気袋を3本の、=ああなんという名前だっただろう?= 黒檀で出来た棒で袋を支え、左肩から吊してとても重そうだ。自分の口から空気を送り込んで袋の空気を加減しながら、右手の指でアコーディオンを弾くように指で押さえて 音を作っていらした。なんと忙しく動く指だろう?そしてなんとのどかな音色だろう? 本来自分の大切な楽器を他人(ひと)には触らせたくないのだから、本当に感謝した。その方は別れるとき、「また来年も会いましょうね」と言ってくださった。本当にわたし来年も来られるだろうか?と思いながら握手してお別れした。 墓碑を見て回っているとき、何人かの方が「献花 できてよかったですね」とか、「献花 ありがとう」と言ってくださった。 入り口近くの資料館へ行こうとしたとき、バグパイプの女性がご自分で運転して帰ろうとなさっているところに行き会えた。「どちらへかえります?」と聞いて下さり、「よかったら都合のいいところまでお送りしますよ」と言ってくださったのでわたしたちは慌てた。「まだ資料館へ寄りますので…今日は本当にありがとうございました」と改めてお礼を言えた。すると、「また来年会いましょう」という言葉が返ってきた。そう言えば、ここでの皆様は「ではまたね。来年も会いましょう」とそこここで交わしていた。ごく自然な合言葉のようだった。 それにしてもこれだけの敷地を確保し、設備を整えるには大変なご苦労があっただろう。永瀬隆(元日本陸軍の通訳をしていた)さん、雨宮剛(たけし)さん、斎藤和明さんの3人が呼びかけ人になり、1995年から毎年8月の第一土曜日に晴雨天候に関わらず追悼礼拝をはじめたのである。 資料館に入り、そのご苦労の一端でも分かる本を探して買った。これは点訳していただくことにしている。 そろそろご挨拶をして帰ろうか、と思っているところへ先生と献花を教えて下さった方が資料館へ入っていらした。そして『死の谷を過ぎて』を紹介してくださったが、幸いこの本は何度か読みましたのでこの公園建設のご苦労の一端でも知りたいので、こちらを選びました。とお伝えし、必要な資料を送っていただいたこと、今日のお礼もお2人に言うことができた。 最後になってしまいましたが、今回この礼拝にお誘いくださったO先生はこの追悼礼拝の、第12回目からずっとお世話をしてくださっている方である。献花をお誘いくださったことも心から感謝しています。と申し上げた。 当日のあの緊張とは異なる喜びが、今静かにこの胸に残っている。 皆様ありがとうございます。そしてなによりもここに眠られている多くの皆様本当に済みませんでした。小さなわたしからも心からお詫びをいたします。 2019年10月3日(木曜) |
||
前号へ | 連載初回へ トップページへ | 次号へ |