「うか」120 連載初回へ トップページへ | ||
わたくしごと 木村多恵子 |
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水絵の具(みずえのぐ) ある晴れた秋の昼下がり、読み始めた本の、きりがいいところまでと続けていたが、気づくと思いの外時間が経っていた。大分疲れた頭と、すいたおなかのために、お昼ご飯に切り替えた。いつもよりのんびり食後のお茶を飲み、ラジオを聞いた。絵画についての話である。 「次はカジミール・マレーヴィチについてお話しましょう。」(難しい名前!初めて聞く名前だ。) 「淡いヴェージュ色の正方形のキャンバスの中に、右に傾いた、更に色薄い白の正方形を描いた、マレーヴィチ、〈白の上の白い正方形(〝White on white〟)〉は1918年ニュー・ヨーク近代美術館所蔵の油彩です。」 わあ、すてき!綺麗!と言いながらわたしは反射的に立ち上がり、部屋中をゆっくり歩き始めた。番組の途中から聞いたので、解説者の名前も、どういう人なのかも分からない。話を聞いているうちに、この絵について、最初の説明を聞いただけで、何故わたしが引きつけられたかが分かってきた。 解説者は言った。 「マレーヴィチの、この絵には対象物が無いのです」 そうなのだ。対象物はわたし自身が勝手に、この白いキャンバスに想像すれば良いのだ。心の揺らぎも含めて何時でも何でも描けるのだ。 1人で楽しめるすてきな遊び!いい気な自己満足?それもいいではないか!心の中でなら技術も道具もいらない。どのみち才能など無いのだから自由に羽ばたこう。それなら今までだって何時でもできたはずでしょう?と誰かが囁く。 いずれにしても、この「白の上の白い正方形」はわたしに大きなインパクトを与えてくれた。 番組は直に終わり、秋元雄史(あきもとゆうじ)という東京藝術大学大学美術館館長・教授と分かった。 例のごとく図書館へ行き、秋元雄史氏の著作で、マレーヴィチの『白の上の白い正方形』の解説がある本を探していただいた。 あることはあったが、わたしは西洋図書館にこの本を注文するのに気恥ずかしい思いがした。その題が『武器になる知的教養美術鑑賞』というわたしには全く無縁なタイトルなのだ。 が、とにかくわたしが知りたい部分だけを読んでいただいた。 カジミール・マレーヴィチ(1879~1935)年、ロシア生まれ。 「絵画は誕生して以来、対象物に縛られることで不自由さを余儀なくされている」 というマレーヴィチ自身の考えから、対象物を一切排除して無対象の芸術、という前衛的な方向を目指した現代絵画美術家のようである。 総体にわたしは子供の頃から白が好きだった。理由はほんの少しある明暗に、白は直接わたしに呼びかけてくれたからだと思う。 わたしは、この白に白を重ねたキャンバスにおずおずと絵筆を入れる。 小さい女の子だ。 真っ白なスカートに、当時流行り始めた透けるような白地に赤い大小の熊の絵柄のナイロンブラウスは、わたしのお気に入りであった。熊の絵模様と言われても、わたしには熊とは分からず、ただ大きい赤と小さい赤がてんてんと散らばっているだけのもので、それが熊とは認識できていなかった。 毎日この服を着て、独りでブランコ遊びをし、鉄棒の逆上がりをし、10メートルはある急坂の土手を、最初はこわごわ、ゆっくり、滑り始め、やがてスピードが増し、着地は土の地面に足がどんとぶつかって止まる。本当は地面に着地したその足でさらにぱっと立ち上がってそのまま走れるようになりたかった。が、とうとうその域にはいたらず、それより学院長の命令で、「土手滑りは禁止」とされてしまった。 禁止、と言われてもわたしひとりが直接院長からしかられた訳では無かったので、本当は安心した。それにこの遊びをしていたのは主に小さい男の子たちであり、女の子はわたしひとりであったから自然に止められたのだ。 それにしても男の子たちはすごいなあ。最初この土手滑りを始めた切っ掛けは、鬼ごっこをしているとき、鬼に捕まりそうになって逃げ場を失い、この急な土手を滑り降りたと言うのだから…。考えてみれば、真似事で、男の子よりスピードはなかったものの小学2年のわたしは無鉄砲だった。 こんな遊びをしていた日々のある朝、起床の鐘で起こされて着替えをしようとして慌てた。夕べもきちんと白いスカートを畳んで枕元に置いたはずなのに、大好きなそれが無い。布団の中に潜り込んでいるだろうか?寝巻きのままで布団を畳み、押し入れに片づけたがスカートは出てこない。「あれえ?」小声でつぶやいていた。 すると大きいお姉さんが、「多恵子ちゃん、スカートを探しているのでしょう? ちょっと待っててね」、そう言って寮の外へ出て、洗濯物干し場から「おまちどうさま、ほんとは起床前に取ってきておきたかったんだけど、まだ乾いて無かったのよ」 「え?和子さん洗ってくださったの?」 「もうちょっと乾くといいんだけど…」とお姉さんは言った。 小さいわたしは驚きと感謝をどう表したらいいか分からず、ただ「夜中に洗ってくださったの?」と言うと、「しっ!」とわたしの肩を押さえた。いいから黙ってらっしゃいとでも言いたそうだった。 この寮の先生は目が見えず、気むずかしい方なので、汚れが目立つ白、しかも泥で汚して寮に帰ってくるわたしを許すはずがないと、彼女はわたしを庇って黙っていてくれたのである。さらにこのご厚意は今日が初めてではなさそうだ。大きいお姉さんたちは、手分けして小さい女の子たちの身の周りの面倒を見てくださっている。和子姉さんはこのお姉さんたちの中で1人だけ少し目が見える人なので、わたしの泥汚れを目ざとく見つけてくれたのであろう。彼女はわたしの「ありがとう、ごめんなさい」の言葉を受け取ってくれた。そしてこのお気に入りの白いスカートは、この一夏で諦めた。 3年生になって、明るく和らいだ5月のある日、ひとり院内散歩をして、花壇の花たちが南に向いて咲き匂っているところへ出た。わたしから見て一番左端に、素敵に白いものが見えた。手を伸ばして触ったら、開いたばかりのお花だった…。偶然側に居合わせた先生に聞いた。 「これはなんですか?」 「白いバラよ」 たった1輪の白いバラが目の前で頬笑んでいる。花びらの形も重なり具合も見えない、ただ白い固まりのそれは「白きバラ」なのだ。小説や物語に書かれている「気高さ」とはこのようなものをいうのだろう。 ときどきそっと、冷たいような、日差しを浴びて暖かさがあるようなバラの花に右手をのばして、そっと触れ、引っ込めては、またそっと触れていた。 そして、この気高く気品のある白をこのわたしの目に染みこませた。 その日から2、3日、いいえ1週間は毎日何度も白いバラに会いに行った。 が、悲しいことに孤独な白バラは、わたしの目にさえ色あせ、黄ばみ、やがて花びらは散ってしまった。 側には濃淡様々な紅バラが幾本も美しく咲いていたが、白を失ったこの花壇には足を向けなくなった。院内の他にある花壇で、わたしが行けるどの花壇にも純白のバラは見つけられなかった。それだけにこの1輪はわたしを充分満たしてくれた。 待ち焦がれた4年生の5月が近づくと、どきどきさせて咲きいずる白を待ちわびた。毎日朝に夕にその花壇へ行ったが見つからない。 もう5月は終わろうとしていた。わたしが毎日何かを探していることに気づいていたのだろう。去年「白いバラよ」と教えて下さった先生が聞いた。 「なにを探しているの?」 「あの真っ白いバラです」 「ああ、そう言えば今年は咲かなかったわね。白い花はたいていその花の最初に咲いて、だんだん弱り、花木が弱ると白い花は咲かなくなるのよ」 「え?」とわたしは言ったきりだった。 同じ4年生の6月になってから、去年あの白いバラを見つけた南側の花壇とは真反対の北側に向いた土手、当然陽が当たらない、坂と階段が続く道を上から降りてきて、右手の土手に光る白いものを見つけた。「もしや?まさか!」と思いながら注意深く土手の中腹まで登っていった。 「おお!なんとまあ!あなたはこちらにいらしたのですか?」でも、でもこれはなんたる哀れなバラだろう。せいぜい3、4枚の葉っぱに囲まれてたった1本の細い木?木とは言えないほどの細枝に1輪白いバラは咲いていた。 「ああ。あなたはどうやってここへきたの?小鳥さんが種を運んでくれたの?」 わたしは土手のその辺りの土を指で掘ってバラの根本にかき寄せるようにして、枝が倒れないようにした。けれどもひょろひょろしたその花はやっと立っていた。自分の寮に戻り、バケツに水を入れて運び土にかけた。肥料はわたしにはどうにもならない。雨が降らない日は水やりを忘れないようにした。 あれほど美しい純白ではなかったけれど、それでも1週間近くは「わたしは白いバラよ」と喜んで咲き続けてくれたし、わたしも満足だった。 この北の土手のバラが散ってから、真夏も秋も冬も水やりだけは気をつけていた。そして春が近づいたある日、水やりだけだったけれど、わたしは手塩にかけたという誇らしさも手伝って、1度仲間に「ビーンズハウス(学院内の1つの建物の名前)の土手のバラはわたしのバラよ」と言った。 ふーんというように誰もなにも言わなかった。が、あの和子姉さんだけが、「そんなこと言っちゃだめよ」と静かに諫めた。なぜだろう?「水やりをしていたのは知ってるわ。でも、だからといって自分の花だって言っちゃ駄目よ。みんなのために咲いてくれたのだからね」、ちょっぴりしゅんとなったわたしだったが、なるほど、そう言いだしたら大変だ。たまたまこの花にはわたしがあげられたけれど、みんながみんなできるわけではないのだ。それにわたしのお気に入りのバラやそのほかたくさんの花たちの面倒を見てくださっている人たちもいるではないか。と、すっきり納得できたし恥ずかしくもなった。 5年生は不安と期待があふれかえった。南の花壇には色とりどりのバラは咲いたけれど、白は見あたらなかった。白はその花の初咲きと聞いたので早くから気をつけていたのに…寂しかった。悲しかった。でもあの北側の土手はどうだろう?6月になってしとしと降る雨の中、か弱いバラは葉っぱ2枚と蕾1つを付けたが、けなげな白バラは2、3日開いて、やがて散り果ててしまった。 とうとうわたしは6年になっても中学になっても「気高く清き白バラ」とは学院内では会えなかった。 6年生のバラの咲く季節の初めに偶然「白いバラ」を教えて下さった学院のO先生が街の花屋さんへ連れて行ってくださった。花屋さんは可愛い赤い花のいろいろを見せてくれたが、わたしは「白いバラ」と言うのはなんとなく気恥ずかしく、「これじゃないんです」としか言えなかった。が、いくつもの甕の中から白バラと思われるものを見つけ、じっと眺めていた。白いバラだろうと思いながらもその茎にはたくさんの葉っぱが密生し、お花も学院で見つけたのとは丸みも違うので、これは本当のバラだろうか?わたしの思い違いだろうかと心配になった。わたしがその甕から離れないことに気づいたお花屋さんが、「1本持ってごらんなさい」と言った。わたしはもぞもぞと「でもわたし、買えないのです」とやっと小声でいった。わたしが学院の子であることは察しが付いていたのだろう。もう1度「持ってごらんなさい」と言ってくださった。わたしは先生の方を振り向いた。「持たせていただきなさい」と先生は言った。「お願いします」と右手を伸ばし、お花を握らせていただいて、左手を茎に添えた。子供とはいえ、売り物であることは分かっているから、恐ろしさのあまり直ぐお返しした。「もういいの?」と言われてやっぱり「もうちょっと持たせてください」といい、やはりすぐお返しした。頬ずりすることさえできなかった。 あの優しいお花屋さんの声が今も蘇ってくる。 ぜいたくなひと時であった。 今なら分かる。O先生はこの数年のわたしのことを静かに見守っていてくださり、素晴らしい機会を与えてくださったのだ。 これらわたしにまつわる白のいろいろ。スカートもブランコも、鉄棒も、あの急勾配の土手も。そして南の気高い白いバラも、北向きの土手のちょっと見劣りするとはいえ、わたしには大切な白いバラ。そうしてお花屋さんが持たせてくださった立派な白いバラも、全てカジミール・マレーヴィチが教えてくれた白いキャンバスに描いた。 なんという自由だろう。 そうしてわたしは睡魔に落ちてゆく。 2020年7月31日(金) |
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