「うか」122  連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                 木村多恵子

    こころの奧の押し入れ整理

 (1)イギリスの古い伝説  おばけ
 ある日おばあさんは散歩にでかけました。ふと、道端を見るときらきらと光るものがあります。「なんでしょうね。あら、金の花瓶だわ!まぁきれいだこと!うちへもって行きましょう。」おばあさんは散歩を続けました。ところが持っていた金の花瓶が銀の花瓶になっています。
 「銀の花瓶でもきれいだからいいわ。」
 もっと歩いていると銀の花瓶は鉄になりました。
 「鉄になったけど傘立てにいいわ。」
 まだ歩いて行くとこんどはガラスになっています。
 「まぁガラスもきれいねー。本立てにしましょう。とてもきれいだわ!」
 さて、まだ歩いているとそれは石になってしまいました。おばあさんはその石もとても変わった形なので、漬け物石にしようと決めてその石を持ち上げようとしたら、ひゅるひゅるひゅると煙が出ておばけになってどこかへ消えてなくなってしまいました。「まぁ今日はおもしろい楽しい日だったわ、いろいろなものを見たし最後はおばけも見せてもらったわ。」

 わたしはこの古いイギリスの伝説をなにかの本で読み、子供心に不思議に思った。きらきら光る花瓶が銀になり、鉄になってしまう。おばあさんはなにでできているか、と言うより自分がそれをどう楽しむかと考えている。鉄に変わったら傘立てにしよう。
 拾ったものは見た目には素材が変わり一見値打ちが下がったようでもおばあさんは最大限に自分にとって都合のよいものにする。鉄に変わったものは花瓶から傘立てにして使おうとする。
 ところがそれはガラスになった。彼女は「ガラスもきれいね、本立てにしましょう」と思う。わたしもここでうれしくなった。
 ところがさらに持ち歩いていると、それは石になってしまった。おばあさんの発想はすごい。「おもしろい形だから漬け物石にしよう」と考える。
 心の豊かさが伝わってくる。いざあらためて持ちなおそうとしたらヒュルヒュルと煙が出ておばけになって消えてしまった。
 おばあさんはこれらすべてをよろこび楽しんでイマジネーション豊かに見方を変えている。宝物を拾ったはずがつぎつぎに素材は一見価値がないように思われるがすべてを寛容に受け入れている柔軟さ。「おばけまで見せてもらったわ!」というおおらかさ。
 本当はこんな平凡な理解ではおさまらない深い哲学が隠されているだろう。それでもわたしはこんなおおらかで懐深いおばあさんに惹かれる。ときどき引っ張り出して和ませてもらっている。

 (2)豚
 ある日わたしはひとりで歩いていた。
 ガガガガガー、ガガガガガー、と苦手な音が聞こえ始めた。「うん?道路工事?家の工事?いやだなぁ」と思いながらも引き返すわけにはいかず突き進んだ。
案の定道路の工事だ。比較的単純な道路舗装工事のようだ。現場に近づいてわたしは立ち止まった。さてどちらを選べばいいだろう、右端を通るか左にするか。
すると「豚!はい豚」という外国人らしい男性の声。わたしはあまりの言葉にむっとした。ところがその男性はわたしの杖を持って障害物を避けさせようとしている。だがわたしはむっとしながら「杖は取らないで!」と言うと、彼はわたしの腕をつかんで障害物を避けさせてくれた。
 本当はこんなにやさしくできる人なのにいったい誰がこんなひどい言葉を彼に教えたのだろう。わたしは悲しかった。けれども面倒をみてくれたことは間違いない。無事な位置に行ったときわたしは彼に「ありがとう、わたし豚ですか?」とにっこり(本当は頑張って)笑って言った。むろん彼の応えはなかったが近くで監督か指導者かわからない女性が「すみません」と言ったがこれは単純に工事でご迷惑をかけてすみません、のようなマニュアル言葉だった。
 いったい誰がこんな言葉を彼らに教えているのだろう。この彼がわたしのようなものを豚よばわりするとも思えない。人を傷つける言葉をこんな場面に使うように教えた誰かがいるとしたら、懸命に働いている彼らはむしろ嫌われてしまう。そんな心ない言葉とは知らずに使っていたら、彼ら外国から働きに来ている人たちはかえって反感をかい嫌われる。どうぞ指導者たちよ、先輩たちよ、品位のある言葉を教えてあげてください。

 (3)小さな小公子
 わたしは5才のときから、横浜のアメリカ駐留軍の、たぶん比較的上級将校たちの個人住宅が並ぶ地域に近いところにある、全寮制の、盲学校で10年間暮らした。
 最初はいちばん大きいお姉さんたちにお風呂にいれてもらい、洗濯物も全部洗ってもらっていた。
 当然わたしも少しずつ大きくなるたびに、より小さい子の面倒をみるようになっていた。
 一方、駐留軍将校の婦人たちの中には、親元から離された目の見えない子供たちをかわいそうに思った人たちもいたようで、ときどきお気に入りの学院の子を見つけると自分の家へ招いておもちゃやお菓子を与えた。
 あるときひとりの男の子が招待されてその家の子供たちと元気におもちゃで遊び、おやつを食べた。けれどもだんだんその子の元気がなくなりだした。将校婦人は心配しただろう。やがてその男の子は意を決したように「Do you like TOILE?」と言った。彼女はイェスともノウとも言わず「ふふふ」と笑った。彼はちょっとの間がまんしていたが、今度は「Do you speak TOILE?」を数回繰り返し、とうとう泣き出してしまった。小さなジェントルマンの彼にはいきなり「トイレ」と言うにはしのびなかったのだと思う。おそらく招待を受けて彼がそのハウスへ行くとき、送り出す学院では彼に大事な言葉は教えたはずだ。けれども肝心なときにパニックを起こした彼は教わった言葉が出てこなくなってしまった。泣き出した彼の様子からやっとトイレに気付いた婦人も事なきをえたわけだ。
 この話はわたしが中学を終えようとしている頃、学院内に広まったもので、当時は彼の苦境が手に取るようにわかり、いっしょに安堵した。現在のわたしはこのけなげな少年をいじらしく思い、母親のように抱きしめたくなる。当時のマザーもいじらしい彼を抱きしめたのではなかったか。自分がもっと早く気付いてやらなかった失敗も含めて日本滞在中の思い出の一場面に加えているかもしれない。

 (4)駐輪場
 おおよそ2500世帯が住む集合住宅の一角に引っ越してからのことである。その建物の前の道が道幅が意外に狭く大きい自動車は通り抜けられず、つきあたりにUターンできるほどの広いところが設けられている。そのお陰でこの建物に用事がある車以外は入ってこないので猛スピードの車は比較的少ない。これはわたしにとっては大変ありがたい。
 「わたしが最寄りの駅に行くには家を出て右に向かって歩いて行く。右側、つまり建物側には何台も車が留まっていることがよくある。そして道の左側はずっと自転車が並ぶ駐輪場である。
 よそから自転車できた人は一時的とはいえ入り口に置いている。わたしはこれにひっかかり倒してしまうこともある。
 わたしには自転車の構造がわからないので倒したものを起こして立ち上げることはできても独立たちをさせてあげられない。荷物を持っているときはさらに困難だ。つまりしっかり真ん中の道をまっすぐ歩かないと何台でも倒すことになる。
 あるときずらりと並んだ自転車を倒してしまった。荷物を地べたに置いてしゃがみこんで倒した自転車を起こそうとしたがへまなわたしはさらに2台3台と倒してしまった。1台でもわたしには重くて大変なのにそれらがからみついてもうどうにもならない。泣きそうになりながらどなたかご親切に手伝ってくださる方が通りかかってくださらないかなぁと願う。1台だけ倒したときは仕方なく立たせてガードレールによりかからせていただいて、つまりちゃんとはなおせず離れてしまう。
 またあるときは駐輪場のほうに曲がってしまい失敗した。座り込んで格闘していたら、左の方から「やりましょう・・・・」と明るく爽やかな声が軽やかな足取りで近づいてきてくださった。「ありがとうございます。お願いします」とわたしは言った。そして「倒すのは簡単にできるのですけれど・・・・」と苦笑いしながら言うと、彼女もほがらかにわらってくださった。わたしの意図をすてきに受けてくださってうれしかった。
 本当はわたしひとりできちんとなおすことができるようにしなければいけないと思うが、重たいものを起こすだけでも大変なのである。
 その後自治会で申し合わせてくださったのだと思うが近頃ではよそから自転車でいらした方も駐輪場に並べて置くようになった。
 みなさまありがとうございます。
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