「うか」125  連載初回へ  トップページへ
             わ た く し ご と
                                 木村多恵子

    『 京 人 形 』

 私は子供の頃から着物を着るのが好きだった。普段は寮生活をしていたのでワンピースやスカートを着る、真冬の寒い時期は、母が臙脂色のコールテン(コーデュロイ)で縫ってくれたズボンをはいていた。大好きな着物を着られるのは我が家だけであったからなおのこと絶えず家に帰りたかった。
 学院側から春、夏、冬の休みの始まる日が発表されると、家へ帰れる嬉しさで指折り数えて、その日を待った。ただ、私の周りには「我が家へ帰れない」「我が家がない」人が何人かいるのを知っていたので公然とその喜びを表すことはできなかった。少なくとも私から友達にこの話題を口にするのは避けていた。なのに心は正直にその日を待ちわびていた。
 春休み、夏休み、冬休みに家に帰れると、翌日は学院へ戻るという日の前日までほぼ毎日のように家の雑巾がけを終わらせてからお気に入りの着物を着ていた。
 小学生の頃は、夏は絽、冬はメリンスや銘仙を着、これもお気に入りの朱鷺色のふんわり柔らかな兵児帯を、締める前に頬に当ててその生地のやさしさを味わってから締めていた。籐絹(ふじぎぬ)の羽織もだーいすきだった。
 母は、着物好きの私のために寮の大半の人がパジャマを夜着にしているのを知っていたが、冬の寝巻はネルの反物を買って寝巻用に縫い、日中に着る着物の袂よりは小さめの袂を付けてくれた。
 夏の寝巻も本当は浴衣地を用意したかったに相違ないが、これは母の工夫で毎年いただく年賀用の日本手ぬぐいを丹念に蓄えておいて、それを使って夏の寝巻を縫ってくれた。母の一番の苦労はお年賀用の手ぬぐいであるから、それぞれの柄は当然バラバラで二本と同じものはなかったことである。ごくたまに二本包みのお年賀があると母は「ほーっ」と大きく息をついていた。母は我が家がお配りする年賀用の手ぬぐいから二本取っておいてそれで両の袂を縫ってくれたのである。なにしろいただいた手ぬぐいには店名や店主の名前が文字の大きさも色もバラバラ、中には柄の中に名前を染め込まれていたりして、どういう配置で浴衣を縫えばよいかわからない。柄合わせは全くの素人の母には手に負えないようだった。いっそのこと染め抜かれた文字の部分は切り取って、バラバラの大きさになった手ぬぐいを浴衣地のようにざっとつなぎ合わせることまでやっていた。しかしこれは大変な苦労というより無駄になることを考えて手ぬぐいの配置を工夫していた。ところが私には柄の意味も文字もわからずただ赤、青、黄色、緑などの色がきれいに見えて喜んだ。母は私が「きれい!」というのを聞いて意を決してそのまま日本手ぬぐいを浴衣地のようにつなぎ合わせてから夏用の寝巻に拵えたのである。
 寮での私の着物生活はこれでおおよそ満足していた。
 最初襦袢から着せてもらっていた私も一人で兵児帯までは結べるようになり、反幅帯や名古屋帯も一人で結び、文庫、貝ノ口、矢ノ口と覚え、名古屋帯でお太鼓を結べるようになった。
 こうして着物を着てからの私の一人遊びは60センチはある袂を振りながら、座敷の中を歌いながら踊り歩くことであった。
 当時、流行っていた『京人形』を歌っていた。

 1.赤い鹿の子のお振袖
   京人形の見る夢は
   鴨川原(かものかわら)のさざれ石
   買われたあの日の飾り窓
 2.春の日永にうとうとと
   京人形の見る夢は
   月の金閣東山
   別れたあの日のお友達
 3.ここはお江戸の日本橋
   京人形の見る夢は
   汽車に揺られて東海道
   眺めたあの日の富士の山
    (作詞:久保田争二、作曲:佐々木すぐる)

 なんとも不思議な歌詞で私には理解できなかった。しかし哀愁だけは感じられた。

 歌詞からあふれ出る哀しさはあっても歌そのものは純粋に美しかった。この歌がだんだん私の心を圧迫するようになった。なぜ?それはこの歌の歌詞に原因がある。多分この歌は昭和初期から戦後に至る日本の貧しさゆえの女性のたどった哀しい運命を歌っていたのだろう。
 いつの間にかこの歌は歌えなくなっていった。
                           2023年1月9日
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