「うか」124  連載初回へ  トップページへ
             わ た く し ご と
                                 木村多恵子

    回 向 院 散 策 ?

 〈ピンポーン〉。〈こんにちは〉の呼びかけチャイムが鳴った。私はいそいそと玄関ドアを開ける。〈こんにちはー、おまちどうさま、2人でお迎えに来ました。もう車も待っていますよ。〉と墨田区の図書館の方は言った。
 いよいよ梅雨に入ろうかと思われる6月初旬のある午後まだ肌寒い日、私は期待いっぱいで9階からエレベーターで下りた。車を運転してくださる方も墨田区の図書館員の方だという。まあ私はなんて贅沢なお付き添いをうけるのだろう。
 私たちは同じ墨田区内にある回向院へ行くのだ。このお出かけの話を最初にしてくださった方が〈木村さん、今度のお出かけはリッチですよ。なにしろ車付きですからね!〉と言われた。私はタクシーで行けばいいわ!と考えていただけにびっくりした。〈え?そうですか?では道案内もしなくていいのですね?〉〈そう、何も心配いりません〉と請け合ってくださった。私がおおよそ知っている回向院は私が住む八広からは蔵前通りを越し京葉道路沿いの墨田区の端にある。したがっておおよそ墨田区の端から端へ行くようなものだ。〈こうやって車に乗せていただくと墨田区は狭いようでもやっぱり広いですね。いい道を選んでくださるので快適なスピードでしかもノンストップでこんなに走れるなんて初めての経験です〉と子供のように私は喜んでいた。
 2、30分は走り続けたと思われる頃〈あっ、木村さんもうじき着きますよ〉と女性は言った。〈敷地内に入りました〉とさらに教えてくださった。ノンストップでここまで来るとは思わなかった。敷地内に入ってもさらにしばらく走り続ける。〈あっ事務所に寄るようですよ〉と説明してくださった。〈事務所には私が行きますから皆さんはここでお待ちください。車から降りてもそのまま乗っていても構いません〉と男性ドライバーは言った。当然のように私は早く回向院の空気を吸いたくて地面に降り立った。空気は澄んでいたが山へ登った時の空気とは違い昔の私の子供の頃のような静けさとごく自然な、やっぱりこれが透き通った空気、特殊な味もないシンプルな空気だった。けれども決して無味乾燥なものではなかった。
 事務所にも話は通っていたのか手続きをしてくださった運転者さんは2、3分で車に戻っていらした。そうしてさらに7、8分、車は走った。〈あーこれですね?〉と2人の女性は納得したようだ。〈どんなところを走っているのですか?〉と私が聞くと〈道のはじの方には木立がたくさん並んでいて全体は舗装されています。車は奥へ奥へ入っています。回向院って広いのですねー。お坊さんたちもかなりたくさんいて、今食事が終わったところでそれぞれの房に入っているようです〉とちょっと自信なげな説明が面白い。

 いよいよ今日の本物の目的のところで降りた。さっきちょっと下車した時にも感じたのだが車や電車の騒音もない。
 〈さあ触ってごらんなさい〉と学芸員に導かれて触ったのは、石でできた深めの箱、縦20cm、横24、5cm?の横長の箱のようなものに漢字が浮き彫りされていた。かなり大きな1文字なのに私が分かったのは〈にんべんかな?〉と思われるものだった。〈右側は、横3本、そこに上から2本真っすぐ下りていて・・・あれ?四角くなっているところもある。ううん左から右へのびていてそのはじが上にはねている〉(今考えてもばかな触り方をしたものだ)なぜって最初私はこれが削り取ったものの文字とは知らなかったのである。私はここで玄武岩などを見せて触らせてもらうのだと思っていた。この情報のずれはとんでもない錯覚を起こさせていた。
 学芸員さんや千葉大の学生さんは我慢強く付き合ってくださった。
 どうもこの最初の文字は〈佛〉らしい。お坊さんたちは難しい〈佛〉を使うという。
 〈こちらは?〉と見せてくれたのは〈仏〉で現在一般に使っている。
 〈これは?〉と言われた文字は〈主〉だった。旧字はないと言われた。彫り方にむらがあったり、石の平たいところも削る機械がうっかり当たってしまってもっと上にはねたりするのが難しそうだった。
 セメントや砂を固めたものから文字を浮き立たせる道具で削ったのだという。この機械の名前も聞いてその時は覚えたはずなのに家に着いたらとんと忘れた。
 つまり〈佛〉と〈仏〉はそれに〈主〉の彫りだした漢字を触らせていただいたのだ。石で(セメント?)でも表した文字には木を削ったり割ったりして板に貼り付けてくださったものもあった。こちらの方が私にはちょっとは分かっただろうか?
 この企画は墨田区と墨田区の図書館の企画で、実働作業は千葉大の学生さんだという。
 学生さんたちは鑿(のみ)を使ったことがないし知らないと言っていた。墨田区のボランティアの方々も関わっていたようだ。

 私が感動したのは仏教の〈佛〉〈仏〉それにキリスト教の〈主〉を取り上げられたことである。
 この重大なコロナ禍にあって、さらに恐怖の独裁政治による一方的な他国への軍事侵攻などすべてなくしてほしいと願う。
 この体験から帰ってきて早速図書館の方がこの3文字をレーズライターで書いてくださったので〈仏〉のやさしい文字と〈主〉を一生懸命なぞり読みしている。世界が平和であれかしと祈りながら…。

 最後に毛並みのよいおっとりした猫が顔を出してくれた。〈回向院のうめちゃんです〉と書いた札を首にかけているという。私が背中を撫でているとしばらくおっとりとじっとしていてから〈もういいでしょー?〉と言うようにゆったりと鷹揚に私の手から逃れていった。

 もう1つおまけがあった。予定のお約束の時間がくると運転者さんが私たちを乗せる車をとりにいらしているのを待っていたらほんの少し雨が降り出した。傘を必要ともしない程度のひそやかな雨だった。 
                                 2022年 7月 7日
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