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漢点字の散歩(39)
                    
岡田 健嗣

     漢点字、習得以前と以後

 約20年前、本誌の発刊に当たって私が企としましたことは、表現の難をお許しいただけますならば、この表題のようなことでした。
 と申しますのは、私が漢点字を学んだ1978年以来、皆様に漢点字のお話をさせていただく度にいただくご質問が、「漢点字を学んであなたはどう変わったのですか?」、「漢点字を学ぶ以前のあなたと、漢点字を学んでからのあなたは、どこが違いますか?」というものでした。ところがそれに、満足にお答えできたことがありませんでした。「漢字を知らなかった自分から、漢字を知った自分に変われました」とお答えするのが精一杯で、その次に「そう変われたら、どのようなところがよくなりましたか?」というご質問が待っているのでした。そのような問いを詰めて行きますと、畢竟「よくなったというのは、あなたの個人的な変化で、自己満足ではないでしょうか」という結論が目の前に差し出されます。つまり、漢点字を学んで漢字の世界を知ったとしてもそれはあなたの満足であって、漢点字を学ばない視覚障害者に、漢点字を学ぶことを強要できる理由はそこにはない、漢点字を学ばない権利があるとして、その権利を侵してまで漢点字を学ぶことを他人に勧める権利は、あなたにはありません。精々あなたが個人的に、「漢点字を学ぶと、漢字の世界が開けて、本がより深く読めるようになります」と主張できるだけです、という結論に至ります。現在の私どもの置かれている情況は、正にこのようなものだと言ってよいと思われます。
 そして勿論、常に申し上げておりますが、一般には、非識字の状態は解消されるべきとされているにも関わらず、大半の先天の視覚障害者は、この非識字の状態に放置されているのが現状であること、そのことは全く不問のままに置かれていることだけは、ここに付加しておきたいと思います。
 先の問いにどうしてお答えできないでいるか、これは私にとって、極めて重要な課題であります。これまでにも繰り返し試みて参りましたが、不十分に終わる可能性を恐れずに、今回も、再度漢点字を学ぶ以前と以後との変化について、考えてみたいと思います。
 これを考えるに当たって、私と漢点字の出会いについて、これも再度申し上げなければなりません。
 私が漢点字の存在を知ったのは1978年、ある点字雑誌に、漢点字の通信教育の学習者の募集記事を偶然見出したことにあります。早速川上先生にお手紙を差し上げて、通信教育に挑みました。
 私は盲学校で初等・中等教育を受けて、漢字の知識なしに社会に出たのですが、当時は盲学校と社会との落差に翻弄されていた最中で、それを何とか乗り越えなければいけないと、原因の一つが、自らの非識字状態にあると捉えていたところでした。ところがその非識字を解消する方法が見つからずにいたところへ、この雑誌の記事との出会いでした。
 無事通信教育を終えて、当時の当用漢字の漢点字を習得してみると、漢字の世界が一挙に爆発的に開けたのでした。ここに至ってつい過去を振り返ってみても、どのように本を読んでいたのか、全く覚えていないことに気づかされました。勿論当時は、漢点字の書物は極少なく、従来のカナ点字の点訳書か、音訳書に頼って読書していたのですが、それでも漢字の知識を得る前と後では、全く違った読みになっていたようでした。それがどう違っているのか、これまで申し上げられずにまいりましたが、ここで皆様にも、体験していただいて、ご理解を賜りたく存じます。
 ただしその体験と申すのも、厳しい条件があります。その条件とは、漢字の知識のない状態で左の文章を、読んでいただくというものです。がそうは申してもこの条件を満たす方は、本誌の読者諸兄姉の中にはほとんどおられないと思われます。斯申す私も、漢点字の学習以後この条件から外れてしまいましたし、この条件を実現することは、原理的に不可能です。そこで皆様にはご自身に、漢字の知識はないものという、仮の状態を設定していただいた上で、左の文章に当たっていただきたくお願い申し上げます。
 その文章と申しますのは、今回横浜市中央図書館に納入致しました『萬葉集釋注』第三巻(伊藤博著、集英社文庫)の、伊藤先生の「釈文」の一部です。本文は山上憶良の「嘉摩三部作」の二番目の歌で、あの有名な「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子に及かめやも」(八〇三)の反歌を伴う長歌(八〇二)の題詞です その本文は左の通りです。

 《釈迦如来(しやかによらい)金口(こんく)に正(ただ)に説(と)きたまはく、「等(ひと)しく衆生(しゆじやう)を思ふこと羅ゴ羅(らごら)のごとし」と。また、説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と。
 至極(しごく)の大聖(たいせい)すらに、なほ子を愛したまふ心あり。いはむや、世間(せけん)の蒼生(さうせい)、誰れか子を愛せずあらめや。》

 左が伊藤先生の「釈文」にある解説文です。まず漢字仮名交じり文を、その次に漢字の部分を平仮名に置き換えて、なお従来のカナ点字の表記法に沿って、棒引き仮名遣いと分かち書きにしてあるものです。両者ともに内容は同じものとされますが、読み比べていただければ、その相違に、お気づきになられるものと存じます。


●嘉摩三部作の第二群。子に対する愛情をうたった作として、すこぶる著名。しかし、仏教では、一つのもの、とくに我が子などに執着することは煩悩の代表的なもので、道にもとるとされた。仏教に明るかった憶良はそのことをよく知っていて、右の作においても、「子等を思ふ」ことが愛欲の煩悩であることを充分知りながら、しかも、現世の一個の人間としては子への愛着に執(とら)われざるをえない悩みをうたっている。一群は、単純な親の愛情を述べたものではなく、子を愛することの苦悩を主題にしているのである。
 その序文は、意を通すと次のようになる。

 釈尊が御口ずから説かれるには、「等しく衆生を思うことは、我が子羅ゴ羅を思うのと同じだ」と。しかしまた、もう一方で説かれるには、「愛執は子に勝るものはない」と。
 この上ない大聖人でさえも、なおかつ、このように子への愛着に執われる心をお持ちである。ましてや、俗世の凡人たるもの、誰が子を愛さないでいられようか。

 至極の大聖さえ、教理は教理として、子への愛に執われる心をお持ちであった。ましてや、自分のような凡愚が子に執われるのはやむをえない。という次第で、憶良は、子への愛の歌八〇二〜三をうたう申しわけをここで述べている。一種の弁解であり、それだけに、我が子への愛着をうたうことに対して、憶良が苦悶を抱いていたことが知られる。 しかも大切なことは、「等しく衆生を思ふこと羅ゴ羅のごとし」という、慈愛の精神を説く言葉は、むろん仏典の至るところに見えるけれども、「愛は子に過ぎたることなし」という発言は、仏典に、釈迦の言葉としては見られないといわれていることである。憶良が仏典を誤解したのか、それとも、憶良があえて推量して、釈迦といえども内心に子への煩悩があったはずだと考えたのか。いずれかはっきりしない。
 いずれにしても、憶良が歌詠の拠り所とした「愛は子に過ぎたることなし」という言葉は、憶良が勝手に作り出したものと考えられる。そういう作りごとまでして依り付く柱を求めるほど、憶良は、我が子に執われることの罪を意識していたわけである。

○かま 3ぶさくの だい2ぐん。  こに たいする あいじょーを うたった さくと して、すこぶる ちょめい。  しかし、ぶっきょーでわ、ひとつの もの、とくに わが こなどに しゅーちゃく する ことわ ぼんのーの だいひょーてきな もので、みちに もとると された。  ぶっきょーに あかるかった おくらわ その ことを よく しって いて、みぎの さくに おいても、「こらを おもふ」 ことが あいよくの ぼんのーで ある ことを じゅーぶん しりながら、しかも、げんせの 1この にんげんと してわ こえの あいちゃくに とらわれざるを えない なやみを うたって いる。  1ぐんわ、たんじゅんな おやの あいじょーを のべた ものでわ なく、こを あいする ことの くのーを しゅだいに して いるので ある。
 その じょぶんわ、いを とおすと つぎの よーに なる。

 しゃくそんが おんくちずから とかれるにわ、「ひとしく しゅじょーを おもう ことわ、わが こ らごらを おもうのと おなじだ」と。  しかし また、もー いっぽーで とかれるにわ、「あいしゅーわ こに まさる ものわ ない」と。
 この うえ ない だいせいじんでさえも、なお かつ、この よーに こえの あいちゃくに とらわれる こころを おもちで ある。  ましてや、ぞくせの ぼんじんたる もの、だれが こを あいさないで いられよーか。

 しごくの たいせいさえ、きょーりわ きょーりと して、こえの あいに とらわれる こころを おもちで あった。  ましてや、じぶんの よーな ぼんぐが こに とらわれるのわ やむを えない。  と いう しだいで、おくらわ、こえの あいの うた 802〜3を うたう もーしわけを ここで のべて いる。  いっしゅの べんかいで あり、それだけに、わが こえの あいちゃくを うたう ことに たいして、おくらが くもんを いだいて いた ことが しられる。
 しかも たいせつな ことわ、「ひとしく しゅじょーを おもふ こと らごらの ごとし」と いう、じあいの せいしんを とく ことばわ、むろん ぶってんの いたる ところに みえるけれども、「あいわ こに すぎたる こと なし」と いう はつげんわ、ぶってんに、しゃかの ことばと してわ みられないと いわれて いる ことで ある。  おくらが ぶってんを ごかい したのか、それとも、おくらが あえて すいりょー して、しゃかと いえども ないしんに こえの ぼんのーが あった はずだと かんがえたのか。いずれか はっきり しない。
 いずれに しても、おくらが うたよみの よりどころと した 「あいわ こに すぎたる こと なし」と いう ことばわ、おくらが かってに つくりだした ものと かんがえられる。  そー いう つくりごとまで して よりつく はしらを もとめるほど、おくらわ、わが こに とらわれる ことの つみを いしき して いた わけで ある。

 以上、この二つの文章は、従来の点字の側から言えば、全く同じものだと言われます。しかも残念ながらその見解に、表だって異を称える人はおられません。そうは申してもご覧のように、文面は全く異なっています。にも関わらず、どこが異なっていて、どこが異なっていないのか(?)、それが質されたことは、今日まで一度もありませんでした。そして私個人としては、そこを解くことで、漢点字習得前後の私の変化(自覚的にも非自覚的にも)を、明るみに引き出すことができるのではなかろうか、そう考えておりますし、私自身、そのように願ってもいる次第です。
 私は本誌の誌面をお借りして、大分以前より、「読むことのメカニズム」、あるいは「読書のフィードバック」などということを申し上げて参りました。粗略にしてなお稚拙なものではありますが、これを再度、俎上に上せてみたいと思います。
 私が読書という行為のメカニズムをどう考えればよいかと考えるようになったのは、盲学校にいるころには遭遇しなかった光景に、それまでの私の周辺には到底存在しなかった光景に、社会に出てから、あるいはもっと大学で、出会ったことによります。それはどういう光景であったか、一般には決して珍しいものではありません。人が本を読む姿、本のページを見つめながら、そこにある文章を如何に理解すべきかを、じっと思案する姿でした。そうか、本を読むということは、こういうことだったのか、というのが私の第一印象でしたし、誰にも言えないほどの衝撃でもありました。その痕は今日に至っても私の中に残っております。である以上、そのような読書が、どうして彼にはできて、私にはできないのか、このことを解明しなければ、本など読んでも何もならない、私自身にそのような読書ができなければ、読書をする意味がない、そう思うようになったのでした。その後は勿論従来のカナ点字書を読んだり、音訳書を読んだりする時に、極力そのような読みをすべく心がけたのですが、その努力は極めて困難であることを認識させられただけでした。漢字の知識なしに、日本語の文章を、漢字を用いないものに書き換えられたものを相手に行うのは、じっと見つめて理解を深めるという読書には、誠にほど遠いものがありましたし、読書をする前に、文字を習得しなければ何も始まらないという認識に至るのに、時間はかかりませんでした。と申すよりむしろ、日本語を表記する文字として漢字という文字が大きな位置を占めていることは、盲学校に生活しているころにも充分分かっていたことで、ただにそれを習得する手段が閉ざされていることからか、意識に潜在してしまっていたであろう漢字習得の願望が、顕在化したということだったと思われます。そうこうしているうちに漢点字の存在を知り、その習得を志すようになりますが、漢点字の習得への意欲も、このような経験の中から湧き出したものに違いありません。
 漢点字を習得して、本会の活動を始めて、漢点字を触読することで書物を読むことができるようになってみると、私に初めて読書の意味が理解できるようになりました。多くの人が、自明の行為として、書物のページをじっと見つめて、無言のうちに文字や文章との交換を行っている姿、目と文字との間の交換、漢点字はそれに匹敵する交換を、指先の触覚と漢点字の間に実現していることに、徐々に気づかされました。このような読書を積み重ねることができるようになってみて、さらに一つの発見に結びついて参ります。ロラン・バルトのいう「テキストの解放」、「テキストの自由」、テキストは、著述された直後に著者から解放されて、どのように読まれようと、たとい著者の意図しない読まれ方をされようと、著者にはそれを咎める権利はない、ただ著者自身も一読者となって、テキストと対面できるだけだということを、納得できたのでした。と申すのも、テキストを読むということは、決してテキストから一方通行に私にその内容を伝えて来る、あるいは意味が勝手に私に注ぎ込まれるというものではなく、読者である私からもテキストに働きかけ、さらにテキストから私へ…、それを繰り返すことで、理解と思考が深化させられるものだったからです。このことを私は「読書のフィードバック」と呼んだのでした。一つのテキストは、百人の人が読めば百通りの読み方ができますし、「読書百遍」という言葉があるように、一つのテキストを繰り返し読むことで、その当初には思いもかけなかった読みに到達することも、珍しいことではありません。
 しかし繰り返しになりますが、日本語を母語としている私どもにとっては、漢字仮名交じり文を読みこなさない限り、このようなフィードバックのプロセスは、実現できません。私の経験から申せば、漢点字の習得とその触読による読書は、一般の視読による読書と、速度こそ遠く及びませんが、フィードバックの可能性において、充分その質を保障してくれます。漢字の知識のないころのカナ点字書や音訳書の読書では、どう努力しても叶いませんが、漢点字の触読による読書は、視覚障害者に書物の世界を能うる限り広げ・深めてくれるという確信を、得ることができました。
 「漢点字を習得する以前と以後とは、どのように変わりましたか?」というご質問から始めました拙文も、一つの結論に到達した思いがします。先にも申しましたように、漢字の知識のないころは、そのことで大変苦しんでおりました。漢点字を習得して、さらに本会の活動を通して漢点字書を読むことができるようになって、ふと以前を振り返ってみると、そのころどのようにして本を読んでいたのかが、全く思い出せなくなっていたのでした。そんな情況がどうして招来したのか、実に不可思議ではありますが、恐らく文字の知識なしに本を読むということが、文字の知識を得てから振り返って見れば、無≠ノ等しいものだったということだと、取りあえず理解してよいように思われます。
 以上、これが現在の私が申し上げることのできる全てです。障害者教育に取り組んで下さっている皆様、障害者を一人前の人間として社会に送り出すのであれば、一般の社会人と何も変わりない人間として送り出すのであるならば、一般の社会人に求められているものを、障害者にも隔てなく求めていただきたいと思います。取り分け視覚障害者には、文字を解放していただきたい。そのためには、視覚障害者教育に当たっておられる皆様が、正面からこれに取り組んでいただく必要がございます。まずは教育者が立ち上がらなければ、これは永遠に叶わないままに置かれることになるでしょう。まずは現在の先天の視覚障害者は「非識字者」であるという規程を共通理解としていただくことを、願って止みません。


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