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漢点字の散歩(41)
                    
岡田 健嗣

        ルーシー先生が正しい

 今回の散歩は漢点字からやや離れて、この間に読んだ(正しくは「聴いた」)音訳書の読後感を、述べてみたいと思います。その前に、「聴読」について、少し触れさせていただきます。
 私の読書は、可能な限り漢点字の触読で行いたいと思っておりますし、視覚障害者の読書の方法として、それが最も優れていることは疑う余地のないところと考えております。しかし、残念ながら本会の会員が頑張って活動して下さってはおられますが、まだまだ漢点字書の数はほんの僅かなものに限られております。誠にそれを思うごとに、自らの非力をひしひしと感じざるを得ません。
 私が「聴読」を読書の方法として採っておりますには、もう一つ大きな理由があります。前々回にも申し上げましたが、指先で点字に触れてそれを読み取るという作業は、大変体力を消耗させるものです。しかも手の指先から取り入れることのできる情報は、極めて限られています。体力の許す範囲、また情報を取得する能力、指先の触覚を介しての情報の取得とそれを処理する速度などの生理的な能力は、否応なく触読の限界を知らしめます。
 さらにまた、読むという行為は、たとい良質の読書ができたとしても、量が伴わなければよい読書とは申せません。正に読書は、読書の量がその質を決定すると申しても過言ではありません。
 こう考えて参りますと、視覚障害者が読書に趣こうとするときには、そのことそのもので、既に大きな壁に対面していると申すことができます。視覚障害者が良質な読書を志向するとき、果たしてどれほどの量の読書をすればよいのか、それは叶うものなのか、誠に心許ない思いにさらされるのも、無理のないところに違いありません。こういう情況下で行う読書ですので、私は、できるだけ多くの、また肉体的に負担の少ない方法を選択すべきと考えて、文字から得られる情報を捨ててでも、内容を大掴みにできる音訳書の聴読を、第一義的に選択しているのが現状です。勿論漢点字書が増えれば、それだけ漢点字書による読書にシフトして行くに違いありません。が現在の私の読書は、古典、あるいは詩歌は漢点字書を、小説や評論、そして非文学書は音訳書を読む(聴読する)ようにしております。
 現在では音訳者の皆様も、対象の書物のどこを伝えて、またどこを伝えずともよいかという取捨にも心を配って下さっておられます。必要な情報のかなりの部分は、そのようにして届けられています。そもそも「聴読」は、音訳者の皆様の目と脳を通して、そこで理解し処理されて音声となったものを耳に受けて、言語として了解するという一連のプロセスを指します。そこでは既に文字あるいは文章が理解され処理されたエッセンスとなって提供されます。「聴読」は、その意味で聴読者の側の負担を軽減する方法だと言えるのです。それだけ音訳者の皆様に、ご負担をおかけしていると言わなければなりません。一方聴読者の理解し得る幅も、限られたものになってしまうことにも、充分留意される必要のある方法と言えるのです。それは、文字を直接読み取るという読書本来のプロセスを採らない方法であって、それを見る角度を変えれば、文字から読み解くプロセスを回避していることでもあることを、聴読者は心しておかなければならないと、私はそう考えております。
 前号では初めて漢点字で万葉集を読む機会を得て、中でも人口に膾炙した歌、山上憶良の「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子に及かめやも」(八〇三)、そしてそれに先立つ題詞と長歌に触れることができて、心底から驚かされたということを申し上げました。総括させていただくならば、憶良のこれらの作品群が収録されているだけで、万葉集の存在理由を知った思いがしたのでした。私が勝手に解釈していたものとはまるで違う、人の心の深淵を覗かせる、誠に味わい深い作品ばかりでした。この作品群は決して安らぎや幸福感をもたらすものではありませんが、この驚きは、極めて新鮮なものでしたし、その意味で大変幸福だったと言ってもよいと思います。これら憶良の作品に接し、またそれを踏まえて、遡って天智・天武・持統天皇治下の宮廷歌人、とりわけ額田王と柿本人麻呂の歌を、再度読み返してみたいと思っているところです。

 今回机上に載せたい本は、10年を超える以前に、何かの雑誌の書評にあった、カズオ・イシグロ著『私を放さないで』(早川文庫)です。書評によると、臓器の提供のために生まれたクローンたちの生き様を描いた作品とある、いわゆる近未来小説です。私は直ぐにも読みたかったのですが、当時音訳書ができているはずもなく、そのまま時日を過ごしてしまいました。この度ひょっとしたことから思い出して、図書館の蔵書を調べていただきました。2006年に音訳されていることを知り、早速貸し出しを受けました。
 カズオ・イシグロは、知られるように、日本で生まれて、幼少時に父の赴任地のイギリスに渡り、イギリスの国籍を取得して、80年代の初めに、作家としてデビューしました。1989年には『日の名残』でイギリス最高位の文学賞「ブッカー賞」を受賞しています。日本人の両親から生まれながら、その作品はイギリスの伝統に則った、緻密なプロットと適切な表現力に裏打ちされた構成が特徴と言われます。その意味でこの小説も、誠に見事な構成の作品です。イギリス小説の特徴としてよく言われる「犯人は執事だ!」の伝統は、ここにも遺憾なく発揮されています。筋を追いながらポイント・ポイントでオヤッと際どく種は明かさぬと見せて、最後の最後にそれが種であったことが分かるという手法、読者の気持ちをどうしてもそのポイントを再度追ってみないわけに行かなくさせるその手法は、誠に鮮やかと言わざるを得ません。
 クローンと言えばこの作品が発表される直前に、やはりイギリスで、クローン羊の「ドリー」が誕生したという、センセーショナルな報道がなされました。ドリーの映像も公開されて、メーメーという鳴き声とともに、普通の羊と変わらない姿として、世界中を駆け巡りました。クローンとは、同じ遺伝子を持つ二つ以上の個体を言います。初めて人工的に、同じ遺伝子を持つ動物が誕生した事実に、世界は驚くとともに、そのことにどう対処すべきかの議論が、沸き上がりました。カズオ・イシグロが想定した近未来では、このドリーを誕生させた技術が、人に応用されて生れた「クローン人間」を登場させました。イシグロの提示したこの仮想世界を、私たちはどう受け止めるのか、是とするか否とするか、または別の世界を創出するのか、何れにせよさほど先でない未来に、何らかの選択が迫られることは間違いありません。
 人のクローンと言えば、自然にも誕生します。決して珍しくはありません。私の周りにも、何組みかの双子の兄弟がおられました。もっとも私はその片方の方とお付き合いしているだけで、お二人同時にお会いする機会を得ませんでしたので、実際にはどのくらい似ておられるのか知ることはできませんでしたが、同じ遺伝子を持っておられるということは、お二人の間では、普通の兄弟と一味違った、独特の関係が成立しておられるのだろうと、そんな想像をしてしまいます。恐らく私のこの想像は、間違っているに違いありません。しかしこのように想像させる何者かが、イシグロの小説の世界の、クローン人間を受け入れる社会の根底に、何らかの力を発揮しているように思われてなりません。
 イシグロの小説には、主要な登場人物であり、また進行役として語り手を務める人物が登場します。ここでは「キャシー」と呼ばれる女性です。また主要人物として、「ルース」という女性と「トミー」という男性が登場します。物語はこの3人の人物を中心に展開されます。読者はこの人物たちを人物として捉える視点に立った位置に置かれて、この物語の世界に誘われます。
 また別の意味での主要人物が3人登場します。「エミリー先生」と呼ばれる女性、「ルーシー先生」と呼ばれる女性、そして当初は「マダム」とだけ呼ばれて、クライマックスを迎えて初めてその名が「マリー・クロード」と明かされる女性です。彼女らはこの作品のキーウィメンではありますが、ほとんど表には現れません。
 作品の冒頭で語り手のキャシーが、自己紹介をします。自分は「介護人」を12年勤めていること、年齢は31歳であること、その年の末には介護人を退いて、次のステップに入る予定であることなどを告げます。何の予備知識もない読者は、ああ、老人ホームに勤めているのかな、転職を考えているのかななどと呑気に読み飛ばします。やがて彼女の幼少年期を過ごしたある施設内での生活の追憶が語られることになります。
 この小説は三部仕立てになっています。語り手であるキャシーの成長と31歳である現在、幼少年期、社会へ出立の準備期、そして使命の遂行期、キャシー自身の終焉の予感。
 第一部はキャシーの幼少年期が語られます。読者には、まずは寄宿学校の学園風景と映る、明るい、賑やかな、幸福そうな、何の心配もなさそうな、どこにでもありそうな普通の小・中学校の学園風景と映るに違いありません。(このことは、後にこの施設の運営者の努力の結果、キャシーたちにもたらされた環境であることが明かされます。)
 ここでは学校のカリキュラムと同様の課程に基づいた授業が営まれ、昼休みには生徒たちは三々五々、晴れた日は屋外で、雨の日は体育館や教室内で過ごし、スポーツやおしゃべりを楽しんでいます。ルースもトミーも、キャシーとともにのびのびと学園生活を満喫しています。ルースは誠に才気煥発な少女です。またなかなかのエゴイストであり策士でもあります。キャシーは自身語り手ですので、どの程度の意地悪さを備えた少女であるかは、私たちには分かりません。しかしルースとのやり取りから類推するに、極めて普通の、活発な少女であると見てよいでしょう。トミーは、サッカーの得意な少年です。後にエミリー先生から「癇癪持ちで心の大きな子」という評価を得ますが、この癇癪が彼の幼年期の特徴でもあります。キャシーはそういうトミーを常に心にかけるようになって行きます。
 しかし読者も徐々に、何か変だなと思わされてきます。まず授業の内容が、一般の教科ばかりでなく、社会に出た時の振る舞い方、一般人との性交渉に対する心構え、あるいは「提供」への備えといった、普通の教育課程にはない教科があること、健康診断が毎週のように行われること、また生徒たちは、施設の外との接触が極めて限られていること、せいぜい生活用品を運んでくる運送業者との接触しかないこと、そして「先生」と呼んでいる人たちが「教師」ではなく、「保護官」であることなど、何か肌触りの悪さが感じられるのです。この時点でキャシーたちの置かれている位置がだんだん分かってきはしますが、まだ明らかではありません。
 ある日雨に降り籠められているとき、ざわざわと雑談に興じているとき、そこには保護官の一人であるルーシー先生も一緒にいて、皆に話しかけます。皆さんは知らなければいけない、皆さんは俳優にはなりません。アメリカにも行きません。スーパーの店員にもなりません。それどころか皆さんの将来は決められています。介護人として勤めた後、臓器の提供者になります。そして使命を完了します。それをしっかり知っておかなければなりません。
 ルーシー先生のこういう言葉の後、この小説が醸す雰囲気はがらっと変わります。次第に空気は重苦しいものになって行きます。ある日そのルーシー先生の退任が告げられます。キャシーが16歳を迎えたその秋、彼らは課程を修了して、その地を離れます。
 第二部は、社会に旅発つに当たっての準備の期間です。各地に設営されている「コテージ」と呼ばれる施設で、小さな集団生活が営まれます。ここでは日常生活の全てを自らの力で行うという、言わば生活訓練の場が設定されています。小説中でこの部は、第一部に比べると印象に薄い感を免れません。17歳・18歳と言えば、確かに果敢な年頃ではあります。そしてキャシー・ルース・トミーの3人も、いよいよ大人の入口に立つことになりました。とはいえ外見的には言うほどのものはありません。ただそこで一つのエピソードが語られます。
 ここでは外出もかなり許されていて、同居している先輩の一人がある町で、ルースによく似た女性を見かけたという情報をもたらします。早速その先輩とその彼女、そして件の3人で、車に乗って出かけることにしました。
 ここで少し補足が必要でしょう。キャシーたちはクローンです。私たちのように両親の遺伝子を受け継いで生まれたのではありません。具体的には語られませんが、ある人から細胞を抽出して、その核から取り出した遺伝子を、幹細胞に変化させます。それをさらに受精卵に変化させて、試験管の中で胎児にまで育てられます。彼らはそのようにしてこの世に生まれ出たものだと言います。そのような細胞の提供者を、彼らは「ポシブル(可能性)」と呼んでいます。見知らぬ他人ではあるが、同じ遺伝子を共有する可能性のある人、とでも言う意味なのでしょうか。彼らの細胞提供者に対する、屈折した思いがよく表れている用語です。
 ここでイシグロは、クローンにその親に対する何らかの執着と思いを語らせています。しかもそれらしき女性を、とうとう見つけることができたのでしたが、やや離れたところから観察しているうちに、人違いであるという結論に至ります。ルースの落胆は幾ばかりだったか、いやキャシーもトミーも、自らの親(ポシブル)への思いを抱えながら、ルースを思いやったのでした。気丈なルースは、あのような裕福な女性が自分のポシブルであろうはずはない、恐らく場末の酒場をねぐらにしているような女に決まっていると言います。
 コテージに帰って暫くしてキャシーは、ポルノ雑誌の束を見つけます。それを熱心に見ているところを、トミーに見とがめられます。トミーは気づいていたのでした。キャシーはポルノ雑誌の写真に、自分の母(ポシブル)を探していたのでした。理由はルースと同じです。自分のポシブルであれば、ポルノ写真のモデルになっていてもおかしくない、そう思ってのことでした。
 このことから分かることは、イシグロは、嘗て行われていた売血と同様の市場が、クローンの元になる細胞の受け渡しにも存在していると想定しているらしいことです。このことから、もう一つ進めて考えることができそうです。
 イギリスの事情、アメリカやヨーロッパの事情は詳らかにしませんが、わが国の移植医療の現状を考えることで、臓器の需給状況を推定することはできそうです。現在我が国で行われている移植医療に用いられる臓器は、脳死者からと、生体間の提供からなっています。臓器には心臓のように、脳死者からしか提供されない臓器と、腎臓や肝臓のように、生体間でも提供され得る臓器とがあります。
 しかしそれを需給の面から見ますと、どちらの臓器も圧倒的に需要が勝っています。つまり移植医療に必要な臓器は、極めて不足しているのが現状です。それはイギリスでも事情は同じであろうことは容易に想像されます。イシグロは、このような移植医療からの臓器へのニーズに応じるために、社会の選択として、クローンを位置づけました。キャシーたちはこのようにして誕生したのでした。そのキャシーは、コテージの生活を二年ほどで終えて、介護人となるべく、訓練センターに入る決心をします。
 第三部はキャシーの介護人としての活動と、ルースとトミーの提供者としての生活が描かれます。
 「介護人」とは、臓器の提供に赴くクローンたちを、肉体的にも精神的にもサポートする役目の、後に提供者となるクローンに与えられた役割です。キャシーはそれを、12年勤めてきました。
 ルースとトミーは、短期間の介護人から、早々に臓器の提供者となります。提供は、4回行われて、彼らの使命はそこで完了します。提供は、4回行われることになっているのですが、中には初回で完了する者もいますし、4回目まで元気なものもいます。
 ルースの初回の提供は極めて厳しいものだったとの噂で、それを知ったキャシーは、ルースの介護人を志願します。こうしてまたルースとキャシーは邂逅することになります。ルースは2回目の提供で使命を完了します。キャシーに、トミーの介護人となることを言い残します。キャシーは承諾し、ルースとの別れの後、それを志願します。
 トミーの提供は最後の1回を残すだけとなっていました。ルースのもう一つの遺言、マダムを捜し出して話をするというものを、実行する時間が迫ってきました。キャシーはルースから教えられた住所を探り当てて、マダムの住居であることを確認します。そしていよいよトミーとともに訪問することを決心します。
 2人がマダムの居住地である町を訪れると、誠に幸運にも、マダム自身を発見します。そこで後を追って、マダムの住居の前で声をかけます。マダムも気づいていたようで、さほど驚く様子もなく、2人は家の中に請じ入れられます。
 部屋に入ると少し待たされた後、マダムが入ってきて、2人は話を始めます。そこに奥で話を聞いていたと思しい、車いすに乗った女性が入ってきます。2人は驚きます。それは、エミリー先生だったからです。
 ここではまだエミリー先生についてご紹介しておりませんでした。先生は2人の出身の施設の責任者、一般には校長先生と呼ばれる立場の方でした。厳格な方で、いたずら盛りの彼らにとっては、誠に犯しがたい存在だったと言える方でした。
 エミリー先生の話はこうです。キャシーたちクローンの子供たちを預かって、最終の目的もさることながら、教育を施し伸びやかな生活を保障することで、クローンとして生まれてきた子供たちも、個性を伸ばし、才能を伸ばすことができる。それを証明しようと、賛同者を募り、出資者を募って施設を作り運営したのだが、それが果実を結ぼうとしたころ、学業や芸術の分野で能力を見せ始める者が現れるようになったころ、社会の空気が反転してしまった。たちまち賛同者は離散し、資金は底を突いてしまった。
 エミリー先生たちはクローンとして生まれてきた子供たちを、普通の子供同様に育て教育することが、極めて当然のこと、人道に叶ったことと信じて活動してきたのですが、一般にはそれは厭わしい行為と受け止められるようになってしまった、そう言われるのでした。クローンは我々に奉仕するために生まれてきたものだ、彼らは我々に健康な臓器を提供すればよい、人格や才能を認めなければならない謂われはない、と言うのがその論拠でした。そこにはもう一つ、クローンの人格を認めれば、やがてクローンが社会の実権を握ることになるだろう、こういう恐れが蔓延したのでした。
 エミリー先生とマダム(マリークロード)の家を辞し、帰途に着いてからトミーは、車を止めて外へ出て、「ルーシー先生が正しい」と叫びます。ルーシー先生のあの言葉、皆さんはしっかり知らなければいけない、という言葉が、トミーの中に蘇ります。ルーシー先生は正しい、トミーにもキャシーにも、ルースやその他の子供たち、皆に一人一人の人格が備わっていること、「提供」という使命を負わされて生まれてきた者たちにも、人格はあるのだということを、ちゃんと知っておくべきだ、トミーはそれを今しっかりと掴んだのでした。
 その後トミーの4回目の提供が近づいてきます。そしてトミーは、キャシーを自分の介護人から解任したいと言います。キャシーは、猛烈な怒りに見舞われますが、冷静になってみると、それはトミーへ向けたものではないことに気づかされます。こうしてトミーの最後の提供が終わり、キャシーも提供者となるところで、この物語は終わります。
 勿論ここで問われているのは臓器の移植医療の行く先です。あくまでこの小説は近未来のフィクション、イシグロはここでキャシーを初めとするクローンの人物たちを、私たちとは違った何かとは描いていません。だからこそ私たちは実在感を持ってこの小説を読めるのでしょうし、キャシーもルースもトミーも、素晴らしく魅力的に描かれて、私たち読者を否応なく彼らの側に引きつけます。彼らはクローンである以上、私たちとどこも変わらない姿形をしています。にもかかわらず彼らは、ここではある役割、移植用の臓器の提供者としての役割を担うことだけで存在が許されている、そう設定されています。キャシーによって語られ、キャシーを中心に展開する物語として私たちに開示されるこの作品は、その意味で、頗るノーマルな印象を与えます。しかしエミリー先生は言います。私たちはあなたがたが怖くてたまらなかった、校庭で遊ぶあなた方を見ていると、悍しさに逃げ出したくなった、それを必死に我慢しました、それがあなたがたを取り巻く世界なのです、と。読者である私たちはクローンの側にいるためか、このことが分かりません。キャシーとトミーも、不可解さを隠せません。エミリー先生宅を辞去するとき、マダム(マリー・クロード)は、キャシーの頬に触れながら「かわいそうな子供たち」と呟きます。
 この小説には既にはっきり書かれていることですが、読者が一般社会の側ではなく、キャシーの側に立っているために、社会がクローンをどう捉えているかという視点がぼやけていることは否めません。ここにはイシグロの思惑が込められているようです。イシグロの設定したこの措置は、あくまで移植医療を推進するための策と位置づけられています。この設定に至る順序を振り返れば、臓器を病んでいる人がいる→その人は他人の臓器を移植すれば健康が取り戻せる→移植に提供される臓器の数が圧倒的に少ない→そこで移植用の臓器の生産を考えよう、というのが思考の系列となります。そしてクローン技術の発達に着目することになった。しかしイシグロはこの語りをクローン自身に委ねました。社会の側にいるはずの読者は、いつの間にかクローンの側に立って、クローンを普通の人間、人格ある人間、知識も能力も感情も備えた人間として受け入れた状況からこの作品世界に入ります。
 これをイシグロの思惑から離れて、私が一般人としてこの物語に立ち会っていると考えてみましょう。臓器の生産のためにクローンが作られる、クローンは試験管の中で胎児の時期を過ごす、試験管から出た(誕生した)クローンは、一般の新生児と同様の姿をし、同様の世話を受けて成長する、そして幼少年期・思春期と、一般人が辿るのと同様のプロセスを経て成人に達する、そして臓器の提供に至る。私がそこにいたと仮定するとき、彼らクローンとどう接すればよいのか、私はここで思考停止を余儀なくされます。
 医師で作家の石黒達昌氏は嘗て、脳死を人の死と認めるかという議論が盛んに交わされていたころ(この議論はわが国では決着したとされていますが?)、小説作品の中で、主人公の母親が脳死と判定されて、提供すべき臓器の受容者が決定するまで、生命維持装置によって生かされ、「死者」と見做されつつ、生命ある、臓器の保管庫という扱いに移行して行く姿を描いておられます。
 人間の際限の無さは至る所で発揮されます。そろそろそれが、生命に及ぼうとしているのでしょう。そのことがこれらの作品によって、先取りされていると私は読みました。


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