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漢点字の散歩(42) 岡田 健嗣 |
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「横浜漢点字羽化の会」発足20年 この1月31日で、本会は、発足20周年を迎えます。 本会は、1996年の1月31日に、活動を開始しました。本来ならば本誌・今号を、その記念号とすべきところですが、一昨年の10月に発行した号を100号記念号としましたので、今回は、取り立ててそのように位置づけることはせずに、一つの通過点と見ることにしました。 そこでこの欄をお借りして、本会のこの20年を、振り返って見ることに致します。 ☆発足以前 私は広島県・現尾道市で生まれて、学齢直前に横浜へ移りました。横浜との縁はそのころからのもので、ほぼそのまま現在に至っております。 強度の弱視者として生まれついておりましたので、盲学校で教育を受け、文字は触読文字の点字を使用しておりました。点字について、盲学校での教育については、別の箇所で申し上げておりますので、ここでは詳細は省略させていただきます。ただ漢字の知識については、学校教育の場では、全く教えられなかったことだけ、申し上げておきます。先生方からの特別な教育サービスはいただきませんでしたので、受けた教育は、盲学校としてはごく標準的な教育に浴してきたものと理解しております。 1978年から79年にかけて、川上泰一先生の主催される通信教育を受講して、漢点字を学びました。これが私の、漢字体験の始まりです。とはいえ私が読みたい本は、漢点字訳書どころか、カナ点字での点訳書や音訳書にもなかなかなっておりませんでした。従って漢点字で本を読むという本来の目的は、ほとんど果たし得ずにおりました。そういう情況は、基本的には現在も変わっておりません。公的には、どちらの施設も漢点字の書籍のニーズを受けるところはありません。(ただし私の現在は、本会(横浜と東京)の活動には全て参加させていただいておりますので、漢点字の触読には、大変恵まれている環境にあることは間違いありません。)然う斯うしているうちに墨田区に地歩を得ることができて、墨田区立図書館に勤務されておられる山内薫さんにお目にかかることができたのでした。この出会いが、本会の発足に結びついたのでした。 当時墨田区の図書館に、徳島教育大学の末田統先生の開発された、初期のパソコンを使用した、漢点字の文書を打ち出す装置が導入されておりました。私はその装置を利用して、漢点字の資料を作っていただけないかと、山内さんにご相談してみました。山内さんは、図書館で活動しておられる点訳ボランティア・グループの方にお伝え下さって、私の希望の一端を叶えて下さいました。これが、この活動に歩を進める一歩だったのでした。 ☆川上先生のご逝去、そして本会の発足 私は、横浜でも同様のサービスをしていただけないものかと、横浜市社会福祉協議会や神奈川県ライトセンターに相談して、同所を拠点として活動しておられる点訳ボランティアの皆様に声をかけていただきました。幸い手を挙げて下さる方がおられて、パソコンへの入力をお申し出下さいました。それは現在も活動の中心となって下さっておられる、吉田信子さんです。しかもお話しを進めているうちに、漢点字への変換プログラムを作りましょうというお言葉が飛び出して、吉田さんのご主人のご協力を得て、たちまち実現したのでした。それによって墨田区の図書館ばかりでなく、他の施設にある点字プリンタでの打ち出しも可能となったのでした。とは申しましても、ここで手を挙げて下さったのは、吉田さんお一人だったのでした。残念ながら漢点字書を製作するパソコンからの入力・校正・編集・打ち出し・製本という一連のプロセスをお願いするには、余りに手狭であることは一見して分かるものでした。 折しも1994年から95年にかけて、漢点字をめぐる環境も大きく変化しつつありました。94年の8月30日に、漢点字の創案者である川上泰一先生がご逝去されました。漢点字を学んで漢字の世界に初めて触れる機会を得ることのできた者にとって、このことは、寄る辺を失うような、大きな喪失感をもたらしました。その後、漢点字使用者を自称する人々の間から、川上先生のおっしゃっておられたこと、漢点字を読むことから何かを掴んで欲しい、というお言葉が、徐々に希薄になって行くように感じているのは、私の僻目でしょうか。 さらに95年には年初から社会を震撼させる大きな出来事が続きました。 まず神戸を震源とする関西大震災です。1月17日、6時過ぎに起床した私は、NHKテレビのニュースでその一報を知りました。ところがその被害の有様が詳らかになったのは、関西地方の日の出の時刻である午前7時30分を過ぎてのことで、それまでの一時間余りは、報道らしい報道ができないという、視聴者である私どもよりも、なお報道に従事されている人々のもどかしさと焦りを、ひしひしと感じさせられる時間でした。 震災の被害、罹災された皆様のご様子やその後の復興については、ここに述べる必要はありませんが、この未曾有の、驚天動地の災害は、底の底から何かを変えたように感じられたものでした。何が・どう変わったのか審らかにしませんが、確かに何かが変わったという感は、現在も感じております。 もう一つの出来事、そうです、3月20日の、「地下鉄サリン事件」です。 当日私は仕事をしておりましたところに、予約して下さっていたお客様が、10時過ぎにお見えになって、「駅に警察官が何人もいましたよ!何かあったのでしょうかね?」とおっしゃったのを聞いて、かけていた音楽をテレビに替えたことを覚えています。これも昼過ぎまで何が起こっているのか、判然しないままの時間を過ごしたものでした。この事件についてのその後のことは、皆様充分ご承知の通りです。 このようにして始まったこの年、私は、横浜でお一人だけの協力者を得て、これからどうしようかと、考えたものでした。吉田さんと話し合いを重ねて、どうすればご協力いただけるボランティアの方々にお集まりいただけるか、思案を重ねましたが、当初は既存の点訳ボランティア・グループの皆様のご協力を得ようと考えたのでしたが、そのような皆様は既に活動をお持ちで、私どもに割いて下さる時間のないことが、段々分かって参りました。そのようにしているうちに、ライトセンターの方にご相談させていただきましたところ、「ゼロから始めたらどうですか?」というお言葉をいただき、何か風通しがよくなった思いがしてきたのでした。 そしてグループ名を「羽化の会」として、漢点字訳ボランティア活動をお願いすべく、その会員を募集することになったのでした。 その第一回の講習会を、1996年1月31日(水)に、神奈川県ライトセンターを会場に開催したのでした。 ☆『漢字源』の漢点字版 後で聞いたことですが、4回の講習を終えた後、主催した私と吉田さんには告げられぬまま、講習会にお集まり下さった皆様は、話し合いを持たれたとのことでした。つまり私どもが余りにも頼りなく見えたものらしく、主催者とどう付き合おうか、といったことが話し合われたようです。しかしそれだけに、案ずるより何とやら、次第に結束の堅いグループが出来上がって行きました。今振り返っても、奇跡と感じられるほどでした。 私は当初、活動の目標に、3つの柱を立てました。これは現在も、規約として掲げられております。 ・基本的な書籍の作成。辞書、古典、詩歌など、なくてはならないもの、評価の定まっているものの漢点字訳。 ・漢点字の入門書。漢点字を学ぼうとする人のための読本、その他。 ・ニーズに応える。漢点字使用者に呼びかけて、ニーズを募集して製作。 の3つの柱、それぞれ平均に進められるのが理想的と考えておりましたが、現実には、ニーズはなかなか集まらず、漢点字学習者向けの読本も、まだ不十分な状態です。 勢い基本的な資料への傾注となったのですが、それにはもう一つ大きな理由が重なりました。 同年(1996年)4月に、横浜国立大学教授の村田忠禧先生が、学習研究社様からデータを譲り受けられて、『漢字源』(藤堂明保編)の漢点字版を作られたという報道がありました。先生には以前お会いしたことがあり、お電話をさせていただきましたところ、快く、同じデータを使用して、本会でも同書の漢点字版の製作ができるようお計らい下さいました。そのお話しを会に持ち帰り、会でもやってみる価値は十二分にあると、賛成者が多数を占めて、村田先生にお願いして、学習研究社様にお話ししていただきました。 同時に、本会発足時に活動にご参加下さっていた木下和久さんが、吉田さんのご主人が作られたプログラムを、さらに使いやすいものにして下さり、現在使用しているプログラム、「EIBRKW」の原型が完成しました。 さらにもうお一方、当時市会議員を務めておられました大滝正雄先生のご尽力で、市の図書館である中央図書館に、『漢字源』の漢点字版を納入することになったのでした。 全九十巻、読者の皆様のご利用をお待ちしております。 このようにして本会最初の活動が、『漢字源』の漢点字版の製作という、思いも寄らぬ成果を産んで、活動の方向性も自ずと定まって参りました。 ☆『常用字解』漢点字版への挑戦 3つの柱、その3番目の「ニーズ」への対応については、残念ながら決して多数のタイトルを仕上げることができておりません。今後は常に心がけて、ニーズをお寄せいただけるよう、取り組んで行く必要のある課題と考えております。漢点字使用者の皆様、是非ニーズをお寄せ下さい。 2番目の柱である漢点字学習用の資料の充実は、テキストの製作以外は、その時のニーズに応じた資料を作成して参りました。 取り分け定期刊行物として、漢点字の読みの鍛錬を目的にオリジナルに編集し製作している「横浜通信」(無料)、月刊にまとめてお届けする「朝日歌壇・俳壇」、「健康記事(朝日新聞、読売新聞からの抄訳)」(有料)、そして東京のグループが製作している朝日新聞のコラム「“be on Saturday”」(無料)は、漢点字の触読の鍛錬として最適であるばかりでなく、趣味にも生かされ、鑑賞力と理解力の鍛錬にも、大いに適った資料であることは、晴眼者の皆様と共通します。斯く申す私も、歌壇・俳壇の製作を始めたころは、全くと申してよいほどに、読みこなすことができませんでした。今思えば、読み切れない苦しさに堪えることができたからこそ、読む力を得られた喜びがあると言えるようです。 『漢字源』に始まった本会の活動、その最も大きな柱は、基本的な資料の製作ということになります。 その中から2冊を選びますと、『論語』と歌集『白描』ではないでしょうか。『論語』は言うまでもなく孔子の残した語録です。現代にも充分有用な、示唆に富んだ書です。現在も多くの人々が、折りに触れて紐解いていると言われています。 『白描』は、戦時中に亡くなったハンセン病の歌人「明石海人」の歌集の復刻版を漢点字訳したものです。以下に序文を掲げます。 《癩は天刑である。 加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき搜つて一縷の光を渇き求めた。  ̄深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何處にも光はない ̄さう感じ得たのは病がすでに膏肓に入つてからであつた。 齡三十を超えて短歌を學び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また嚴しいかを身をもつて感じ、積年の苦澁をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。 人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。 癩はまた天啓でもあつた。》 このような書物は、視覚障害者には、漢点字でなければ決して読めないものだと言うことを、このような書物を読むことに意欲を持つ視覚障害者は、是非回り道と思っても、漢点字の門を敲かれることをお勧めしなければならないということを、申し添えます。 そして2004年から、『常用字解』(白川静著、平凡社)の漢点字訳に着手し、6年がかりで完成に漕ぎ着けました。その後に完成した『人名字解』(白川静著、平凡社)とともに、中央図書館でご利用をお待ちしております。 『常用字解』の完成によって、それまでは知り得なかった漢字の構成、形の把握が、視覚障害者にも充分開かれたものであることを、私自身、証明できたと考えております。 高名な視覚障害者の方が、「視覚障害者には漢字の形を理解することはできない」と言われたとお聞きしました。また盲学校の先生方が、視覚障害の子供たちに、漢点字を学ばずとも漢字を教えることができるとして実践されているとも伺いました。 しかし前者については決してそういうことはなく、漢字の形もその構成を辿ることで、充分把握できることが、証明できたと考えております。たとえば「月」、この形は天体の「つき」、その三日月形に由来すると言われます。また「肉」を簡略化した形でもあります。また「祭」の左上の形も「肉」に由来する「月」を、さらに斜めにした形です。「夕」もまた天体の「月」の形に由来します。「多」は、「肉」の略体を重ねた形で、沢山の肉が積み上げられていることを表しています。 「月」にはもう一つの由来があります。「謄、騰、藤」の「月」は、「舟」の略体に由来します。その基本形は「朕」で、舟形の盥を輿のように担ぎ上げることを意味していると言われます。この「朕」に「言、馬、水」が加えられて、別の文字ができたと言われるのです。 これはごく一部に過ぎません。このように漢字の形を、漢字の構成を解きほぐすことから、充分知り得ることを明らかにできたのも、この『常用字解』の完成のお陰です。もう一つ、私どもの工夫をご紹介致します。 それは「字式」と呼ばれる、字形を数式の表現を借りて表そうというものです。 「+」は左右の関係を、「/」は上下の関係を、「・」は上下の関係で、くっついたものを、「>」は中に含む形を表すことにしました。 例を挙げますと、「古」は「十・口」、「固」は「囗>古」、「枯」は「木偏+古」、「個」は「人偏+固」となります。 少し複雑なものでは、「岡」は「冂>“ソ・一・山”」、「罔」は「冂>“ソ・一・亡”」となります。 このように「字式」で表現できれば、それに沿って指でなぞることができて、最終的には漢字の形と構成の理解にまで到達できるということになります。 さて二つ目の、漢点字を学ばなくても漢字の形を理解することはできるということについてです。私はこれには懐疑的です。なぜならば、点字の考案が既にその答えを用意しているからです。 ルイ・ブライユは、1825年に「点字」を創案しました。そこに至るには彼の天才的な発想が見られますが、そのことは置いて、彼がなぜ「点字」の開発を試みたかということを考えてみましょう。周知の通りそれは、それまで読めない文字を読まなくてはならなかった視覚障害者が、希求し念願した文字だったということに因ります。それまでの触読文字は、一般のアルファベットを浮き出させたもので、文字を一つ一つ判読するのがやっとというもので、文章を読むことはできなかったと言われます。しかもその文字が読めなければ、劣等生の烙印を捺されるという始末です。詰まるところ当時の盲学校では、晴眼の先生方と視覚障害の生徒の間には、越えられない何かが存在していたとも言えますし、ブライユの「点字」は、その壁の高さを、低くすることに成功したと言えるのではないかとも言えるのです。しかしブライユの「点字」は、彼の生前には普及を見ることはありませんでした。彼の逝去後、欧米に広く行き渡ったと言われます。なぜ普及が遅かったのか、それは視覚障害者の教育に当たっていた晴眼の先生方が、「点字は文字ではない」として、認めることを強硬にに拒んだからだと言われます。 このようにブライユの「点字」が世に出るに当たって、それまでの触読文字への批判が大きなエネルギーとなっていたことは、現在にも充分通用することと思います。 前世紀の後半に、アメリカで、オプタコンという装置が開発されました。小型のカメラで文字を画像として読み取り、細かいピンディスプレイにその形を表示させるものでした。大変高価なものでしたので、我が国では持つ人は余りいませんでしたが、気づいてみると、普及はしなかったようです。というのも、使っている方がどのように読んでいるか拝見していたところ、文字を一つ一つ拾うのがやっとで、しかも日本語は読めないとのことで、使い道は極めて狭いものだったことが判明したのでした。 しかしこのような装置が求められるには、それなりの理由があります。いわゆる墨字の文字を視覚障害者もそのまま読めないかという欲求です。現在ではボランティアの力をお借りしなければ、本を読むことはできません。それを何とか自力で読めるようになりたい、これがオプタコンの開発や浮き出し文字への欲求となって、点字離れを引き起こしているのではないか、そう思われてなりません。 しかし見た通り、墨字をそのまま触読文字とすることは、ブライユ以前に逆行することに他なりません。果たしてそれでよいのか、議論が必要ではないでしょうか? ☆晴眼者でもそこまで必要ないのに、視覚障害者に…? ここまでお話しして参りますと、必ず言われることがあります。「岡田の言うことは分かる。だが岡田のような欲求を持つ者は晴眼者にも希なのだ。そうであるならば、岡田は特別で、他の視覚障害者の皆さんには、漢字の知識は必要ではないのではないか?そういう人には無理に教える必要もないのではないか?」というご意見です。 果たしてそうなのでしょうか? 一歩退いて、そのご意見を是としてみましょう。つまり「自分には必要ないから勉強しません」とある視覚障害者が言いました。これを是とします。これは晴眼者の方が視覚障害者に向けておっしゃったものを視覚障害者に言わせたものです。 何か変ですね! 私が『常用字解』から学んで漢字の形と構成を理解したのは、あくまで必要に迫られてのことでした。そもそも私が漢点字を学んで漢字の世界を知りたかったのは、色々な本を読むためでした。たまたま本会の活動をするに当たって、『常用字解』から得るものが莫大で、現在そこから得た知識や考え方が大きなウェイトを占めてしまった、これが現況で、本来はここまで文字に踏み込む積もりはありませんでした。しかし必要あって勉強してみた、本会の活動のお陰で、それが実現できたのでした。もしこの活動がなくて、しかもこのような勉強をしたいと思えば、必ず挫折することになります。 これでこのご意見へのお答えは充分だと思います。晴眼の皆さんは、こうしたいと思えば何時でも始めることができます。それは初等教育から識字教育を受けておられて、勉強、あるいは研究の資料も、その入り口までは調っているからです。 では視覚障害者はどうかと言えば、識字教育も、自ら要らないと言うから受けさせませんでした。勉強、あるいは研究の資料も、準備ができていません。最初に望んでいれば考えもしようが、望まなかったあなたが悪い、こういう意味の言葉は、案外普通にかけられていました。この通りではないにせよ、望まないのが悪い、今となってはもう遅いといった拒絶の言葉は、耳に馴染んでおります。 盲学校の先生方、図書館にお勤めの皆さん、視覚障害者を対象にお仕事をなさっておられる皆さん、こういう言葉は決して使わないで下さい。使わないようにするなら何をすればよいか、そこをお考え下さい。使わないのなら黙っていよう、いやはやこれもよく用いられた方法でした。 現在本会では、横浜で『萬葉集釋注』を、東京で『岩波古語辞典』を漢点字訳しております。これらも基本的な資料という大きな柱のもとに製作しております。 ご期待下さい。 |
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