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漢点字の散歩(43)
                    
岡田 健嗣

       漢点字版『萬葉集釋注』第四巻が完成しました

 本会が、伊藤博著『萬葉集釋注』(集英社文庫・ヘリテージ・シリーズ)の漢点字訳に着手してから、久しい時を過ごしました。2012年度から横浜氏中央図書館に納入させていただいて、2015年度は4年目となりました。毎年一冊ずつ完成することができて、今回は第四巻の納入となりました。
 この20年に渡って、毎年何冊かの漢点字書を製作して、図書館に納入して参りました。これらの漢点字書は、会員の皆様の汗と努力の結晶というべき作品ですし、またそれを受け入れて下さっている図書館の、視覚障害者の言語と文字の文化の振興へのご理解の賜であることを、視覚障害者の一人である私自身、強く心に留めなければいけないことと、肝に銘じております。深く御礼申し上げます。
 今回完成致しました『萬葉集釋注』第四巻は、万葉集の巻七と八が収められた巻です。歌を歌群として捉えて、一首あるいは何首かの歌を歌番号順に掲げて、その後ろに伊藤先生の解説が「釈文」として収められております。伊藤先生は、万葉集を一首一首の歌の集合体として捉えるだけでは不十分で、歌の並びが一つの流れとなって、全体として物語を形成していると言われます。「釈文」では、その流れを抽出し、その巻の成立事情とともに、当時の宮廷や社会や文芸の有り様を説いて下さっています。
 巻一から六は、「小万葉」とも呼ばれて、万葉集が万葉集である、その個性を豊かに表した秀作によって編まれています。この六つの巻を味わうことで、概ね万葉集を鑑賞することになるとも言われます。その意味では既に私たちは、万葉集の明かす歌と思想の世界を、ほぼ知り得る環境を得たとも言えるのでしょう。誠に漢点字の力と言うべきです。漢点字と川上先生、並びに漢点字書を製作して下さっている会員の皆様、これを受け入れて下さっている図書館の関係者の皆様には、感謝に堪えません。
 巻七以下はその意味では、それまでとは少し様相を異にしています。むしろ編者の力の入れ所が、鑑賞の主眼となるようです。
 巻七の特徴・巻八の特徴については、三田誠司先生の解説をお読みいただくのが、この巻のご紹介としては最も適切に思われます。以下に、全文を引用させていただきます。ご精読下さい。


 《万葉集解説 四(三田誠司)

☆巻七〜巻十二と「人麻呂歌集」
 巻七から巻十二までの六巻は、いずれも「柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)歌集」の影響のもとに編まれたという点で共通している。
 『万葉集』の編纂に利用された「人麻呂歌集」には、「常体人麻呂歌集」、「詩体人麻呂歌集」と、上記二本とは別の「異本常体・詩体人麻呂歌集」(一本にまとまっていたとは限らない)とがあった。
 「常体人麻呂歌集」は、

 痛足河 河浪立奴 巻向之 由槻我高仁 雲居立有良志(7一〇八七)
 (穴師川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
 あなしがは かわなみたちぬ まきむくの ゆつきがたけに くもゐたてるらし)

のように、助詞・助動詞を比較的丹念に記す「常体表記」(非略体表記)の歌からなる。これは、人麻呂の宮廷生活における自他の歌の集、すなわち雑歌(ぞうか)集であった。
 「詩体人麻呂歌集」は、

 春楊 葛山 發雲 立座 妹念(一一・二四五三)
 (春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ
 はるやなぎ かづらきやまに たつくもの たちてもゐても いもをしぞおもふ)

のように、助詞・助動詞をほとんど省略する「詩体表記」(略体表記)の歌からなる。こちらは、宮廷の中下層の人々を中心とする男女の歌の集、すなわち相聞(そうもん)歌集であった。上記二集は、人麻呂本人が、その活躍中(六八七〜七〇三年)の後半期頃に編纂したと察せられる。それに対し、「異本人麻呂歌集」は、上記二集が伝来の間に異同や増幅を受けて成り立ったもので、一本とは限らない。
 「常体人麻呂歌集」は主に巻七、九、十の編集に利用され、「詩体人麻呂歌集」は巻十一の編集と関わり、「異本人麻呂歌集」は巻十二の編集に用いられた。なお、本書の釈文では現在一般的な名称となっている「略体」「非略体」の語を用いている。が、本解説では、本解説のもとになった『萬葉集釋注』十一別巻および『古代和歌史研究』の用語に準じ、「詩体」「常体」の語を用いることとする。
 共通して、「人麻呂歌集」と関わる巻七〜十二であるが、それぞれの巻の形成過程は長く複雑である。ごく大雑把に言って、編集作業には三つの段階が想定できる。第一は、神亀(じんき)初年(七二四)以降数年間の奈良朝風流侍従たちの営み、第二は、天平(てんぴょう)五、六年(七三三、七三四)頃の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)や笠金村(かさのかなむら)・山部赤人(やまべのあかひと)たちの営み、最終的には天平十六、十七年(七四四、七四五)頃の大伴家持(おおとものやかもち)・市原王(いちはらのおおきみ)たちの営みである。
 これらの段階は、先行する巻一・巻二の追補や、巻三・四・五・六の形成段階でもあった。したがって、巻七〜巻十二も、これら他巻の形成と密接に関わっている。さらに、天平十七年段階以降の手入れもあったらしく、すべての巻のすべての歌について一々の編集過程を明示することは困難である。以下、各巻ごとに、推定される編集過程のあらましについて略述することとする。

☆巻七の成り立ち
 巻七は、「雑歌」「譬喩歌(ひゆか)」「挽歌(ばんか)」の三部立(ぶだて)。「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌と「古集」の歌に奈良時代の作者不明歌群を合わせて成っている。さらに、「雑歌」は「…を詠む」(詠物)の小題のもとに、「譬喩歌」は「…に寄す」(寄物)の小題のもとに、それぞれの歌が配置されている。この点、巻十が「雑歌」と「相聞(そうもん)」を四季分類し、それぞれに詠物と寄物の小題を付しているのとよく似ている。巻七と巻十とは、共通の資料をもとに、無季の歌は巻七へ、季節の歌は巻十へという基本方針で、連れ立って編纂されたものと推測される。
 巻七「雑歌」は、T 詠物部(一〇六八〜一二九)、U 羈旅(きりょ)部(一一三〇〜二五〇)、V 雑部(一二五一〜九五)の三部からなる。Tは、詠物の小題ごとに分散配置された「常体人麻呂集」歌(「異本人麻呂集」からの詩体歌一首を含む)と、五二首の天平期出典不明「無季雑歌集」とから成り、Uは、終始旅の歌を集めた上で「古集」の名のもとにまとめられている。一方、「譬喩歌」は、その前半部分に、巻十一の基礎資料となった「詩体人麻呂歌集」から抜き出した歌を一括して配置し、その後に天平期の作者不明の譬喩歌群を並べている。最後の「挽歌」には、「人麻呂歌集」の歌はない。
 このように、巻七では、人麻呂歌集の扱いをめぐって二つの基準が見られる。「雑歌」詠物部では分散方式に、「譬喩歌」では一括方式になっているのである。この不統一現象は、巻十にも見られる。すなわち、巻十「秋雑歌」は、巻七「雑歌」と同じく小題ごとに「人麻呂歌集」歌を分散させ、巻十の他の部では、巻七「譬喩歌」と同じく部立の冒頭に一括しているのである。この不統一は、巻七「雑歌」のもとになった「無季雑歌集」と巻十「秋雑歌」のもとになった「秋雑歌集」とが、現存巻七の編纂に先立って誰かの手によって編まれていたと考える時、もっとも素直に解ける。
 神亀年間の頃、「人麻呂歌集」をもとに、現在の巻十一などに成長してゆく原歌巻(うたまき)を構成しつつあった編者たち(奈良朝風流侍従)によって、「人麻呂歌集」と「出典不明歌群」とからなる巻七原本と巻十原本が編まれた。その折の巻七原本は、「雑歌」だけであった。件の「無季雑歌集」は、この神亀の編者たちの誰かが、それ以前に手すさびに編んでおいたものではないかと思われる。
 次いで、原本巻十二の形成に関わりつつ、天平五、六年頃、若干の詠物歌が補われ、巻七原本がほぼ完結した。その原本を受け継いだ、大伴家持たち天平十七年段階の編集陣が、原本巻十一の「古」の部にあった「人麻呂歌集」の譬喩歌を一括して巻七へ移し、原本巻十一・巻十二の出典不明歌から切り出した譬喩歌をその後ろに据えて今見る形の巻七「譬喩歌」の部を作った。さらに「挽歌」を加えて三部立とし、ここに現存巻七の姿が整った。
 巻七「雑歌」の構成が、やや雑然とするのに対し、「譬喩歌」が整然としているのは、このような形成段階の違いによるものなのである。「人麻呂歌集」の扱いの違いも、編者層の違いに基づくものだったのである。

☆巻八の成り立ち
 一方、巻八は、歌を春夏秋冬の四季に分類し、その中をさらに「雑歌」「相聞」とに分けるという編纂方針をとっている。そして、各季の雑歌、「春雑歌」「夏雑歌」「秋雑歌」「冬雑歌」のすべてが、天平期の歌群の前に白鳳(はくほう)期の歌群を置いている。「相聞」では「秋相聞」だけが、同じ姿勢を示している。これは、他の季節にはふさわしい白鳳期の相聞の歌が得られなかったためであろう。それにしても、各季の冒頭に古い歌群を掲げ、その後ろに新しい歌群を掲げるという「古今(こきん)照応」の構造は一貫している。人麻呂歌集の利用こそないものの、編纂意識の上では、明らかに、巻七や巻十と連れ立つ。
 巻八は、巻七、巻十などとは異なり、作者名がはっきりと記されている。ところが、巻八の記名の中には、「大伴宿禰(すくね)家持」のように作者の「姓(かばね)」を記すものと、「大伴家持」のように「姓」を省略するものとがある。さらに、「姓」を記す歌の題詞には、雑歌の場合、「大伴宿禰家持が雪梅の歌一首」(8一六四九)のように、「作者名 + 季物 + 歌何首」の型を、相聞の場合、「大伴宿禰家持、安倍女郎(あへのいらつめ)に贈る歌一首」(8一六三一)のように「作者名 + 贈・報の類 + 歌何首」の型を有するものが多いことが指摘されている。「姓」は氏の社会上の身分を示す重要なもので、この不統一は、不注意による偶然とは考えにくい。これは、巻八のもととなった資料の差による現象と考えるべきである。そこで、「姓」を記し、題詞に上記のような型をもつ歌を諸般の事情を考慮しつつ抽出すると、「春」一一首、「秋」七四首、「冬」一〇首からなる季節分類の小歌集ができあがる。この小歌集は、各季の冒頭に白鳳期の名歌一首を巻頭歌のごとく据えている。この構成は、巻一、二以来の方法で、特に、家持がかかわった巻三「譬喩歌」の形態に酷似する。この小歌集は、天平十五、六年頃、大伴家持が「季節分類大伴宿禰家持歌集」(以下「宿禰家持歌集」と略称)として編んだ一巻であったらしい。
 巻八は、巻七〜十二までのまとまりの中で、ただひとつ「人麻呂歌集」の歌と無縁な姿を示している。しかし、その基盤となった「宿禰家持歌集」は、「人麻呂歌集」を参考としつつ編まれた形跡がある。というのは、「宿禰家持歌集」は、「夏」の歌を持たなかったのだが、季節の歌を含む「常体人麻呂歌集」もまた、「夏」の歌を持たなかったらしいからである。
 「人麻呂歌集」は、宮廷人の作歌治道書(ちどうしょ)として高貴なる庇護者に献ぜられる万葉の私歌集の魁(さきがけ)であった。その伝統に習いつつ、内舎人(うどねり)家持が、聖武(しょうむ)帝のたった一人の男子、安積皇子(あさかのみこ)に献呈した歌巻が、「宿禰家持歌集」であったらしい。つまり、形態の上でも精神の上でも、「宿禰家持歌集」は「人麻呂歌集」の影響を深く受けているのである。
 巻八は、この「宿禰家持歌集」に、家持や大伴坂上郎女が持っていた天平期の資料を合わせることで成り立ったものと思われる。ここで合わせられた資料は、もとは、巻三や巻六の編集に用いられた天平期歌群と同居していたもので、その中から季節にかかわる歌は巻八へ、宮廷に強くかかわるものは巻六へというように分散されたのである。
 かくして巻七、巻八は、天平十七年頃、巻一から巻十六までのいわゆる万葉第一部を形成する過程の一環として、成立したのである。
 〔本解説は、一般の読者に、伊藤博氏の万葉集の構造と成立の論を紹介することを目的として、『萬葉集釋注』十一別巻(一九九九刊)および『萬葉集の構造と成立』上・下(一九七四刊)の記述をもとに、その要点・結論だけを略述したものである。〕


 この三田先生の解説の後ろに私がものを申すのは、誠に不遜に過ぎるに違いありません。しかし右の解説と伊藤先生の「釋注」を拝読して、私なりの感想を得ました。お許しいただいて、少し述べさせていただきます。

 右の三田先生の解説にある、巻第七の特徴として取り上げられている「人麻呂歌」の二つの表記法、「非略体表記」と「略体表記」について、私はこの漢点字版の製作過程で初めて知る機会を得ました。伊藤先生の解説によりますと、「雑歌」など公的な場で歌われる歌は「非略体表記」、「相聞」などごく私的な歌、場合によっては発表を想定されなかった歌は「略体表記」で表記されることが多く、それぞれ資料も異なっていたのであろうと言われます。このことに最初に着目したのは賀茂真淵で、前者を「常体表記」、後者を「詩体表記」と名付けました。それを現在では一般に、「非略体表記」と「略体表記」と呼んでいます。
 以下に、それぞれ四首づつ、原文・漢字仮名交じり文・総ルビの順に掲げます。

【非略体表記の人麻呂歌】
一〇九五
 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念鴨
 みもろつく 三輪山見れば こもりくの 泊瀬の檜原 思ほゆるかも
 みもろつく みわやまみれば こもりくの はつせのひはら おもほゆるかも

一〇九六
 昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山
 いにしへの ことは知らぬを 我れ見ても 久しくなりぬ 天の香具山
 いにしへの ことはしらぬを われみても ひさしくなりぬ あめのかぐやま

一〇九七
 吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不来益 山之名尓有之
 我が背子を こち巨勢山と 人は言へど 君も来まさず 山の名にあらし
 わがせこを こちこせやまと ひとはいへど きみもきまさず やまのなにあらし

一〇九八
 木道尓社 妹山在云 玉櫛上 二上山母 妹許曽有来
 紀伊道にこそ 妹山ありといへ 玉櫛笥 二上山も 妹こそありけれ
 きぢにこそ いもやまありといへ たまくしげ ふたかみやまも いもこそありけれ

【略体表記の人麻呂歌】
一二四七
 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
 大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも
 おほなむち すくなみかみの つくらしし いもせのやまを みらくしよしも

一二四八
 吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与
 我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きたらば 我れに告げこそ
 わぎもこと みつつしのはむ おきつもの はなさきたらば われにつげこそ

一二四九
 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも
 きみがため うきぬのいけの ひしつむと わがそめしそで ぬれにけるかも

一二五〇
 妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
 妹がため 菅の実摘み
に 行きし我れ 山道に惑ひ この日暮しつ
 いもがため すがのみつみに ゆきしわれ やまぢにまとひ このひくらしつ

 人麻呂の活躍した年代は七世紀後半、天武・持統朝のころと考えられます。八世紀初頭には『古事記』と『日本書紀』が編纂されて、わが国の正史として国内外に示されることになりました。これは大陸の史書に学んだもので、国家にはその国家の拠って経つ歴史がなければならない、それを証明するのが正史だというのでした。わが国も独立国家として国際社会に名乗りを上げるには、この正史を持たなければならないというのが、この「記・紀」の成立事情だったと言われます。『古事記』は字音仮名・字訓仮名という仮名文字の創出による読み下し漢文体、『日本書紀』は漢文体で表されています。そのためにクリアしなければならなかったのが、それまで存在しなかった、わが国独自の書記法の開発でした。そこで完成した『古事記』の読み下し漢文体が、最初期の日本語の書記法となったのでした。二つの表記法による「人麻呂歌」は、この書記法の開発のプロセスを、如実に物語っているように思われます。
 よく知られるように、現在に伝わる万葉集は、十世紀半ばころ、村上天皇の委嘱を承けた、「後撰集」の選者である「梨壺の五人」と呼ばれる撰和歌所の寄人である大中臣能宣・清原元輔・源順(したごう)・紀時文・坂上望城(もちき)の五人の学者によって、当時の日本語の漢字仮名交じり文に翻訳されて伝わったものです。これが今日、私たちが読み、鑑賞することができる万葉集です。万葉集は、成立から約百五十年で、当時の人々には、既に解読困難な文書になってしまっていたのでした。それだけわが国の表記法の変化と発展は早かったと言えるのでした。
 わが国の書記法は、言うまでもなく漢文の訓読に始まります。漢文の訓読とは、漢字で表記された古代の中国の文献を、わが国の言葉に翻訳して読むことを指しますが、わが国の言葉と言っても、当時はそれを表す文字はありませんでした。そこでわが国の人々は一大工夫をして、中国の文献を表している文字である「漢字」に、わが国の発音や意味を当てて読むようにし、さらに読む順序を替えたり、中国語にはない、日本語にだけある語句を付け加えたりして読む方法を編み出しました。このような指示符号(返り点)や読み仮名(送り仮名や助詞・助動詞)を、「訓点」と呼びます。次に漢文に訓点を付して、日本語として読み下すことができるようになりますと、さらに符号を外して漢文の骨格の文字そのものを並べ替えて、送り仮名や助詞・助動詞を行に連ねることで、「読み下し文」が完成します。この文の形式が、現在私たちが使っている日本語の現代文の原型と言ってよいものと考えられます。記紀・万葉の書記法は、正しく現代文に繋がる表記法への発展の直中にあるもので、後世の人々の解釈を経て、私たちの読み得るものとして現在に至っていると言うことができます。
 「人麻呂歌」の「略体表記」は、一見訓点を付されない漢文に似ています。この訓点を付されない漢文に似た文の形は、ごく私的な、場合によっては発表も想定しない文に用いられています。「非略体表記」は、公人としての人麻呂が、公人の役割として発表すべく製作した作品を形作っています。十全な日本語の文として提出するには、一字一句疎かにはできないが、私的な文では、テニヲハなどは、後から付け加えてもよろしいと考えたのかもしれません。私たちがメモを取るような場合にも、これに似た操作を行ってはいないでしょうか。しかも漢文に似ているとは言っても、「略体表記」で表された作品も、日本語文の骨格をしっかり表しています。このことは「短歌」であるからという理由ばかりではなく、人麻呂が、日本語の表記を強く意識していることを示しているに違いありません。
 人麻呂はこればかりではなく、現代文に繋がる日本語の表記の改革を、数多く試みているようです。たとえば韻律です。記紀・万葉にも沢山収められている旋頭歌や俗謡を、宮廷歌にまで高めるために、五・七・五・七…というリズムを完成させ、長歌と反歌との組み合わせ、長歌の最後のリズムを繰り返して、反歌で長歌に応える形式を成立させています。また旋頭歌や俗謡の特徴である掛け合い形式を、長歌の中に包み込む形、あるいは長歌の中に、掛け合いでは表現し切れない詩句を取り入れる工夫など、人麻呂以後の宮廷歌人が挙ってこの形式に従うことで、歌人としての命脈を保つように見えるほどに、大きな足跡と影響を残しました。
 私はこの人麻呂の「略体表記」が、人類が文字表記を手にする最初期に、共通するあらがいを表しているように思われてなりません。中国の最初期、メソポタミアの最初期、ヘブライの最初期、あるいはエジプトの最初期、そしてギリシアの最初期の文字表記に、叶うならば、そのような資料に当たってみたい気持ちを強く持ったのでした。

 巻第八の特徴は、部立にあります。
 『古今和歌集』(九一四年成立)に始まる勅撰和歌集以後現在まで続く和歌、あるいは和歌・連歌・俳諧から生まれて、松尾芭蕉によって確立された俳句、このわが国の言語文化の底層を形作るのが、「四季」の観念です。巻第八は、日本人の心の底に脈打っている「春・夏・秋・冬」それぞれを詠われる和歌を集めることによって表現されます。
 私はけっして季節に敏感な方ではありません。夏が来れば暑いと感じ、冬が来れば寒いと感じる程度の感受性しか持ち合わせていないと思っておりましたし、それはほぼ正しい評価だと、現在も思っております。
 しかしかつて、『古今和歌集』に初めて触れたとき、私たちの先祖が、「季節」を和歌に詠むことに、詠まれた和歌を「季節」に分けていることに、もっと言えば、「季節」を和歌を詠む上での制度にしてきたことに、しかも私自身それに共感していることに、一驚したのでした。以後私も、四季の変化について、多少関心を持つようになったように思っております。
 現代の社会は、季節の変化から隔たりを見せているように見えますが、たとえば毎年三月の下旬が近づくと、誰しもが桜の開花を口にするようになりますし、秋になれば金木犀の香りを楽しむというように、常に季節の変化から受ける新鮮な喜びを満喫しようと、人々の心は手を広げて待ち構えているように見えます。地球の温暖化が進み、春と秋が短く、「四季」の変化ではなく、夏と冬が交互にやってくるように感じるようになって参りましたが、光源氏は瘧(おこり)に襲われますし、平清盛も熱帯性の熱病に犯されたことを思いますと、「季節」は決して一定の変化を繰り返してはいないことが知られます。私的なことを申せば、私の学んだ横浜の盲学校は、多摩川の河岸段丘の一つと言われる、海抜四〇メートルほどの丘の上にありましたが、そこには縄文時代の貝塚と、竪穴住居の跡がありました。つまり現在は海抜四〇メートルの丘の上であっても、縄文(恐らく中期)時代には、そこは海岸であったことが分かります。海面の高さが、数千年の間にこれだけ変化していること、既にそこには私たちの遠い祖先が生活していたことを思いますと、気候というものがこれほどに変化するものか、そういう中で日本人は、常に季節への関心を持ち続け、そこに期待と喜びを見出してきたことに、認識を新たにせずにはおられません。まして「四季」が、わが国最古の文献である『万葉集』への記載から文字として表されていることを思いますと、気候の変化が多少大きなものであっても、「季節」を受け止める心の構えは持ち続けられるでしょうし、こういう感受性を後世の人々に受け渡すことは、さほど難しいことではないと、暢気に、楽観的に思っております。勿論万葉人と現代人である私たちとは、異なるところが圧倒的に多いに違いありません。同様に後世の人々と私たちとも、大いに異なっているに違いありません。それはそれでよしとしても、何かが伝わるであろうことも、また間違いないことと思われます。
 以前、「『歳時記』に従って生活するようにすれば健康な生活が営める」ということを、ある本で読みました。難しいことかもしれませんが、心のどこかに収めておきたいと思っております。

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