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漢点字の散歩(60)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(11)

 私が拙稿を書き始めましたのは、視覚障害者の多くが、現在でも「文字はカナ文字で十分だ」と言っている現状を、何とかもう少し風通しよくしたいと思ってのことです。常識的には、わが国の文字の表記は「漢字仮名交じり」であることは誰も疑ってはおりませんし、実際にそのような文章が日々編まれております。ところが一旦視覚障害者だけの世界に入りますと、たちまちこれが非常識となってしまいます。どのように非常識となるのかと申しますと、ある日うっかり私が、「漢字を知らなければ本が読めないでしょう」と発言したことがありました。それに対して間髪を入れずに「読めない?!」という激しい反発を、何人かの視覚障害者からいただきました。それは実に激しいものでした。私は、「漢字仮名交じり」は、ここでは常識ではないのだ、と思わずにはおられませんでした。また後に思ったことですが、そこから受け取れるものは、彼らの漢字を知る機会を得なかったという現状を必死に隠蔽したいという願望と、「漢字の知識はなくても本は読めている」という、視覚障害者相互の確認への希求の現れなのではなかろうかということでした。互いに「漢字を知らなくても本は読めるんだ」と、肩を叩き合い、背中を叩き合って安心し合いたいという気持ちが、あの激しい反発として現れたものと思ったのでした。このことは、私が視覚障害者であって、そこには晴眼者の方はおられなかったという条件の元に生じた反応であって、もし晴眼者の方がそこにおられて、私と同じ発言をしたとしますと、どのような反応となるのかとも考えてみました。そこでは恐らく誰も声を出すことのないまま時間をやり過ごして、そのような発言はなかったようにしてしまうのではないか、そんな風に思ったものでした。わが国の視覚障害者が置かれている文字の情況はそのようなところにあって、しかも視覚障害者を取り巻く晴眼者の方々も、視覚障害者に文字の知識が大事なのだということを伝えようとお考えになる人は極めて僅かしかおられないのが現状です。さらに視覚障害者のいわゆる上層におられる方々から、「カナ文字がありながら、なぜ日本語は、カナ文字だけで書けないのだろうか、誠にご先祖様が恨めしい」などという言葉を耳にするに及びました。
 そこで私は、本会で開始した『萬葉集釋注』の漢点字訳を機に、力には余るとは承知しつつも、日本語の表記の始原とはどんなものかという見方で、「万葉集」を見ることにしたのでした。
 結論を急ぐ訳ではありませんが、一つ言えることがあるのではないかと、私は考えております。素人の権利として恐れることを忘れることにして申しますと、「万葉集」という歌集は、日本語で書かれた歌集ではないと考えます。
 「万葉集」は日本の最古の歌集で、日本語で書かれた最初の書物だというのが、一般に通用している捉え方としますと、そうではなく、その前の段階、日本語の表記に至るプロセスを、そのまま跡づけている歌集が、この「万葉集」だと言えるのではないか、このような考えに至りました。
 「万葉集」は歌集ではありますが、その後に現れる多くの歌集も同様ですが、歌だけで編まれている訳ではありません。その歌の作者や作歌に関わる情況を記した「題詞」が、先に置かれています。また、補足的な注釈である「左注」が、歌の後ろに置かれています。この「題詞」と「左注」は、決して少ない量ではありません。そしてここにある情報は、その対象とされる歌にとって、唯一無二と言えるものです。そしてこの「題詞」と「左注」は、漢文で書かれています。言い換えれば「万葉集」という歌集は、半分は漢文で書かれていて、歌の部分だけ日本語で書かれているということが言えます。さてこの日本語で書かれた歌ですが、全てが漢字によって書かれているという、現在の日本語文とは全く異なった様相を示すものでもあります。それは誠に無理からぬものがあって、当時は、文字と言えば、漢字しかなかったのですから、それは極めて自然な表記ということが言えます。
 以下に、何首かの歌を抽出します。

 籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告沙根 虚見津 山跡  乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名 倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼 名雄母  1

 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

 こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われこそば のらめ いへをもなをも

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可※國曽 蜻嶋 八間跡能國者  2

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには

 「万葉集」の冒頭の歌と2番目の歌です。冒頭の歌は雄略天皇の御製歌と題詞に記されているものです。2番目の歌は、舒明天皇の御製歌と記されています。
 1番の歌は、菜摘みをしている貴族の姫君たちに向かって、雄略天皇が呼びかけているものです。自分はこの国を治めている者だと宣言して、そこにいる姫君の1人に求婚しているというものです。
 2番目の歌は、舒明天皇が大和三山の1つである香具山にお登りになって、治めておられる大和の国をお眺めになって歌われたもので、「国見歌」と呼ばれるものです。大和の国の民の竈はいつでも煙が立っている、また海には多数の鴎が舞っている、何と豊かな国であろうか、と歌っておられます。

 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待  85
 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
 きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ

 如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物乎  86
 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
 かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを

 在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日  87
 ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに
 ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに

 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息  88
 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
 あきのたの ほのうへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ

 居明而 君乎者将待 奴婆珠乃 吾黒髪尓 霜者零騰文  89
 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも
 ゐあかして きみをばまたむ ぬばたまの わがくろかみに しもはふるとも

 右の85番から89番の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の作られた歌として載せられているものです。
 磐姫皇后は、仁徳天皇の皇后です。仁徳天皇が難波にお出ましになって、なかなかお戻りにならないことから、その寂しさを歌われたものとされています。
 85番の歌は、(天皇が)難波から大和になかなかお戻りになられない、お迎えに行こうかどうしようか、やはりお待ちしよう、と迷っておられます。この歌は、山上憶良の編んだと言われる『類聚歌林』に収録されていたものを採録したと、左注に記されています。
 86番の歌は、(天皇の)お帰りを待って待って、待っている内にますます恋しさが増して来る。この苦しさをどうしたらよいだろうか、と歌います。
 87番の歌は、あまりにも長い年月お帰りを待っているので、私の黒髪にもいつしか霜が降りてしまいましょう、と歌います。88番の歌は、秋の田も実って、稲穂の上に霧が立ち、朝霞がたなびく季節となりました。私の恋はいつまでつづくのでしょうか、と歌います。
 この4首の歌が磐姫の作られた歌として紹介されていますが、もう1首、89番に「或本の歌に曰(い)はく」として、87番の類歌が載せられています。
 その意味は、あなたのお帰りを、髪が白くなるまでお待ちします、というものです。左注に「右の1首は、古歌集(こかしふ)の中(うち)に出づ。」と記されています。すなわち、既にこのような歌があったということが述べられているのです。
 またもう1首、90番の歌として、

 君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  90
 君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
 きみがゆき けながくなりぬ やまたづの むかへをゆかむ まつにはまたじ

 この歌は85番とほぼ同じで、最後が迎えに行かなければ、と積極的な歌となっています。「記・紀」に乗っている歌で、85番の歌はこの歌を元としたものだ、と「万葉集」の編者から指摘されていることになります。
 磐姫は「記・紀」では、大変嫉妬深い女性として取り上げられている皇后です。初期の「万葉集」の時代である持統朝でも、そのように捉えられていたと言われます。「記・紀」では、夫である仁徳天皇が、八田皇女(やたのひめみこ)という女性を宮中に入れようとしていることを知って、熊野に隠遁してしまったと記されています。磐姫は、そのまま熊野で没したと言われます。そのことが、この「万葉集」にも、90番の歌の前後に、「題詞」として、また「左注」として紹介されていますので、ここに再録してみましょう。

(以下、90番の題詞)
 古事記に曰はく
 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予(いよ)の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追(お)ひ往(ゆ)く時に、歌ひて曰はく、

(以下、左注)
 右の1首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふところ同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて、日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、「難波の高津(なにはのたかつ)の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の22年の春正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに、天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。30年の秋9月、乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后、紀伊(き)の国に遊行(いでま)して熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに、天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて、八田皇女を娶(めと)りて宮の中(おほみやのうち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后、難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の、八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々」といふ。また曰はく、「遠(とほ)つ飛鳥(あすか)の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまのわくごのすくねのすめらみこと)の23年の春3月、甲午(きのえうま)の朔の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かたち)佳麗(きらきら)しく、見る者(ひと)おのづからに感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。24年の夏6月に、御羹(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇、異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(みだ)れ有り。けだしくは、親々(はらがらどち)相奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊予に移したまふ」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時に、この歌を見ず。

 やや長い引用になりましたし、拙論とは少々離れたものになりましたが、この題詞と左注では、90番の歌の出所について述べられております。題詞では、軽太子(允恭天皇の皇太子)が、同母妹の軽太郎女に恋情を持ち、軽太子は伊予の湯(現在の道後温泉)に流されたと伝えられる。その時に、軽太郎女が歌った歌としてここに掲げられたとしてあります。軽太郎女は、軽太子の後を追って、伊予に渡ったと伝えられます。
 しかし左注では、この歌には『古事記』と『類聚歌林』に説が分かれる。1つは、磐姫の歌った歌であるとして、仁徳天皇と八田皇女の件が語られ、そのために磐姫は熊野に隠れてしまったと記しています。もう1つが、同母兄妹のあってはならない恋愛に由来して、妹姫の歌った歌とされ、妹姫は、兄太子の後を追ったと伝えます。以上の題詞と左注の原文は、漢文で記されていて、現在私どもが読んでいるものは、後世の人が読み下して、あたかも日本語で書かれたような文章の形態になっております。文章そのものが古いからというだけでなく、原文が漢文であることからも、滑らかさを欠いた文章と感じられるのではないでしょうか。そして「万葉集」には、このような逸話が随所に織り込まれていて、編者の目論見を垣間見せてくれているように感じられます。

 ここまでの「万葉集」の表記は、漢字は訓読されていて、わが国最初期の文字表記の書でありながら、外国文字、しかも表意文字である漢字を、わが国の言語を表す文字として使用しているように見えます。また、現在ではカナ文字で表す助詞・助動詞・送り仮名も、カナ文字の開発にはまだ間が必要で、漢字の字音と訓読を借りて表しています。それらをそれぞれ「音仮名」と「訓仮名」と呼んでいますが、これがカナ文字の起こりであることは間違いありません。この原始的なカナ文字を、「万葉仮名」と呼んでいます。
 しかしながらそのように、「万葉集」は漢字を訓読して日本語を表した最初の書物であるとする見方は少々早計でなかろうか、という考えもあります。「万葉集」を既に日本語で読んでいて、原文をやり過ごすのに馴染んでいる私どもの、陥り易い誤りなのかもしれない、という議論です。現在私どもが「万葉集」を読む場合、原文では読みません。読まないのではなく、読めないのです。従って既に漢字仮名交じりになっている、日本語文の「万葉集」を、「万葉集」として読むことになります。その中に記されている漢字は、例外なく訓読されていますので、漢字の訓読は漢字の日本語の読みだと捉えるのも無理のないところかもしれません。しかしここにも1つのクエスチョンを添えて置くのもよいことだ、私にはそう思われます。この後にご紹介する人麻呂の2種の歌は、当時の表記の変化を、跡づけているように見えるからです。

 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞  36
 やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも
 やすみしし わがおほきみの きこしめす あめのしたに くにはしも さはにあれども やまかはの きよきかふちと みこころを よしののくにの はなぢらふ あきづののへに みやはしら ふとしきませば ももしきの おほみやひとは ふねなめて あさかはわたる ふなぎほひ ゆふかはわたる このかはの たゆることなく このやまの いやたかしらす みなそそく たきのみやこは みれどあかぬかも

 反歌
 雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟  37
 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む
 みれどあかぬ よしののかはの とこなめの たゆることなく またかへりみむ

 この36番と37番の歌は、天武天皇の崩御の後、持統天皇が吉野に行幸した折りに、柿本人麻呂が作ったものと言われる歌です。宮廷歌人としての人麻呂の傑作の1つと言われる歌です。持統天皇は、天武天皇の崩御の後、何度も吉野に行幸しておられます。天武・持統両天皇にとって、吉野は最も神聖な地であったと言われます。その神聖な地で、国を統治するための力を、神々から受け取ろうという願いから、幾度も行幸なさったのであろうと言われています。
 人麻呂の歌は、その吉野の山河の美しさ・雄大さを讃え、そしてそれに勝るとも劣らない天皇の威厳を讃えます。吉野の神々と天皇が、同列の権威をお持ちになっておられる、そのことは神々が認めておられるということです。人麻呂は宮廷歌をこのように書き上げて、宮廷歌のあり方を示したとも言えます。
 それとは別に人麻呂は、もう1つの歌の系列を表しました。

 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉  1247
 大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも
 {大穴道(おほなむち) 少御神(すくなみかみの) 作(つくらしし) 妹勢能山(いもせのやまを) 見吉(みらくしよしも)}

 吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与  1248
 我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きたらば 我れに告げこそ
 {吾妹子(わぎもこと) 見偲(みつつしのはむ) 奥藻(おきつもの) 花開在(はなさきたらば) 我告与(われにつげこそ)}

 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉  1249
 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも
 {君為(きみがため) 浮沼池(うきぬのいけの) 菱採(ひしつむと) 我染袖(わがそめしそで) 沾在哉(ぬれにけるかも)}

 妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮  1250
 妹がため 菅の実摘みに 行きし我れ 山道に惑ひ この日暮しつ
 {妹為(いもがため) 菅實採(すがのみつみに) 行吾(ゆきしわれ) 山路惑(やまぢにまとひ) 此日暮(このひくらしつ)}

 この4首の歌の表記の特徴の1つは、文字の数が極めて少ないところにあります。現在であればカナ文字で表記する助詞・助動詞・送り仮名が省略されているからです。このような表記を、「略体表記」と呼びます。この「略体表記」は、一見漢文に酷似しています。それもそのはずで、この「略体表記」の表記法は、漢文の文字の並びを、中国語の並びではなく、日本語の並びにしたものだからです。その意味で「略体表記」は、日本語の表記の第1歩だったと考えられているのです。
 しかし「万葉集」の歌について見れば、極めて綿密な定形に従っています。冒頭の雄略天皇の御製歌と舒明天皇の御製歌の歌の後の歌は、長歌は5・7の音律に忠実に従っておりますし、短歌は、恐らく長歌の最後の5・7・5・7・7を独立させたもので、長歌よりも自由度を獲得した表現を表すのに成功しております。
 しかしこの定形がどのようにして取られるようになったのかは、極めて難解な課題として残るようです。というのも、この定形は、遙か1千年以上後の現代でも、強い力で日本語を支配しているからです。試しにその辺の広告などから言葉を抜き取って見れば、それは5音と7音からなっていることがほとんどだということが分かります。
 その定形に乗せて日本語の表記を作ったのが、恐らく柿本人麻呂だったのでしょう。
 人麻呂はまず漢文の文字の並びを変えるところから始めたと言えましょう。そして中国語にはない、あるいは日本語のような形では存在しない助詞・助動詞・送り仮名を、まずは省略して後に足し加えながら読むという方法を採ったのではないでしょうか。
 しかし宮中の儀式に捧げる歌としては、それでは足りません。どうしても助詞・助動詞・送り仮名を、文字として加える必要が出てきました。そこで人麻呂は、訓読だけしてきた漢字を、音仮名や訓仮名として利用するという、画期的な方法を編み出した、ということだったのでしょう。これは多くの人の、集団の中から最大公約数的に定められたものではなく、人麻呂の強力な力業が為した成果だったのではないか、そう私には思われます。
 「万葉集」では、このような書記法が持統朝ばかりでなく、730年辺りの旅人や憶良にも取られています。しかし書記法にも変化が見られて、以下の大伴家持の歌のようなものに変わって行きました。

 橘乃 尓保敝流香可聞 保登等藝須 奈久欲乃雨尓 宇都路比奴良牟  3916
 橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ
 たちばなのにほへるかかも ほととぎす なくよのあめに うつろひぬらむ

 可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎  3959
 かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを
 かからむと かねてしりせば こしのうみの ありそのなみも みせましものを

 3916番の歌は、聖武天皇の子・安積皇子(あさかのみこ)の急死のためにできた休暇を利用して作ったという歌です。橘の香りと、時鳥の声を、静かに愛でています。
 3959番の歌は、越前守として今の福井県に赴任しているときに、弟の訃を知って作った歌です。挽歌です。越の海を見せてやりたかった、その思いがよく伝わる歌です。
 ここでは漢字を訓読したり、訓仮名を使ったりということはありません。極一部、山や河や橘などの訓読は見られますが、基本的に全て音仮名で記されております。これらの音仮名を、「万葉仮名」と呼び習わしてきました。この「万葉仮名」が、次の平安時代のいわゆる変体仮名の開花に繋がったのでした。
 これでやっと日本語の表記が、漢文から独立することになった、となれば誠によかったのですが、残念ながらそのようには参りませんでした。ご承知の通り現在では、漢字仮名交じり文が通用の表記法となって、漢字の日本語の表記に占めるところが大変大きいことを痛感させられることとなっております。
 1つには、家持の段階で、音仮名だけの表記が現れはしましたが、これは歌の世界だけのことで、わが国の正式の文書は、漢文であることが、つい先頃まで続いていたのでした。
 そして「意味」です。「意味」とは何ぞ?平安時代から今日まで、カナ文字で表記された文章は数限りなく存在しました。平安の女流文学は、本来カナ文字だけの文学だったのですが、現在残されているものは、漢字を交えた文章となっております。言わば仮名文学の最初期の書である「万葉集」が、何時しか漢字仮名交じり文になって、もともとがこのように書かれていたものと、誤った理解を導いております。
 漢字という文字は、強力な「意味」という力を蔵して、言葉を支配しております。そして日本語の音には、その「意味」を支えるだけの力がなかった、と考えれば、漢字とどう付き合って行くべきか、自ずと見えてくるのではないか、そんな風に私は考えております。漢字を知らないまま成人に達した己を振り返りますと、現在も漢字を知らないまま生活している視覚障害者に、どのように語りかけることができるか、残念ながら手探りであることには、変わりはありません。これまでの試みは、誠に残念ではありますが、なぜか強い反発をもたらすだけでした。また視覚障害者の周辺の晴眼者の皆様からのお力添えも、残念ながら得られずにおります。大変残念です。
 日本人であるならば、日本語の標準的な表記法を、是非自らのものにしていただけるよう、願って止みません。
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